第11話 ある夏の日。
「平和だなあ」
日曜日。
飛行機雲が入道雲に突き刺さる様子を眺めていた田中は、大通りに並ぶデパートの屋上にいた。そこは最近では珍しくなった屋上遊園地だった。車の形を模した音のなる機械や、ワニを叩いて遊ぶゲーム、バネが付いたパンダやトラにまたがる遊具。
時代から隔離された空間だった。しかしそこにはまだ、子供の声が響いている。子供たちは思い思いに駆け回り、転び、笑う。時折、親が叱る声が飛ぶ。
しかし、敷地の面積に対して、親子連れの数は圧倒的に少なかった。遊具も錆び付き、廃れた雰囲気が漂っている。子供は子供同士で遊んでいるため、遊園地というよりは小さめの広場と化していた。
田中は屋上の端、自動販売機の隣に置かれたベンチに腰を下ろしていた。
「あれ? 田中さん」
聞き覚えのある声に田中が右手を向けば、ここへの入口であるガラス扉の前に樋口杏里がいた。今日は白地のシャツにジーンズ姿だった。杏里は田中に駆け寄った。
田中も片手を上げる。
「やあ、制服じゃないんだね」
「そりゃそうですよ、日曜日ですし」
「ああ、そうか」
ちなみに田中は黒いシャツに黒いズボンと、見ているだけでも暑くなってくる服装だった。
「なんで上下、真っ黒なんですか?」
「うん、最近血が出たり、血がかかったりする事が増えてきたからね。黒だと何かがついていてもあんまり目立たないからさ」
「なるほど」
服に血がついている男が道を歩けば、面倒なことになるのは杏里にも想像がついた。
先日の骸骨に襲われた時も田中の衣服は血に染まっていた。あの後、田中は破れてしまった衣服を脱いで住職の方に服を借りて帰っていた。
「田中さん、ここで何してるんですか?」
「うん、ちょっとね」
「?」
杏里は首を傾げた。田中は目を細めて口角を少しだけ上げると、手で顔を仰ぎ始めた。
「それで、君はどうしてここに?」
「友達と買い物に来てるんです。何か飲み物を買おうと思って私はここに」
「なるほどね」
田中はベンチに深く座りなおした。
「それにしても、暑いね」
「その格好のせいだと思いますよ」
日が暮れて、屋上遊園地には親子連れの姿はなくなった。しかし、田中はまだベンチに座っていた。すでに太陽は地平線に沈み、夕焼けが僅かに空を明るくしていたが、反対の空には星が瞬き始めていた。
「……来た」
田中はようやく立ち上がった。
その視線の先には、今まさに入口のガラス扉から出てきた少女の姿があった。少女の頭には頭よりも二回りは大きい麦わら帽子がのっている。
中学生の杏里よりも顔立ちが少し幼い。小学校高学年といったところだろう。純白のワンピースがよく似合っていた。腰まで伸びた黒髪は、夜の空の色によく似ていた。
少女は田中の姿に気づいていない。この時間帯に誰もいないのを熟知している様子で、暗さにもかかわらず慣れた足取りで屋上の中央までトコトコと歩く。そのタイミングで田中は声をかけた。
「やあ、夕焼けが綺麗だね」
すると少女は田中に相当驚いたのか、「ひゃん!」と可愛らしい声をあげて数センチ宙に浮いた。
「な、なんだ田中さんかぁ。ビックリした」
「ごめんごめん」
田中は頭を掻きながら屋上の端へ移動した。少女が後からついてくる。
にぎやかな大通りが一望できた。ネオンが灯り始め、人々が道という道を絶え間なく行き交う。胎動しているような、これから何かが起きるのではないかと期待させるような、そんな不思議な場所だった。
「僕は、この光景が好きだ」
「私もです」
田中はしばらく眼下に広がる通りを眺めていたが、次第にその顔つきは曇っていく。夜がすぐそこまで迫っていた。
「……本当に、いいんだね?」
「はい。これが私の望みです」
即答だった。少女は、夜に咲いた花のような、はかなくも美しい笑顔を見せた。田中にもう迷いはなかった。
「わかった」
向き合い、田中が腕を少女に近づける。
「じゃあ、いくよ」
「ええ。お願いします」
田中は少女の頭を麦わら帽子の家から優しく撫でた。
「ありがとうございます」
少女の身体がぼんやりと発光しはじめた。夜を照らす光になった少女は、天へと昇って行く。田中はしばらく空を見上げていた。
やがて、どこからか麦わら帽子が落ちてきた。
一週間後。
「あれ、田中さん」
杏里はデパートの屋上で再び、自動販売機の隣のベンチに座っている田中を見つけた。今日も上下が黒の服を着ていたのですぐにわかった。一部、この前と違うところがあったが。
「やあ」
田中は片手をあげた。いつもと変わらない。
杏里は田中に駆け寄ろうとして、駆け回る児童とぶつかりそうになった。見れば、先週とは比べ物にならないくらいの親子連れがいた。子供たちは皆、楽しそうに遊んでいる。遊具の順番待ちの列もできていた。
「ここ、なんか変わりましたね」
「うん、変わったね」
田中は、麦わら帽子を深くかぶりなおす。
「帽子、買ったんですね」
「これは貰ったんだ。可憐な貧乏神さんからね」
上空では、飛行機雲が入道雲を突き抜けていった。
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