第18話 不死者 Z その参

「う、ああ、あ、あ、あ」

 男はついに両手を上げて田中に歩み寄り始めた。

「あっ……!」

 後ずさりした田中は雪でぬかるんだ地面に足を取られて背中から転倒した。

「……しまっ……!」

 朱に染まった手が田中の顔面に触れる――その寸前だった。田中の視界の隅でポニーテールが揺れた。



「田中さん!」



 懐かしい声に田中が耳を疑うのと同時に、男と田中の間に一人の少女が両手を広げて割って入った。

 当然、男の標的は変更された。近くの人間を貪る。その意識だけが彼を動かしていた。

 赤い腕が少女の肩を掴み、彼女の藍色のコートに深々と爪が食い込んだ。

「……うっ!」

「杏里ちゃん!」

 鋭い犬歯が少女――樋口杏里の首筋に突き刺さった。

 杏里は苦痛に顔をゆがめながらも、コートのポケットに手を入れながら、男の腹を膝で蹴り上げる。一瞬だけ、男の口が杏里の肩から離れる。

 すると杏里はポケットから黒い長方形の物体スタンガンを取り出し、そのまま男の腹部に当てた。

「あ、あああああああああああああっ!」

 男は身体を震わせ、よろめきながら仰向けに倒れた。

「……君は」

 立ち上がった田中が口を開いた時、杏里が膝をついた。落としたスタンガンが歩道を叩く。

「あ――っ!」

 田中は咄嗟に右に傾く杏里の身体と地面の間に腕を回した。杏里の首筋には歯形が残り、そこから血液がしたたり落ちていた。噛みついただけで、肉を持ってかれたわけではないようだったが、杏里の顔色は明らかに悪くなっていた。

 考える前に田中は動いていた。杏里を担ぎ上げるとデパートに隣接する、鉄骨でくみ上げられた三階建ての駐車場に走った。

 田中は、万が一「彼ら」が追ってきた場合を考えて、三階まで一気に駆け上った。

 天候のせいか、やはり車は少なかった。隅の一角に田中は杏里を下ろした。車止めの石を枕の代わりにして寝かせる。

 杏里は荒い呼吸を続けていたが、寝かせられると急に田中の方に首を曲げた。その瞳は、小さく揺れていた。

「田中……さん……」

「なんで君は、こんな、こんな事を!」

「えへへ。…………やっと、名前……呼んでくれましたね」

「――え」

 刹那、田中の呼吸が停止した。

 杏里はそうっと右手を伸ばして田中の頬に指を這わせた。

「私は……いつも田中さんがやっていることを、私も実行したまで……です。田中さんは、いつも誰かの為に……どんな相手にだって迷わず立ち向かっていく。でも本当は、すっごく迷っている。それが……田中さんの素敵なところです」

 杏里は潤ませた目を細めると、少しだけ口角を上げた。



「田中さんは優しいから……辛いんだとおもいます。でもそれが田中さんだから、それでいいと思います。それはきっと……田中さんにしかできない戦い方です」



 それは、不器用なヒーローに捧げられた初めての、透明で温かい祝福だった。

「私も……あの後いろいろ考えたんです。そうして、田中さんの強さに改めて気が付きました。そして、私なりに戦う方法を考えました。結局、自分の身を守る事しかできてませんけど」

 まさかこんなに早くスタンガンを使う日が来るとは思いませんでしたけど、と杏里は苦笑した。

 田中もつられて苦笑した。

「……君は、凄いよ。僕よりよっぽど強い」

「そんな事は……ううっ!!」




 杏里の身体に、異変は確かに起こっていた。

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