月の無慈悲な鋼の女王

シムーンだぶるおー

第1話 元無慈悲な女王の譲れない願い

 実のところ現在のセレーネを単純に無慈悲と捉えているものは、彼女の周りにはほとんどいない。疎まれながらも形式に則って、『異星体・ユミル』の女王としての権限が与えられていた頃とは違い、地球圏の勢力側に与して戦う今の彼女には、命を賭してでも護りたい少女・マリー=スチュアートがいるのだから。

 そのことを、彼女が所属している月の民間軍事会社PMSCハインラインの者のほとんどが把握しているし、セレーネは現在もその戦闘力のみですら十二分にハインラインに貢献し続けている。ただ、今でもその戦女神の如き戦闘力を見る機会があったものは、彼女と戦場で相対する運命こそ無慈悲であろう、とは思うらしい。




 月と地球の重力均衡点は5つ存在し、ラグランジュポイントと呼ばれる。厳密には天体とその引力によって円形の軌道を描く天体があった場合、必ず重力均衡点が5つあるという言い方の方が正しいだろう。

 ともかく、月と地球の間にコロニー群を形成する重力均衡点は、ラグランジュポイントのナンバリングの規則にしたがってそれぞれL1、L2、L3、L4、L5と呼ばれている。

 その、地球から見て月の表側付近に存在するL1コロニー群には今やPMSCの筆頭とも言われるハインライン元本部、現第一支社もある。


 その宙域では今まさに地球人と『異星体ユミル』の戦闘が行われていた


 ユミルについての謎はまだ多い。彼らの目的を知るものは公的には存在しない。対抗策についてもハインラインからの裏取引によってもたらされたというのが、公然の秘密となっている。一説には人類と対話できるだけの知能を備えているとも言われているが、その知能を戦闘以外に用いてきたことは現在まで公的には確認されていない。

 そして、ユミルに対応出来る手段を取引材料として成り上がったと噂されているハインラインについても、謎は多い。一介の軍事企業の中でもお世辞にも大企業とは言い難かったハインラインが、今のような技術力や研究データや精強な戦力をどうして保有しているのか?

 ともかく、ハインラインはもはや地球圏全体からみても重要な要素であり、そのハインラインの戦力は優先的にユミルとの戦いに組み込まれていた。

 ハインラインからもたらされた情報と技術の結晶たる『人型機動兵器・ギガステス』も同様である。



 戦いは、L1宙域にユミルが侵攻したことにより始まった。L1コロニー駐屯防衛艦隊は、地球圏連合本部に増援を打診。同時にハインライン社を筆頭とする、ギガステスを保有するPMSCへ協力を依頼。

 ここまでの手順とそれによる住民の避難は、もはや慣れていないものなどいない。誰一人として、こんなことに慣れたくはなかっただろうが。

 問題は、ユミルが少数でL1宙域に強行偵察を兼ねた攻撃を仕掛けてきたというより、L1宙域を抜けてそのまま月表面の人工都市群へ侵攻してきた。

 そう考えるべき戦力と進路で侵攻してきたことである。月の人工都市群からも防衛艦隊を派遣するべく動き出したが、当然ながら彼らが到着するのは遅れることとなる。L1コロニー宙域の者たちは、選択をせまられていた。

 このような大規模戦闘は久しくなかったこともあり、L1コロニーの駐屯艦隊はそれほど大規模な戦力を保持出来ていなかった。もともと地球圏連合は地球への防衛線を形成するため、コロニー群への駐屯艦隊の戦力を出し惜しんでいるのが実情である。そのため、戦力はむしろ一部を地球圏の防衛線へ割くはめになることさえあった。

 実際には、月や月に近いL1、L2コロニー群への侵攻頻度の方が圧倒的に上なのにも関わらず、である。

 地球圏連合はこの実情とそぐわない戦力比の配分を、ユミルの侵攻が月周辺に集中しているのは人類への強行偵察と陽動が主目的であり、最終的な侵攻目標はあくまで地球であると考えられるため、との公式見解を発表した。

 これには、宇宙に派遣された地球圏連合の軍人でさえ反発を示すものがいた。

「詭弁だろうが……! ようは地球圏の特権階級の保身だろうに!」

「地球圏に住めない連中は、的になってろってことかよ!」

「連中が戦略を考えているかまでは分からんが、仮に月をユミルが橋頭堡とするつもりだったら、敵にみすみす重要拠点を差し出すことになるんだぞ……!」


 当然、月周辺に住まう人々はなおのこと、地球圏連合の公式見解を鵜呑みにしなかった。事実として、ユミルが現状で地球圏を直接狙ってくる予兆など皆無に近かったからでもある。

 ともかく、現在もL1宙域などへのユミル侵攻が問題視される中で、駐屯艦隊の戦力増強より地球圏の防衛線を維持することが優先されていることが、現在の戦場の現実なのだった。唯一の救いは、戦場での『人型機動兵器・ギガステス』の戦闘データ取得は地球圏の防衛戦力の強化にも必須であるため、ギガステスに関しては補給の滞りがほぼないということだろう。

 それにギガステスを保有する各PMSCの協力が加われば、強行偵察程度のユミルの撃退はなんとかなっていたのだ。

 あくまで今までは、だが……



 L1駐屯艦隊は三段階の防衛ラインを構築し、月表面への侵攻を遅らせることを第一目標として展開した。というより、現行戦力では侵攻を遅らせることがせいぜいである。月表面から来る予定の増援艦隊を主力としつつ、そちらの準備が完了する時間を稼ぐのでさえ、戦力が充実しているとは言い難い。

 そして戦局は、予想通り防衛艦隊が不利な状態で進んでいた。

「第二防衛ラインをユミルが突破だとよ……! 予定より大分早いが……くるぞ!」

「第一防衛ラインを構築していた艦隊は転身して、こちらに加わる予定じゃなかったのかよ!」

「予想以上に損耗が激しくて、再編成が遅れてるんだ……その上第二防衛ラインの突破も早かった。どのみち予定通りにはいかんかったさ」

 これは、第三防衛ラインの一角を任されたハインライン支社所属の次世代型ギガステス・『アストライアー』を駆るサジタリウス小隊全三機の会話である。小隊長であるサジタリウスワンは、他の二人よりは流石に冷静に状況を分析していたが、それは最初から防衛側に戦力が不足していると悟っていたからである。

(もとより最終的には月からの戦力に頼る以外にない作戦だったんだ……これ以上小隊長の俺が動揺を見せるわけにはいかんしな)

「そういえば、援軍には特別に女王の『アルテミス』が加わっているらしいぞ」

 サジタリウスワンとしては、仲間二人の士気を少しでも高めるための小話のつもりだったのだが、これは意外にも絶大な効果をもたらした。

「俺達のアストライアーのプロトカスタム、ハインラインの切り札アルテミスがですか!」

「噂に名高い鋼の女王セレーネの操縦……この目に拝むまでは死ねないな!」

 こいつらは、セレーネを見たことがなかったか。胸中でサジタリウスワンは独白した。たしかに、戦闘力に関しては彼らの期待を裏切ることはないだろう。セレーネ本人に関しては、類まれな美女ではあるが類まれな無愛想でもあるから、彼らの期待にそうかは不明だが。

「じゃあ、女王が拝めるまではうまくいなせよ……!」

 彼らの機体のセンサーに反応があった。それは、彼らの搭乗している人型機動兵器アストライアーの戦闘可能領域へと、ユミルが到来したことを告げるものである。


 人類と敵対している異星体・ユミルの見た目は、シルエットだけに限れば人間を十五メートルほどに拡大しただけである。二本の腕と脚があることにも違いはない。

 特徴的な違いは、そのほとんどが緑の皮膚の体躯(極稀に違う色の皮膚をしたユミルが確認されているが、あまり数が多くないため突然変異の類と推測されている)で、目など人間にある器官が身体の表面に見受けられないため、穴や起伏や体毛が存在しないこと。

 だというのに何故か、手と足の五本指に鋭い爪だけがあることが特徴である。人間の頭に相当する部分はあるが、表面上はそこにはなにもない。ゆえに、どうやってこちらを認識しているのかさえ、実はよく分かっていない。

 分からないことだらけだが、ちょうど全高がユミルと同程度の人型機動兵器・ギガステスが有効なことは、実戦で証明されている。例えば、こんな風に。

「残念、俺は敵だ!」

 その言葉と同時に発射された三点バーストのアサルトライフルによって、サジタリウスワンは目の前で一瞬どう動くべきか戸惑いを見せたユミルの胴体へ、風穴を無数に空けてみせた。

 サジタリウス小隊は、真正面からユミルと戦うことは出来るだけさけ、デブリなどを利用してユミルを撹乱する戦法を取った。これはギガステスでユミルと戦う場合の定石である。

 こうすれば、何故かユミルはギガステスに関しては敵かどうか識別するのに手間取るのである。ユミルたちの物体に対する認識方法の問題だろうと推測されているが、真実はともかくとしてこちらが攻撃し続けでもしない限り、ユミルはギガステスを味方か判別するのに若干手間取るらしい。これは戦闘において、大きなアドバンテージとなりえる。

 流石にユミルたちと全くシルエットや大きさが異なる兵器に関しては、そのような事態は起こらない。そのため、ギガステスが本格的に配備されるまでは、人類側の戦力の消耗は今よりも格段に激しかったのだ。

 そして今や、ハインラインなどでは主力となっているギガステスの最新量産機種アストライアーは、公的に次世代型と称されている。武器こそ補給などの問題から前世代の機種と同様のリニア式アサルトライフルなどを流用していたが、それ以外はまさしく一線を画す統合性能を有している。そのため、他機種のギガステスと比べても格段に戦力の消耗を抑えることが出来ているのだが……

「増援はまだか!」

「もう、俺たちだけじゃ防衛ラインを維持できねえ……!」

「泣き言は聞かん、増援が来るまで持ちこたえてみせろ!」

 サジタリウスワンは、増援が来る予定時刻まで防衛ラインが持つ可能性が低いことを理解していたが、それでもサジタリウスツーとスリーを鼓舞する。とはいえ、やはり戦局は時間の経過とともに不利になっていくだけだ。

 ユミルの攻撃はギガステスが攻撃行動にでなければ散漫になるが、そのまま放置すればいずれ防衛ラインを突破されてしまう。だからといって攻撃に転じる時間を長くすればするほど、結果的にユミルからの攻撃精度と頻度を向上させることになる。

 次世代型ギガステスのアストライアーでさえ、それを警戒して攻撃頻度を調整しなければ、流石に戦力差が大きいこの戦場では生き残れない。

 そしてついに、恐れていた事態が発生する。サジタリウス小隊付近のユミル数体が同時に防衛ラインの許容範囲を抜けようとしている。サジタリウス小隊より前にいた迎撃部隊が撃ち漏らしていた個体と、サジタリウス小隊自体が損耗を避けようとして迎撃出来なかった個体、それらが偶然同じタイミングで突破を試みたのだ。

 サジタリウスワンは、この時点で選択を迫られた。数体程度ならライン全体の崩壊を阻止するために、あえてここは見逃すか。あるいは、リスクを承知で今すぐに追撃し、殲滅を試みるか。

 合理的に考えて、数体は突破させてでも戦力を温存すべきだろう。どのみち防衛ラインから突破するユミルが増加していくのは、今の戦況からは避けられないと見るべきだ。その判断を小隊員に告げようとしたときだった。

「サジタリウスワンから……」

「させるかぁー!」

 サジタリウススリーが独断で突破寸前のユミルの迎撃を試みてしまった。これは小隊としては、最悪の事態を招きかねない行動だった。単機で向かえば包囲殲滅されかねないし、なにより時間がかかってしまう。殲滅を優先するならするで小隊三機全てで向かうことで、出来るだけ迅速に突破寸前の個体全てを殲滅し、防衛ラインの維持へ復帰することを目指すべきだったというのに。

「まて、サジタリウススリー! くそ、サジタリウススリーを援護する!」

「援護、了解です」

 遅まきに失したことは自覚しながらも、小隊長であるサジタリウスワンはもはやここに留まっていることの方が愚策と判断し、サジタリウススリーとともに突破寸前の個体の殲滅を試みようとする。

 だが、遅かった。そもそもサジタリウススリーは血気に逸っていて、小隊全員の三機でさえリスクがあろう迅速なる殲滅を、あろうことか単機の猪突で行おうとした。せめて足止めを優先した慎重な攻撃パターンであれば、残りのメンバーがフォローに回る時間もあったはずだというのに。

 懸念が現実の物となる。確かにサジタリウススリーは後ろからの銃撃によって一体を撃破することに成功したが、代わりに他のユミルたちから一斉に攻撃目標にされてしまっている。今から援護したところで、サジタリウススリーがユミルたちの攻撃を躱す方法などない。


 そのはずであった。ただ一機、高速で飛来したギガステスを除いては


「な……!」

 サジタリウスワンは、思わず色々な意味で絶句してしまった。なにせ、絶対絶命と思われたサジタリウススリーのアストライアーは、ユミルに撃墜されることこそなかったものの、あろうことか味方であるはずのギガステスから蹴りを食らったのである。

 しかも、そのギガステスはアストライアーを始めとする他の機種とは違い、迷彩効果を一切考慮していないとしか思えないカラーリングだったからである。アストライアーは灰色を基調としているが、その機体は鈍い銀の輝きを基調としつつも、鮮やかな赤のラインが各所を華やかに彩っているのだから。

 だが、サジタリウスワンが驚いたのはその機体のカラーリング自体ではなく、その機体がハインラインのフラグシップでもある『アルテミス』であり、同時にその搭乗者は彼女しか考えられないことに気づいたからだ。

「あれは……!?」

 事態をまだ飲み込めないサジタリウスツーの言葉に、なんとか状況だけは把握出来たサジタリウスワンが叫ぶ。

「鋼の女王…… 鋼の女王セレーネとアルテミスだ!」

 その間に、事態は急速に彼らの想像を超えて展開していく。蹴られたサジタリウススリーは、しかしそのおかげで死角から接近していたユミルからの攻撃を逃れることは出来た。

 ついでに、他のユミルたちからも比較的遠い方向へと高速で吹っ飛ばされたため、アストライアーがユミルの手で破壊されることはまず無くなった。代わりにアルテミスの蹴りを食らった時点で、既にサジタリウススリーの機体は完全に動作不良に陥っていたのだが。



 これはもしや、やってしまったというやつか?

 セレーネはこのとき戦闘とはまるで関係ないことを考察していた。

 なんだか無謀な突撃で撃墜されそうな間抜けを助けはしたものの、加減はしたはずの蹴りがまだ加減しきれていなかったようだ。あの様子だと中身のパイロットはまだともかく、機体そのものには深刻なダメージがあるだろう。継戦させることは不可能と見るべきだ。あるまじき失態である。

 しかもあの機体、どう考えても最新量産機種のアストライアー。量産前提とはいえ、現時点では相当高い機種である。

「まあ、いいか」

 なにがか納得出来る人間はいるまいが。そもそも乗っていた人間とて、生きてさえいればどうでもいいのか。そういったことには、全く頓着していない。

 とりあえずそれが、先ほどの機体を撃墜しようとしたユミルの方を視認すらせず、しかも無造作でありながら正確に頭部へと、右腕に装着されている五本の爪型兵装・マグナネイルを突き刺し、次の獲物と定めた相手に左腕のマグナネイルを向けながらの独白である。

(これはあとでお小言かな)

 このときには、マグナネイルから発生させた指向性の爆発で右腕側のユミルの頭部を爆砕しつつ、その勢いも利用して次の獲物へとそのまま突進していく。傍目には、それは愚直な突撃に見えたかもしれない。

 だが、セレーネが左腕を向けていたユミルは右腕の爪の刺突によるクロスカウンターを試みたものの、セレーネが駆るアルテミスは左側の肘を相手の爪に最小叩きつけてカウンターを封じながら、そのまま左腕のマグナネイルで胴体を貫いてみせた。

 先ほどと同じように、マグナネイルの機能である指向性の爆発で、刺突した相手から爪を引き抜く。これは突き刺した相手への追撃と、刺した相手から爪を引き抜きやすくすることを両立させており、殺傷力だけならかなりのものだ。

 セレーネがもっとも好んで使用している武装であり、幾度も改修されてきた馴染み深い武装でもある。

 とはいえ、こんなユミルの攻撃範囲に自ら飛び込むような武装は、大抵の機体には搭載されていないか、搭載されてはいてもあくまで予備兵装としてである。弾薬が残っている状況では、わざわざ率先して使おうとする人間はまずいない。

 この、規格外という他にないセレーネを除いては。

 サジタリウス小隊も、損傷した(させたのはセレーネだが)味方機体を護るように展開しながらも、的確に彼女が狙っていない相手だけを足止めしている。最初は若干狙いが散漫だと思っていたが、実際には近づかせないことを優先して、あえて進路を封鎖するように弾をばらまいているらしい。

(サジタリウスというだけあって、射撃だけは得意なようだな)

 実は射撃が不得意であるセレーネは、そう人事のように考えながらもサジタリウス小隊の援護もあって、目前に近づいたユミルにのみ注意していれば良かった。

 残り三体。接近してきたユミルは、敢えて右手のおおぶりを見せつけながら左足の爪を本命にしてきた。右手はマグナネイルで払い、右膝の装甲で相手の左脚

そのものを叩き潰したものの、今の状態ではマグナネイルで相手を即死させることは困難だ。それで時間が稼げると、このユミルは小賢しく立ちまわってきた。

(まあ、ネイルだけならな)

 流石にこの距離なら射撃が苦手だろうが、当てない方が難しい。アルテミスの腰の両サイドには、ガンランチャーと呼ばれる近距離用の射撃武装がある。どのみち遠距離では当てられないだろうから、などと設計者に揶揄されたものの、たしかに至近距離では攻撃範囲が広くて便利ではある。

 目の前のユミルが一瞬で蜂の巣になったことを確認して、次のユミルへと向かう。残り二体。

 ガンランチャーもある上、サジタリウス小隊の射撃も気になっているようで、近づき方が中途半端で動きの鮮彩さを欠いている。存外あっさりとマグナネイルを正面から胴に突き刺すことが出来た。爆発とともにユミルが動かなくなる。

「残り一体……いや、もうゼロか」

 思わず独りごちた。サジタリウス小隊の射撃の腕がいいこともあったが、そもそもこちらの動きを見ながら二機の射撃も躱すというのは元々困難だろう。まごついているうちに、サジタリウス小隊も残り一体になった瞬間から本気で狙いを定めたこともあり、最後のユミルはこちらが手を下す間もなく倒されていた。

 これで、動けなくなったサジタリウススリー近辺のユミルは排除することが出来た。それで、ようやく一息ついたときである。

「L1駐屯艦隊と防衛部隊に告げる。月の駐屯艦隊は既に第三防衛ラインへ向かっている。損耗が激しい部隊は後退して再編成を行え。繰り返す……」

 月の駐屯艦隊から防衛ラインを構築している艦隊へ、艦隊の一時後退と再編成の許可が打診されている。

 とはいえ、月の防衛艦隊も急いではいるが、まだ到着するのに時間がかかる。 そのため今はまだ、ハインライン所属の部隊で余力があるのは、アルテミス単機なら先行可能だと判断したセレーネだけであろう。

 一機の戦力で戦局を変えられるなどとは、セレーネは考えていない。だが、ハインライン所属の味方の士気を少しでも高め、損害の軽減を行うことは可能かもしれない。そう考えたのは、実のところ彼女というよりはマリー=スチュアートだったのだが。

 ハインラインのフラグシップであるアルテミスと、エースとして『鋼の女王』などという自身からすれば嫌味とも受け取れる称号だが。セレーネがそう呼ばれるのに相応しい存在であることはハインラインの者なら知っている。

 そのエースが仲間のためいちはやく戦場に駆けつけたとなれば、確かに士気が多少なりとも増すかもしれない。

 セレーネ自身は自分の人望を欠片も信じていなかったので、効果のほどは全くもって疑問であったのだが、アルテミスの速度と継戦能力なら単機先行が可能なのは事実だし、マリーからの頼みは正直断りづらいということが多分にあった。

「サジタリウス小隊は、その邪魔なだけの機体ごと後退しろ。ハインラインの部隊については、戦える部隊だけ私に続けばいい」

「……援護に感謝する。サジタリウスツーは、サジタリウススリーの機体を牽引しつつ後退しろ」

「了解しました」

 とはいえ、サジタリウスツーも若干疑問には思ったらしい。その内容では、小隊長はどうするつもりなのかは分からない。

「……? 聞こえなかったのか? 私はサジタリウス小隊に後退しろといったんだが?」

「聞こえているとも。戦える部隊だけ続けばいいんだろう? 私はまだ戦える」

 セレーネは人知れず嘆息した。戦える余力が本当に残っているのか? 疑問に思ったものの、ここで言い争うのは時間の無駄だろう。説得する時間が惜しいということもあるし、戦力はあるだけあった方が有り難いのも事実である。

 結果としてこの小隊長が死んだ時は、自業自得だろうしな。

 とてもではないが他人には聞かせられないことを考えながら、セレーネはアルテミスで進路上の敵を屠りながら、囮役を兼ねて前線へ駆けていく


 その姿だけなら、彼女は間違いなく味方を鼓舞し敵に畏怖と死を与える、エースと呼ばれるに相応しい所業をなしている、と断言できるのだった

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