ババアの叡智袋:Bパート
……炎の土俵の中央、二メートルほどの距離で向かい合うふたつの人影。片方はヨシホ、片方は鬼婆。共に息は荒く、体中泥汗まみれで、あちこち傷がある。どちらも立っているのがやっとだった。
ヨシホは、ババアの尋常でない殺意を感じていた。ババアは本気だ。脅しばかり達者な不良気取りとはワケが違う。『やるなら半殺し以上』を信条に二度の出席停止を喰らったヨシホが、若干のシンパシーを感じるほどである。
ババアの炎に呑まれ、ヨシホは何度も死を意識した。だがその度に訪れたのは、己をひんやりと癒す何か。それはヨシホに、再び立ち向かう力をもたらした。心も体も誰にも渡さぬ。誰の思い通りにもならぬ。その若き絶対的エゴイズムを貫く力を!
「ナメんじゃねぇぞォ!」
『ヴァアアァアァ!』
ヨシホとババアは同時に地面を蹴った! そして大きく拳を振りかぶると、相手の顔面に全身全霊を……叩き込む! 交差する腕! 何かが破裂したかのような音! お互いのパンチが! お互いの顔に! 刺さった!
一瞬のズレもなく、ふたりは泥の上にべしゃりと倒れ込んだ。ヨシホはもう動けぬ。これでダメなら大人しく死ぬしかない……が、相手も起き上る気配は無い。引き分け。なら、良し。ヨシホは弱々しく微笑んだ。
『ヴァ、アァ』
が。ヨシホは見た。ババアが血の涙を流しているのを。立ち上がれぬ自分を呪うかのように。
『ヴァ、アァア、滅ぼす……』
「……なぁ、なんでそこまで滅ぼしてぇの?」
ヨシホは真顔になり、倒れたまま問うた。
「人魚をボコるのはさ、そりゃ当然だよ。でもさ、みんな無事に帰って来て、アイツらが土下座でもするなら、アタシは許してもいい」
『ァア滅ぼすァ』
「だろ、アンタはそれでも滅ぼしたいんだろ? よっぽど人魚と何かあったのかよ?」
ヨシホの問いに答えるように、老婆は歯ぎしりをする。黒い泥がボコボコと沸き立つ。大きく盛り上がった泥は徐々に二つの縦長い塊となり……やがてそれは、手を繋ぐふたりの女と化した。頭と腰に白い布を巻いただけの、十代と思しき娘。もうひとりは、どこか幼い顔立ちの……人魚。
仮想現実めいて動き出したそれは、鬼婆の記憶そのものであった。
大き過ぎる液晶テレビとマッサージチェアが妙に存在感を放つ、物の多い畳張りの居間。ちゃぶ台の周りに座布団を敷き、二人の少女、そしてサングラスの老婦が座っていた。濡れた服は洗濯機の中。シャワーを浴びた娘らは、禍々しいプリントのバンドTに着替えていた。目の前には熱い緑茶と、細長い個包装のお菓子。それらは娘らの心身に若干の安らぎをもたらした。
「ふぅ、少し落ち着いたみたい。静かになった」
やがて奥の間から、バンドTのアルが戻ってきた。
「鎧が脱げたら絶対涼しいのに」
奥の間には、布団の上に横たわる老婆。尋常ならざる熱を放っている。冷房を最大に効かせねば、部屋自体が蒸し風呂と化すほどだ。冷却シートを額に貼ったり、鎧の上から濡れタオルを置いたりしているが、かなりのペースで取り換えねばならない。アルはこの作業を積極的にこなしていた。
「……ねえ、そろそろ教えて。人魚のことと、グランオウナーのこと」
茶を飲んで一息ついたアルは、改めておばあに請うた。
「それじゃあ、要点をかいつまんで話そうかね」
少女らが見守る中、老婦はサングラスを外し、静かに唇を開いた。
「海の民、つまり人魚だね。アイツらは何百年に一度現れては、村の若い娘をさらってたらしい。村人は、地震や台風みたいにアレを畏れるしかなかった。
そんなこの村に、昔、若い海女見習いがおった。丁度アルちゃんくらいかね。潜るのが下手で、怒られてばかりだったそうな。なんでこんなに下手なのかって、ある晩娘は浜辺で泣いとった。そこに……幼い人魚がひとりで現れた。
迷子か夜遊びか分からんけれども。とにかくその人魚は泣いてる娘を哀れに思って、潜り方を教えてやった。人魚は毎夜やって来て、娘も毎晩浜で待ち。娘はみるみる上達して……そして誰より上手くなった頃、ふたりは恋に落ちてた。
人魚は、自分の肉を食べてほしいと言ったそうな。人魚を食べると不老長寿になるって聞いたことあるだろ。ずっと一緒に、って、まあ今で言うプロポーズだね。喜んで、と娘はそれを食べた。人魚は大いに喜んで、明日迎えに来ると海へ戻って行った。そして……二度と現れなかった。
理由は分からん。でも結果はひとつだ。周りの腰が曲がっても、娘の見た目はようやく二十歳くらい。知人は皆死ぬ、周りからは気味悪がられる。それでも娘はずっと待ってた。とうとう娘は化物扱いされ、村から追い出された。娘は山に隠れて待ち続けたけど……限界があるわいね。
娘は人魚を恨み始めた。何故来てくれない、ってね。ずっと孤独で、化物呼ばわりで、憎しみは募る一方。気の遠くなるほど時が流れ……やがて、人魚の群れがやって来た。村の娘をさらいにね。やっとか、って娘は山から飛び出したが、そこにあの人魚の姿は無い。娘の怒りは爆発した。
醜い鬼と化した娘は、人魚を素手で引きちぎり、貪り喰ったそうな。人魚が恐れをなして逃げ出すと、今度は村人を同じように襲い始めた。村を救うため、勇敢な武士や呪術師が集まってね。それでようやく封印して、お宮を作って、そこで祀った。気付いてるだろうけど、この封印された鬼が惧濫媼だよ」
おばあがゆっくりと語る間、娘達はひと言も発しはしなかった。休憩を入れるように、おばあは再び茶をひと口飲む。何秒もの沈黙が続き……そして、アルが言った。
「……おかしくない?」
二人はきょとんとし、おばあは若干苦い顔をした。
「だってその話の通りなら、グランオウナーは人間も襲うはずでしょ。でも私のことは助けてくれた。ふたりもグランオウナーに会ったんでしょ? なのに無事だし」
二人の少女も確かにと納得し、答えを求めておばあを見た。三人分の視線を浴びたおばあは、深くため息をついた。
「問題はそこなんだよ。このお話には続きがあってね。結局その後八百年に渡って、人魚は現れなかったけども……人魚を撃退できたとして、次に考えることがあるだろ」
娘達は数秒考え……やがて、アルの向かいにいた少女が答えた。
「――次はいつ来るか?」
「そう。人魚が次来た時、惧濫媼が人魚を倒してくれれば、なおかつ人間を襲わなければ。これほど良いことは無い。呪術師の家は惧濫媼を使役する研究を始めた。人間に従順で、敵への憎しみは強く。強くて扱いやすい怪物……都合のいい話だよ。
村の穢れ無い乙女が、惧濫媼の依代になった。でも現れたのは、居もしない人魚を探して暴れ回るだけの、話の通じない怪物さ。呪術師は再びこれを封じたけども、お宮に近付くだけで人が病気になったり、気が狂ったりするようになった。下手にいじったせいでパワーアップしちゃったのかね。
結局あのお宮には、呪術師の家のモン以外は入っちゃいかんと決まった。今の子はお宮があること自体知らんだろ。お宮に続く石段も、アタシらが小さい頃壊されたからね。東の山には入るなっていうのは何となく聞いてるかい」
三人はこくりと頷いた。
「呪術師の……つまり神主の家だね。あのお家が途絶えた時、惧濫媼を扱えるモンは誰もいなくなった。じゃあもう触らぬ神に祟りなしだってね、武士の家の長が……つまり、当時の村長だった福島のジジイがそう決めたのさ」
「福島……って、タマ姉の!?」
突然出たタマの名に、アルは思わず大声を上げた。
「そうだよ。あそこのボウズも今は県会議員だったかね……ああ、ボウズってのはタマちゃんの親父さんだね」
タマの家が金持ちなのは知っていたし、アルや友人も時々『タマお嬢様』と呼んでからかうことがあったが、そのような家庭だったとは。アル以外も初めて知ったようであった。
「ともかく。アルちゃんの話が事実なら、神主の封印はまだいくらか効いてるんだろうよ。今の惧濫媼は、人魚だけ殺す化物だ。村人を巻き込むことはあるかもしれないけどね。でも、何かの弾みに人間への恨みを思い出したら、どうなるか……」
誰が気付いたろうか。その時、グランオウナーの右手が、ぴくりと動いたことに。
「……おかしくね?」
記憶の再生が終わり、炎の土俵も消え、再び闇が戻った。その時ヨシホが開口一番言ったのが、その台詞である。
「なぁ、婆さん。人魚にキレるのはまぁ分かる。でもさ、なんで人魚だけなんだよ」
『ア、アァ?』
「婆さんいじめたのは村人だろ? ちょっと長生きしたくれぇで化けモンだ何だって追い出して。挙句の果てに何百年も封印って。アタシそっちのがムカつくわ」
老婆はしばし考え込み……そして、にわかに吠え声で怒りを表明し始めた。
『ヴァア! ヴァアァ!』
「なっ、そうだろ。昔から陰険だったんだなここの奴って。少し変わったモンは認めねぇ、排他的ってぇの? アタシも思ってたんだよ、この村クソだよな。遊び場もバイトもねぇ、携帯の電波もギリ、ネット通販の荷物はすぐ届かねぇ、坂は多い、そんで頭固い年寄りばっか。うちのババアもでさ、マジ最悪」
ヨシホの語気も自然に荒くなっていた。老婆の怒りに呑まれたからか。否、共鳴しているのだ、老婆の深く激しい怒りと、ヨシホの若く尊大なフラストレーションが。ふたりを中心とした波紋が、泥の上に刻まれ始めた。
「婆さん。どうせアタシの体が無きゃダメなんだろ。協力しねぇか」
ヨシホは、震える右手をババアへと伸ばした。
「まずはみんなを助ける。そこだけは譲らねぇ。そしたらその後は、人魚も村の奴も全員が泣いて謝るまで分からせようぜ。アタシらをナメたらえらい目に遭うって。婆さんとアタシの力があればできるって」
『ヴァ……わ、からせ』
「喋れんじゃん。そうそう、気付かせんだよ。ひとりずつ何回も、アタシらに気を付けろって」
『ヴァ、アァア!』
ババアもまた弱った体を動かし、その手を……取った!
瞬間、地面の揺れる感覚! 泥が大きく沸騰! 暗き闇の底から泥をかき分け現れたのは、黄金で紡がれし、見上げるように巨大な……巾着袋!
「なっ、何だありゃあ!?」
ヨシホもババアも、今は理解できぬ! それが、かつて封印されたババアの力であると! その禁じられた叡智袋が、今口を開こうとしているのだと!
「ウオオォォツ!?」
『ヴァアアァァッ!』
体中に力のみなぎる感覚! 高揚感! 人智を超えしババアと再び、そしてより深く合一となる感覚! ヨシホは、否、ババアは、それも否! 敢えて表現するならば、老婆の執念と若き飢餓感を兼ね備えた戦士、グランオウナーは! 再び叫んだ!
『
瞬間、布団に寝かされていたグランオウナーの体もまた、まばゆい光を放った!
「うわっ!」
「ふ、伏せな!」
光に呑み込まれる奥の間、そして居間! 数秒続いたそれが収まり、四人が顔を上げた……そこには!
「あっ……!?」
しっかりとその足で立つ、グランオウナー! しかし以前の姿とは違う! 白髪に交じるメッシュめいた黒髪! 歌舞伎役者、あるいはメタルバンドのメイクめいて黒く縁取られた目! そして、紫色はそのままに、刺繍めいて黄金の花文が刻まれた鎧!
「きょ、強化、
鬼は、娘達へ順番に視線を遣った。そして思い出したように部屋の隅を見た。古いラジカセ。その上には、ヨシホの好きなメタルバンドのファーストアルバム。グランオウナーは突如それに歩み寄ると、慣れた手つきでラジカセを操作し始めた。ケースの中身は空。CDは既にラジカセの中。グランオウナーはそれを確認し、そして尋常でない音量でCDを再生し始めた。
「うわっ!?」
流れ出したのは、CDの一曲目、勇壮なるアルバムタイトル曲。般若は納得したように頷くと、台所の戸を開けた。
「あ、えっ?」
アルが立ち上がり、それを追う。他の三人も恐る恐るそれに続いた。グランオウナーは冷蔵庫の前に座り込み、中身を次々喰らっている。生肉、魚。里芋の煮つけ、キュウリの酢の物、ゴボウのきんぴら。コンビニの冷凍ピザ、唐揚げ、ポテト、凍ったまま。やがて曲のサビが終わる頃……グランオウナーは、若干炭酸の抜けたサイダーを、一・五リットルペットボトル一本分、一気に飲み干した。あちこちに受けていた傷は、いつの間にか治っていた。
「……グランオウナー!」
アルがようやく我に返り、鬼へと駆け寄った。
「タマ姉が、ヨシホが! 他にも沢山! 大切な人がさらわれたの!」
グランオウナーは、じっとアルを視線を合わせた。アルを助けた時のどこか懐かしい感覚と、放り投げた時の狂気。その目にはそれらが同居していた。
「お願い、みんなを助けて!私は、私はなんにも――!」
グランオウナーはアルの胸を優しく小突き、立ち上がった。同時に、側にいた老婦を睨みつける。二人の娘をかばうように立っていたおばあは、思わず一歩後ずさった。
「ぐ、惧濫媼」
般若は、ずんずんとおばあへ近寄り……目の前で中指を突き立てた。
「……!?」
おばあは思い出していた。何時間も前、自分に同じジェスチャーをする不良娘がいたことを。部屋でやかましく品の無い音楽を聴いていたので、居間に呼び出し咎めた。やがて喧嘩になり、孫娘は捨て台詞と共に中指を突き立て、家を飛び出していった。
(よく聴きもしねぇのにギャーギャーと! アタシはなぁ、結婚して子作りする為に生まれたわけじゃねぇんだよ!)
去り際の言葉が、おばあの胸で再び鳴り響く。ババア手ひとつで孫を育てた女の中で、何かが繋がりかけた。それがハッキリとした結論と化すより早く、グランオウナーは玄関の戸を開け、雨と闇の中へと駆け出していた。爆音で流れるメタルを背中で聴きながら。その鎧から黄金めいた輝きを放ちながら。爆発するような力を全身にみなぎらせながら。
開け放たれた玄関へ向け、おばあはただ震える手を合わせた。それは祈りであった。孫達が無事に帰ってくるように。帰って来た孫娘に、部屋からこっそり拝借したCDの感想を言えるように。そしてあの鬼神に、その願いを聴き届けるだけの慈悲があるように……!
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