第13話 刺客 S

「あっついなぁ……」

 田中は顎に集まった汗をぬぐう。空に降臨する太陽は、いとも簡単に三十度越えの気温を叩きだした。

「いいなぁ、涼しそうで」

 眼下には、楽しそうに泳ぐ人々。歓声が飛び、水滴が跳ねる。市営プールは今日も大盛況だった。

 八月中毎日開放されるこのプールは避暑地に行かない、行けない人々へ癒しと涼みの場として提供されていた。

 田中は先日からここで監視員のアルバイトを始めていた。

 プールに行けて、なおかつお金がもらえる。これは良いバイトを見つけた。と、思っていたのだが……。

「想定外だ……」

 監視員は、プールの淵に立つか、プールの半分ほどの場所にあるタワーと呼ばれる、監視用の脚立に椅子のついたような物体に腰を下ろすかどちらかで、これが田中の想像以上に疲れる仕事だった。

 立っていると暑さでフラフラしてくる。座っていると椅子の形が悪く、腰が痛くなる。そしてどちらにせよ、常に監視の目を光らせていなければならない。何かあったらすぐに対応しなければならない立場。これが疲労の最大の原因だった。

 田中は今まさにタワーに座って監視を行っていたのだった。

「そこのキミー、飛び込まないでねー」

 メガホンを使い、対岸で飛び込んだ問題児に注意する。少年は「すみませーん」と笑ってどこかに泳いで行ってしまった。

「まったく……」

「あれ、田中さん?」

 名前を呼ばれて田中はプールに目を走らせる。しかし、あまりにも人が多すぎて誰から声をかけられたのか分からない。

「ここですよ! ここ!」

 樋口杏里はタワーの右側に立っていた。学校で使っているのであろう、全身を包む紫色の競泳タイプの水着を着ていた。今日はトレードマークのポニーテールではなく、後頭部に髪を集めて団子のようにまとめていた。

「バイトですか?」

「うん。プールのバイトって涼しいかと思ってたんだけど、そうでもなかったよ」

「あはは……ドンマイです」

「君は、友達と遊びに?」

「いえ……実は私、泳げなくって。それで、こっそり練習に」

 杏里は赤面して、背中に隠していたビート板を胸の前に抱えた。

「あー……なるほど。頑張ってね」

「はい。田中さんも、頑張って下さい」

 杏里は手を振って奥にある水深の浅い、小学生用のプールに小走りで向かっていった。

「意外だなぁ。運動全般出来そうに見えるけど」

 田中は再び水面に目を配る。日差しが反射する水面は人々の動きに合わせて絶え間なく揺れている。手をつなぐ子供連れ、水中散歩をする年配の夫婦、追いかけっこをする少年少女……。誰もが思い思いにプールを楽しんでいた。


「いやいやいや、平和ですね」


 突然右手から聞こえた声に、田中は素早く視線を投げる。タワーの左側、さきほど杏里がいた場所の逆側に、男が水面を眺めて立っていた。

 白いハーフパンツタイプの水着を履いているが、水に入る気はないのか白いパーカーを肩から掛けている。上から見ている田中からは男の顔は良く見えなかった。

「どうです、悪を滅する気分は」

「なんの話でしょうか」

 田中は視線をプールに戻す。しかし男の言葉は続く。

「地下帝国の使者、破壊怪獣、合成獣キメラ、その他もろもろ。力を手にして、かなりの数の悪を殺ってますが、どの悪が一番苦戦しましたか?」

 そこまで知っているのか。

 田中は悟られないよう少しだけ眉をひそめた。週刊誌の記者だとしたら厄介だが、この男の口ぶりは常人のそれとは違う、独特の何かがあった。

 視線を前に固めたまま、田中は口を開いた。

「……どちら様でしょう」

「いやいやいや、名乗るほどのものでは。私は組織に所属する者。そうですね、サトウとでも申しておきましょうか、勿論偽名です」

「組織?」

「簡単に言わせてもらえば、貴方を観察する組織です」

 まるで子供が自由研究のアサガオについて述べているような軽さだった。

「観察じゃなくて監視の間違いだと思うんですけど」

 そうですかね、とサトウは呟く。抑揚のない声だった。

「そうそうそう、一つ聞きたいのですが」

 サトウは人差し指を立てた。田中が一瞥する。

「貴方は悪が現れた場所に必ず向かう。しかし、貴方は悪を殺す事に抵抗を感じている。それでも悪の闊歩する地へ赴き、殺すのはなぜですか?」

「殺すのが目的じゃない。守る為に行くんだ」

 田中の言葉にためらいは無かった。二人の間に僅かな沈黙が流れる。人々の歓声すらもこの間には割り込むことはできなかった。先に口を開いたのはサトウだった。

「いやいやいや、そうですか」

 とプールから背を向ける。

「貴方が守りたいのは、命ではなく自分ということですね」

「…………ちがっ……!」

 田中が振りむき、サトウの背中に声をかけようとして、



「目を離していいんですか?」



 無機質なサトウの声がプールサイドに響いた。

 田中が即座に視線を戻した瞬間、悲鳴が上がった。

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