第三話『ババアの叡智袋』
ババアの叡智袋:Aパート
孰波村は、今や陸の孤島であった。村と外を繋ぐ道路は、土砂崩れで埋まっている。雨のせいか人魚の工作か、村人は想像するしかない。その想像という行為すら、大多数の村人ができぬ状態にあるのだ。
幼子から老人まで、ほとんどの村人が海辺で倒れていた。操り人形の糸が切れたのだ。じきに目覚めるだろうが、その時には全てが手遅れ。村の娘は二度と戻らぬ。村全体がその手助けをした。そして、その事実を彼らは思い出せもせぬのである。
そんな海岸から少し離れた道路に転がるのは、鋼鉄を纏い大包丁を背負った……ババア。ビニール傘を持ってそれを見下ろすは、アルと、サングラスをかけた……ババア。
「惧濫媼」
ヨシホのおばあは震えていた。
「生きてるうちに見ることになるなんて」
「やっぱり知ってるの? グランオウナーのことも、人魚のことも」
側に停まるバンの中には、女子中学生が二人。少し前は教室で震えていた二人は、今も不安げな視線を外へ送っている。彼女らの気持ちを代弁するように、アルは訊ねた。
「教えてくれる?」
老婦は一瞬間を置き、深くため息をついた。
「隠してたわけじゃないよ。今時の若いモンは御伽噺よりテレビかケータイでしょうが。爺婆の話なんか聞きゃしないんだもの」
おばあは首を横に振る。
「ヨシホもそうだったよ。なんであんなじゃじゃ馬に育っちまったんだか……その挙句人魚の嫁なんて。顔向けできないよ、ご先祖様にも、あの世の息子らにも」
おばあの声のトーンが段々と落ちていくのを、アルは複雑な表情で見ていた。仕方なかったとはいえ、そのヨシホを置いて逃げる決断をしたのは自分。何と声を掛ければいいか分からぬうちに、おばあはハッと顔を上げた。
「ごめんよ、そんな場合じゃなかったね。立ち話も何だ、場所を変えてゆっくり話そう」
そう言った老婦は、足元の怪物に改めて視線を落とした。
「しかしどうしたモンかね」
「……グランオウナーを?」
「こいつは言ってみれば妖怪の類だ。これを封じた神主様のお家は戦争で途絶えてね。対処できる人がいないのよ。今は気を失ってるけど、起きたら何をしでかすか」
「……あのさ、おばあ。助けてあげられないかな、怪我してるし」
老婦は、アルの提案を理解しかねたようだった。
「アルちゃん言ったろ、こいつは――」
「助けられたんだ、グランオウナーに」
おばあの言葉を、アルが遮った。
「滅茶苦茶怖かったし、人魚をすごい殺し方してたけど。さらわれるとこだった私を助けてくれたのもホントで。案外話せば分かるかも」
「いや、でもそれはねぇ……ウゥム」
おばあは考えあぐねているようだった。
「ちゃんと頼んだら、みんなのこと助けてくれるかもしれない」
「ウム……化物には化物をぶつけるか、確かにそれくらいしか、でもねぇ」
「おばあ」
おばあはしばし沈黙。アルは一分ほどそれをじっと見守っていた。やがて老婦は大きく深呼吸すると、
「ふたりを呼んでおいで。アタシは車を動かす。みんなでやらなきゃ乗せられんよ」
そう決断した。
「でもね、本当に危ないんだよこいつは。後で改めて話すから、ちゃんと話聴くんだよ」
アルは大きく頷くと、少女達を呼びにバンへ走り出した。祈りと畏怖のない交ぜになった目で、おばあはグランオウナーを再び見下ろす。
「ヴァアァ、ア」
それに呼応するように、グランオウナーは眠ったまま小さく唸った。
『ヴァアァ、ア』
その声で、ヨシホは目を覚ました。泥めいた感触の地面。周囲は闇。自分の姿だけがハッキリ見える。若いままの姿。そして裸。
「何だコレ」
ヨシホは体を起こす。黒いドロドロが、体を伝って落ちた。
『滅、ぼす』
再び声。同時に、目の前で紫の炎が立ち上った。それはおぼろげな人の輪郭を作り出す。見覚えがあった。あの包丁を抜いた時、ヨシホに迫った炎の人影。
「テメェだな? アタシの中で暴れてたの」
『ヴァア、滅ぼ、す』
「何が滅ぼすだ、人のことババアにしやがって」
足腰の弱い老人めいた足取りで、炎はこちらに近付く。一歩ごとに体から火の粉が剥がれ落ち、地面に落ちた。それは、排泄物を自力処理できなくなった者のようにも見える。
『滅、ぼす』
「テメェが考えなしに割り込んで邪魔しなきゃな、今頃タマ姉は助かってんだよ」
理解できぬ状況、迫りくる人影。本来なら恐怖して然るべきである。そこでヨシホが選択したのは、あろうことか、拳を握ることだった。
「アタシの体だ、アタシのモンだ。テメェが誰か知らんが、菓子折持って三つ指ついて『大変失礼致します、貴女様の体を使わせていただけませんか』が筋だろが」
ヨシホを喧嘩腰にさせた理由は様々である。が、突き詰めればシンプルだった。
「コンビニでバイトの若造相手に偉ぶるタイプだろテメェ。金だけ置いてさっさとくたばれや」
ヨシホが一番嫌いなのは、態度のデカい老人だったからである!
『ヴァアァ!』
挑発が理解できたか。影が叫ぶと、周囲に土俵めいた炎の壁が形成された。影は段々と明確な形を取り……そこに、全裸の鬼婆が現れた。鏡で見た己の姿と少々人相が違うが、角や牙の存在は変わらぬ。
『滅、滅ぼすアァ!』
「ボケババア、力だけ使わせろ。あと元の姿に戻せ。そんであとは黙ってろ」
ヨシホの態度のなんと不遜なことか!
肋骨の浮き出た老婆は、髪を振り乱し獣めいてヨシホに飛び掛かった! ヨシホは高速で泥の上に組み敷かれ、肩を噛まれた! 燃え出す傷口!
「あ゛ぁあ、ナメんな!」
ヨシホの拳が老婆の頬を襲う! 続いてこめかみ、耳、再び頬! 老婆が口を離した瞬間、ヨシホは逆にマウントを取り返し、老婆の顔面をしこたま殴る!
『ヴァアァ滅ぼォ!』
老婆もただ殴られはせぬ! その爪をヨシホに突き立てた! 焦げ付くヨシホの肌!
「ウオォアァ何ともねぇぞォ! 見た目だけか畜生がァ!」
ふたりは取っ組み合い、極めて原始的な暴力勝負を続けた! 炎と泥と血と汗を、その全身から飛び散らせながら……!
……貝殻が開く。光が差し込む。女達が引きずり出される。
そこに広がる光景に、タマは思わず息を飲んだ。海水と大気を、透明な何かがドーム状に隔てている。外は深海にもかかわらず、ドーム内側には光。そして、眼前にそびえる御殿。地上に無い工法、石めいたよく分からぬ素材。歪な曲線が寄り集まったような、奇怪な外見。
「竜宮城……?」
直視し続けると不安を呼び起こすその建造物を、少女の誰かがそう呼んだ。その間にも小柄な人魚が現れ、亀を引いてどこかへ去ってゆく。
「行クゾ、オ前達」
それを横目に見ながら、娘達は砂の上を進んだ。案内役は、自分達をここまで連れて来た人魚。
「案ズルナ、我々ガオ前達ヲ食ワセル」
少女らの重い空気を察してか、人魚が声を掛けた。
「従順ニスルナラ、アル程度自由モアル。心身ノ健康ハ大切ダカラナ。アア、歓迎ノ宴モ用意シテアルト聞イタゾ」
彼女のトークで気分の上がった娘は誰もいない。人魚は肩をすくめた。
「楽ソウナノニナ、贅沢シテ子ヲ産ムダケノ一生モ」
タマは思い出した。陸の家族を。ヨシホと会う少し前、父親から見せられた男の写真を。一回り年上だと聞いた。その場は適当に誤魔化したが、何かが抑え切れずジャージのまま家を飛び出したのだった。考えれば考えるほど、タマの目は濁った。
「マアイイ。コレカラオ前達ハ一旦長老ニ――」
「遅イッ!」
突然の怒鳴り声に、俯いていた娘達も一斉に飛び上がった。
「ウツボ! マタオ前デスカッ、他ノ者ハモウトックニ戻ッテイマスヨッ!」
いかめしい玄関からツブリボラの杖をつき現れたのは……ババア。他の人魚と比べ明らかに背は低く、痩せ衰え、顔は皺まみれ、乳は長く垂れ下がっている。何より異様なのはその頭。髪が全て蛸めいた触手に置き換わっているのだ。
「長老! イエ、私ハ」
「マタ言イ訳デスカッ!」
「不測ノ事態ガッ」
「イルカカラ聞キマシタ! 不測ナモノデスカ、何度モ言イマシタヨ、陸ハ恐ロシイ場所ダト! オ前達ハイツモ人ノ話ヲ――」
ウツボと呼ばれた人魚が説教を受ける間、娘達は何とも言えぬ顔で立ち尽くしていた。
「――マアイイデス」
やがて気が済んだらしい長老は、娘達を大きな目でぎょろりと見た。
「急ギ検査ヲシマショウ。タダデサエ数ガ少ナインデス、×××ガ居ナイヨウ祈リマスヨ」
長老の言葉が、タマにはよく聞き取れなかった。日本語に無い発音の含まれる、何かとても嫌な意味の単語であるように思えた。だが、それについて検討する間も無く、少女らの体に何かが絡みついた!
「ひっ!?」
それは長老の触手髪であった! ぬめる触手を一人ひとりの服の下に滑り込ませ、体中這わせながら吸盤から超音波振動を連続で発する! 気持ち悪さやくすぐったさ、その他様々な感覚から上がる悲鳴!
「静カニナサイ! ……ウム、少々若過ギルノモイマスガ、概ネ――ムッ?」
突然表情を険しくした老婆は、触手髪をほどいた。タマ以外から。次の瞬間、それら全てがタマひとりを襲った!
「へわひゃひゃふぁあぁ!?」
全身をくまなく触手で舐め回され、振動を送られるタマ! 涙と声が同時に溢れ、表情が壊れる! 長老は数十秒それを続け、表情をにわかに険しくすると、パッとその触手を放した。砂の上にタマはふらりと倒れる。直後。
「ウツボォ!」
長老が突如として怒声を上げ、ウツボが杖でしこたま殴られ始めた。何故彼女が暴行を受けているのか、すぐ理解できた娘は誰もいなかった。
「×××ガ交ジッテイマスヨ、ドウイウコトデスカ!」
「痛ッ、私ジャ分カランカラ長老ガ検査スルンジャナ痛ッ!」
「口答エバカリ! スグ戻シテキナサイ! 我々ガドンナ状況カ分カルデショウ! 子モ産メヌ×××ヲ養ウ暇モ余裕モアリマセン!」
ヒステリックにウツボを殴る老婆を見上げつつ、タマは何となく察した。×××というのは、子を成せぬ女を示す侮蔑的言葉であろうと。そして彼女は、タマがそうだと言っているようだと。
……それが何を意味するか未だよく呑み込めぬまま、殴られるウツボをタマはただ眺めていた。
ドームの外に広がるのは、ただ、深く冷たい海の闇。
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