婆のように舞い、婆のように刺す:Bパート

 体中を濡らすシャワーめいた水。激しい揺れ。生臭くぬめる感触。

 アルは目を覚ました。雨の中を走る人魚の腕で。


「えっ!?」


 即座に思い出す。

 暗い教室。何人もの大人、人魚。僅かな少女達。

 タマと逃げてきた。ヨシホを置いて。


「みんな!? ヨシホ!?」

「起キタノカ面倒ナ!」


 人魚が舌打ちした。

 アルは周囲を見回す。

 雨の中、人魚はその脚力で屋根から屋根へ飛び移っていた。

 すぐ側に、似た状況の人魚がもうひとり。その腕には。


「タマ姉!」

「アルちゃん!」


 最悪。皆捕まったのか。

 だが何か妙だ。人魚達は焦っている。何かから逃げるように。

 アルは精一杯首を伸ばし、人魚らの後方を確かめ――。


「ヴァアアァア!」

「わああぁあ!?」


 ババアである!

 紫の鎧を纏った鬼婆が、こちらへ急速に迫っていた!


「何なのアレ、妖怪大戦争!?」

「ぐ、グランオウナー! 強いおばあさん!」


 タマの説明がまるで理解できぬ!


「クソ、ナンデコンナ目エェエ!?」


 アルを抱く人魚の足元が、突如崩れた!

 グランオウナーが、足場をその拳で砕いたのだ!


「わあぁあ!」

「アルちゃあぁん!」


 人魚の腕を離れ、悲鳴と共に落下するアル!

 遠ざかるタマ! 近付くアスファルト!

 二階程度の高さとはいえ、この勢いは――!


 だが、落下の衝撃がアルを襲うことはなかった。

 雷の如き勢いで駆け付けた何かが、アルを受け止めたのだから。

 グランオウナーである!


(今、上、早ッ!?)


 グランオウナーは、アルの顔を見ていた。

 アルもまた、その皺だらけの顔を見た。

 恐ろしい。が、どこか懐かしさもある。


「あ、ありが――え?」


 だがそれは一瞬だった!

 鬼婆の表情が、バキバキと憎しみに染まっていく!

 同時にアルは感じた、老婆の鎧が急速に熱を帯びていくのを! 何かが乗り移ったように!

 アルはいきなり地面に投げ捨てられた!


「えッ結局!?」


 見上げると、グランオウナーの全身から蒸気!

 雨粒が即座に蒸発しているのだ!


「ヴァアーアァア!」


 鬼婆は狂ったように飛び掛かった! 地面に叩き付けられた人魚へ!

 執拗に叩き込まれる鉄拳!

 振りかざされる巨大包丁!

 体中変形した人魚が、一撃に首を刈られた!

 噴き出す血液! アルの胃から何かがこみ上げた!


「お゛ぁえ゛、え゛ぇ」


 そんなアルを気にも留めず、鬼婆は次の獲物めがけて大きくジャンプし――直後、隕石めいてアスファルトに墜落した!


「ワハハァーッ!」


 仰向けに倒されるグランオウナーの上に、ヒビ入りフジツボ鎧を着た人魚戦士!

 馬乗りになった彼女は、老婆の顔を掴み、後頭部を繰り返し地面へ打ち付ける!


「気持チ良イカァ!?」


 先程は予期せぬ熱に防衛本能が働き、一瞬たじろいでしまった。未熟の証である。

 まあ、ネタさえ分かっていれば問題ない。重傷を負う前に殺せばよいだけ。


 だが!


「ア゛ァ!?」


 人魚の手に突如走る激痛! 直後、人魚の顔にぶつかる肉塊!

 嗚呼、それは人魚の手の肉である!


 そう、グランオウナーは、その牙で戦士の掌を一部噛み千切ったのだ!

 たった一瞬視界と思考を奪えば充分!

 老婆は逆に人魚のマウントを取り、


「ヴァアァ! ヴァアァ!」


 顔面に燃える鉄拳を一発! 二発! そして大きく三発目を振り上げ……止めた。


「ヴァ、アア」


 グランオウナーは立ち上がると、再び屋根へと飛び移る。


「マダ逝ッテオランワァ!」


 へたり込むアルに目もくれず、揺るぎ立った人魚は鬼を追跡する。海へ向けて。

 アルは最早どうしていいか分からず、ただ雨に体を濡らしていた。その音が近付くまでは。


 それは車のクラクションであった。

 振り向けば、銀色のバンがこちらを照らしている。民宿の送迎車だ。

 だが運転手は宿の主人ではない。

 丸縁サングラスの、痩せた老婦である。


「乗りな!」


 窓から顔を出し、よく通る声で老女は叫んだ。


 アルはドキリとした。

 知っている。


……?」




 ひと口に海岸と言っても、海に面する場所は広い。

 コンクリートで固められた岸辺には、漁船が見渡す限りずらりと並んでいる。

 村民が一般的に『海岸』と呼ぶのは、砂浜の部分である。少し沖に出ただけで急激に水深が増すため、海水浴はあまり推奨されていないが。


 そんな砂浜の周りで、操られた村民は人の鎖を作っていた。

 銛を持つ人魚も待機している。水面にはマンタが何匹も。人魚達の乗り物である。

 浜辺には、漁船程の大きさのある牡蠣めいた二枚貝。鎖に繋がれ、先端は海中の大亀と繋がっている。

 中に入っているのは、何人もの娘達。


「ひぁっ」


 そこに今、タマが入れられた。


「集メタ女ハコレデ最後ダ! 出ヨウ隊長!」


 タマを連れてきた人魚が喚く。

 幾つもあった貝は、既に別の大亀に引かれ、水底へと沈んでいた。

 この貝の中に、アルやヨシホはいない。上手く逃げたか、あるいはもう連れて行かれたか。


「貝ヲ閉ジヨ。城ヘ戻ル」


 ひときわ大きな身長と乳房を特徴とするコーンロウの人魚は、淡々と告げた。

 人魚の歌声に反応し、貝が閉じる。タマの視界が闇と化す。


 娘達は皆震えていた。

 寒さ、恐怖。タマもまた絶望に呑まれかけ……ふと、ポケットの中身を思い出した。


 あの教室、人魚殺しのババアがこちらに吠え掛かり、突如どこかへ走り去った時。人魚にさらわれる直前。

 タマは、床に落としていた音楽プレーヤーを咄嗟に拾い、ポケットの中でお守りめいて握りしめた。

 村へ戻りアルと合流する前、自転車の上でヨシホに手渡されたものだ。


(タマ姉持ってて、落としそうだし)


 ヨシホの言葉が思い出される。


(これであの怪音波防がなきゃだろ。なるもんかよ、訳分かんねぇ奴の思い通りになんて)


「……動いた」


 モニターの明かりで、暗闇がホウと照らされた。娘達が一斉にタマを見る。


「えっと」


 何か言わねば。タマは思った。


「あの――」

「ヴァアァア!」


 その時、貝の中でも聞こえる咆哮!

 タマは驚きで思わず再生ボタンを押した! 流れ出す北欧メタル!

 そう、鬼婆が海岸へ至ったのだ!

 村人をボウリングのピンめいてなぎ倒しながら!


「ホウ、アレガ」


 隊長は腕組みしたまま鋼鉄老女を睨んだ!

 彼女が一度腕を振り合図すると、五名の人魚が老婆を取り囲む! 先陣を切った人魚が歌声を発す……が! 老婆は構わず拳を返した! 宙を舞う人魚!


「……耳カ」


 隊長は何かを納得した様子であった。


ノダナ、奴ハ。加エテコノ雨。歌ガ通ジニクイ」


 隊長が誰にともなく解説する間にも、ふたりの人魚がその鉄拳の餌食となった。

 銛を振りかざしても、それは鎧や手甲で阻まれ、奪われ、へし折られる。


「総員、撤退!」


 海岸中を震わすほどの声量で、隊長は命じる!

 それを合図に、全人魚が一斉に海へと駆け出した!

 追うグランオウナー!


「ワハァーッ!」


 その背後から襲い来たのは、鎧がところどころ剥がれた人魚狂戦士! 老婆狂戦士はこれを側転回避!


「フウカ!」

「応ッ!」


 隊長の呼びかけに、戦士は……フウカは、ただひと言そう答えた。人魚に名があることを、この時ヨシホは初めて意識した。

 だが、それどころではない。

 あの貝の中にタマが入れられるのを見た。既に海へと呑まれ始めている。行かねば。


 しかし同時に、紫色の炎が頭の中で立ち上る。ただ人魚を殺せと。

 その度に視界は老眼めいてぼやけ、思考は認知症めいて曖昧になる。


 ヨシホの精神は、暗く燃える憎悪とせめぎ合い続けていた。

 人魚を倒すより、タマを助けねば。

 ヨシホは己に言い聞かせ、貝へと一直線に走る。


 その直線上にフウカが割り込んだ。

 邪魔だ、よほど死にたいと見える。ヨシホの怒りに薪がくべられた。

 グランオウナーは咄嗟に浜辺の砂を蹴り上げる! 砂かけ!

 瞬間、老婆の影がゆらり揺らめく!

 ブンブンと二度包丁の音!


「ヴァアァ!」

「ヌゥゥン!」


 フジツボ鎧が砕けた!

 血と痣と火傷にまみれた、フウカの筋肉質な肉体が露わになる!

 既にボロボロのその体に、般若は致命的一太刀を浴びせようと振りかぶる!


 が!


ダ。我輩モ惜シイガ、奴ノ命令デナ」


 フウカはこれを後ろに飛んで回避、包丁は浜を殴り、砂が爆発めいて飛び散る。

 フウカはバク転を繰り返し、海へ。


 当然グランオウナーもこれに続く。

 貝は既に海中に落ち、人魚達はマンタに乗り込み出発していた。

 鬼婆は躊躇せず海へ飛び込む。燃える鎧を、海水が冷やす。

 幸い、今のヨシホならば鎧も水着に等しい。問題はそこではなかった。


惧濫媼グランオウナ


 ホオジロザメに乗り、隊長が待ち構えていたのだ。ヨシホの目の前に。


「相手ヲシテイル暇ハ無イ」


 次の瞬間だった。恐るべき攻撃が、音速めいた速度でヨシホへ迫ったのは。

 弾丸、否、エネルギー弾、それも否。

 音それ自体であった。


 水中での動きは陸の民の何倍も素早い。

 加えて、水中は陸より音が伝わりやすいのだ。歌声の効果は数倍にもなる。


 加えて隊長は、戦士の中で最高と呼ばれる声の使い手。

 声を一点集中させ撃ち出すこの技は、彼女の最も得意とする攻撃のひとつである。


 鉄球がマッハでぶつかったような衝撃。

 音の塊はヨシホを後方へ吹き飛ばした。

 ヨシホの体は海から飛び出し、ミサイルめいて一直線に宙を舞う。


 海岸を飛び越え、海辺の家の屋根を突き破り、床を転がり、壁を突き破り、隣の家へ突入し、それを何度か繰り返し、ようやく道路に投げ出された。


 そんな邪魔者の運命を一顧だにせず、隊長を乗せたサメは沖を目指し始めた。

 隊長のすぐ隣を、フウカが乗り物無しで泳ぐ。


「流石ダナ、イルカ」

「フウカ、酷イ怪我ダ。早ク帰ッテ霊薬ヲ飲メ」

「大シタ傷デハナイ。ダガ惧濫媼トヤラ、中々楽シメタ」

「……長老ニ報告セネバナ」


 その様子は、充実感と共に帰途につく漁師にも似ていた。

 彼女らが漁師なら、娘達は生簀の魚。


 貝の中、タマ達は音楽と共にあった。

 聴いたから出られるわけでもない。元気にもならない。

 だが、死んだような静けさよりはいくらかマシだった。


(なるもんかよ、訳分かんねぇ奴の思い通りになんて)


 アルのように皆を勇気づけられもせぬ、ヨシホのように腕も立たぬ。何ができるのかも分からぬまま、ヨシホの言葉を、タマはただ幾度も反芻した。


(なるもんかよ、訳分かんねぇ奴の思い通りになんて……)




 ……老婆はうつ伏せに倒れていた。

 ぞっとするほど冷たいアスファルトの感触、体をしとどに濡らす雨。

 意識を失った彼女は、それすら味わえぬ。


 嗚呼、彼女の精神世界が紫に染まる。


(ヴァアァ、ア)


 今、憎悪の炎がメラメラと像を結び、ヨシホの心に覆い被さろうとしていた……!

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