第4話 浜辺の少女の4


 世界はこのとき反転した。

 とても、現実には起こるはずのないことを体験している。素直にそれを受けいれていた。起こるはずのないことが。起こっているのだ。

 ぼくはこのとき恋をした。つきあいたい、そしていつまでも一緒にいたい。そばを離れずにいたい。ついに、めぐりあった。ぼくの運命の女性だ。そう想える少女とめぐりあった。

 これからは……。いつもこの少女のそばにいたい。……毎日、ずっと、永遠に彼女と暮らしたい。彼女の顔を見ていたい。彼女を身近に感じていたい。

 ――この時はまだ、彼女にとって〈永遠〉ということが、どういうことか、わからなかった。これからは二人で〈時〉の流れを渡っていく、とこころに決めていた。

「この街もずいぶんかわったこと……。あんなところにホテルなんか建てたりして」

 少女は視線を川向こうに向けた。ぼくはまだ少女に熱い視線を向けている。停車場坂の麓。府中橋を渡る。白亜の壁面に残照をあびて朱にそまった建物がある。

 白鷺が茜色の空に舞っている。純白の羽が茜色の淡い光のなかで羽ばたいている。黄昏の光のなかを飛翔していた白鷺の数羽がホテルの屋上に止まった。

 なにも観光資源のない貧しい街だ。白鷺は市民に歓迎されている。この黒川の上流、見野地区には白鳥も飛来している。マスコミの話題になってくれることを市民は望んでいる。

「白鷺がくるようになったのね。静かな街ですものね」

 河畔に在るのでリバサイドホテル。

「だれかに見られている……何が起きても、ついてくる勇気はある?」

 ぼくもチクチクするような視線を感じた。距離はある。どこか遠くからそそがれている悪意に満ちた、刺すような視線だ。額に突きがくる。面を打たれるような気だ。こげくさい。危険だ。

 無言で少女の後を追った。たしかに二人を注視しているものがいる。

 ホテルの最上階にあるレストラン『ソラリス』の卓に二人でついた。

「カプチーノ」

「ぼくもおなじもの」

 ウエトレスが去っていく。レストランの壁に、ポスターがはられていた。〈デスロック『サタン』凱旋公演〉ヴォーカルの福沢秀人の出身が鹿沼なのだ。そして彼とはぼくは北小学校から西中学までの九年間一緒だった。親友といっもいい。ちょっとの間でも、会えることを望んでいた。でも、秀人から連絡のメールは入っていない。超いそがしいのだろう。

 震災地東北ツァーの前夜祭を、一夜限りの公演として黒川の河川敷でやるのだ。ツァーのついでに、鹿沼にも寄るというのが、ほんとうのところなのだろう。そういえば、歩道のパイプ製のガードレールにも〈歓迎サタン〉の幟が立ち並んでいた。

 ぼくはポスターを眺めていた。少女を正面から見るのが照れくさかった。秀人のデスロックに思いをはせていると、少女が話しかけてきた。

 二人で向かい合って席についたのに、なにを話したらいいのか、戸惑っていた。胸の鼓動がはやい。ときめいている。

「さあ、この街のことをきかせて」

 こころにひびいてくるきれいな声だ。天使の歌声を聴いているようだ。

「ひさしぶりなのよ……」

 少女は、なつかしそうにピクチャウインドウから眼下の川を見下ろしていた。

 澄んだ流れ。清流といってよかった。街の中央を川底までみえるような澄んだ川が流れている。ゆったりと蛇行しながら鹿沼の街を流れる川。

 白鷺や小鳥が水面をとびかっている。河川敷は広々とした公園になっている。いろいろな遊具がある。子どもたちが、ブランコやすべり台で遊んでいる。離れているので声は聞こえない。

 コスモスの咲きかけているロータリーの周囲を散歩しているひとたちがいる。去り行く夏の平和な夕暮れ時。

「黒川。黒い川。たしか……そんな名前の川だったわね。わたしの名前は、過ぎいく夏をなつかしみ、夏子。黒川夏子。平凡な名前かもしれないけど、どう……お気にめした」

 彼女はひとのこころをよめる。

 予知能力でもあるかのように。

 こちらのこころをよんでしまう。

 スペックホルダーなのか? 

 未来がみえるのか。

「ひさしぶりなんて。あなたはまだ少女だ。ぼくをからかっているのですか」

「わたしは少女ではないの。わたしは――吸血鬼なのよ。そして、あなたが思っているよりも、はるかに年上よ。わかる……?」

「――わかります」

 思わず応えてしまった。ぼくはすこし声が高くなっていた。

「隼人さん。わかって、もらえてうれしいわ」

「ぼくの名前をどうして」

 夏子がぼくの耳に唇をよせてささやく。

「わたしは…………バンパイア。100と数年ぶりで故郷の鹿沼の土が恋しくてもどってきたのよ。わたしは時の旅人。時空を超えたもの。……隼人、ムンクのような絵描きになりたい? してあげられるわよ。隼人がつけてきたときから、リンシードオイルの匂いがしていたわ。あなたが絵を描いていることはわかっていた。わたしには皐隼人。あなたを日本のムンクにできるのよ。だって……わたしは隼人が思ったように〈浜辺の少女〉。そしてムンクの銅版画。〈吸血鬼〉のモデルですもの」

 ぼくはムンクの描いた〈女の髪に埋まる男の顔〉を思い起こした。

 男のあの恐怖。あれはほんものだった。

 ほんものの吸血鬼に会った恐怖の顔だったのだ。

 少女であって、そして吸血鬼。

「叫び」のあの頬を両手で押さえている顔。

 赤い空を背景にゆがんでいる顔。

 吸血鬼を見てしまった男の恐怖の顔。

 吸血鬼を愛してしまった。体験からくる恐怖だった。美しい恋人は、この世のものでない。吸血鬼。女であって、吸血鬼。秘密を知ってしまった恐怖。

 長く横にのびてきた髪に埋まり恍惚として恐怖する。

 あの死への招待にふるえる顔。

 吸血鬼の髪にからめとられたおののきとよろこび。男の心象が隼人の心にひびいてきた。

 あれはまさに、吸血鬼に恋した男の顔だった。

 そして……なんとしたことか。

 ぼくもまた夏子に恋をした。好きだ。ずっとまえから好きだった。ずっとまえから、つきあっていたような気がする。

 男をとらえた金髪が……いま……たゆたゆとのびてぼくに迫る。

 髪の色は……黒髪にかわっていた。

 美しい。

 夏子さん。あなたは美しすぎる。

 金縛りにあったように身動きできない。

 風景がゆらぐ。

 卓と椅子、コーヒーカップ、あらゆるものから現実感がうすらいでいく

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