第32話 Happy Man
学校では珍しく十一夜君が遅刻してきた。彼が登校してきたのは一時間目の授業の途中だった。珍しい事なので、何かあったのかとちょっと心配だ。もしかして昨日のことと何か関係があったりするのだろうか。話を聞きたいところだが、昨日のことについて学校で話したりしないように十一夜君から言い渡されているので、下手に声を掛けることも憚られる。
授業が終わって、俺は十一夜君に「おはよう」と声を掛けた。
十一夜君はいつも通り、昨日のことなんて何もなかったかのように、ちらりとこちらを見て「おはよう、華名咲さん」とだけ言うと、机の上に上体を伏せてしまった。その様子を見て、本当に肩は良くなったのだなと思った。
十一夜君がそんな感じで伏せてしまったので、それ以上会話を続けることはできなくなり、遅刻の原因を知ることもできなくなった。相変わらず愛想のないことで。
昼休み、いつものメンバーで学食へ行く。今日は普通の定食が食べたいと友紀ちゃんが言うので、そういう店で注文する。俺はアジフライ定食、友紀ちゃんは焼き魚定食、楓ちゃんはうどん天御膳とかいううどんと天麩羅と煮物のセットを頼んでいた。
いつも友紀ちゃんがテンション高めで話題を振って、楓ちゃんがフワッと受け止める感じなのだが、今日の楓ちゃんはどこか心ここにあらずといった感じだ。友紀ちゃんもそんな楓ちゃんに少しやりにくそうだ。
「ねえねえ、楓ちゃん。何かあった?」
遂に切り出す友紀ちゃん。
「え? 別に、何もないよ。
幸男が原因か。て言うか幸男、誰よ。
「ふんふん、幸男君と喧嘩しちゃったんだぁ。それは悲しいねぇ」
「え、全然喧嘩なんかしてないよ? 幸男君が腕枕を途中で抜いちゃったからって、そんなことで怒ったりしないもん」
「ほぉほぉ、幸男君が途中で腕枕を抜いちゃったのか。それは優しくなかったね。よしよし」
友紀ちゃんが楓ちゃんの頭を撫でている。
てか腕枕? 何それ、楓ちゃん、そんな
……てか幸男このヤロー。誰だか知らないが俺より先に大人の階段上りやがって。絶対許すまじ幸男。とっておきの呪いをかけてやる。全世界のDTの使用量に換算して半年分相当のシャンプーが、幸男がシャンプーを洗い流すときに注がれ続けますように! フンッ。ざまあ見ろ、このゲス野郎が調子に乗りやがって。
などと、俺が器の小ささ丸出しで呪いの言葉を心中で呟いている間にも、友紀ちゃんと楓ちゃんの問答は続いていたようだ。
我に返って楓ちゃんに目をやれば、何とポロポロと涙を零しているじゃないか。
友紀ちゃんは辛抱強く楓ちゃんの話を聞きながら、話させている。流石こういうところが本物の女子だ。中身が男の俺にはとても真似できたことじゃないと感心する。女になって感じるんだけど、男ってすぐ答えを出したがるもんな。ただ聞いて同意して欲しいだけなのに、何かダメ出ししてきたりアドバイスしてきたりするじゃん。こっちは話させてくれさえすりゃいいんだよ。そんなことを言いつつも、聞き手としての俺はそれがなかなかできないんだけどね。その辺はまだまだ男なのだ。
しかし俺は楓ちゃんが既に経験済みであることを知ったショックでもう何だかどうでもいい気持ちになっていた。食べている物の味もよく分からないってくらいに気も
女子ってそんなに進んでたのかよ、おい。はぁ〜。こういうのって、男の方が幻想見ちゃってるのかもねぇ……。ショックだわ。秋菜に訊いてみるかなぁ。
「うんうん。じゃあ幸男君そろそろ買い換えてもいい頃なんじゃないかな」
え、今何て? 買い換えるって言わなかった? 幸男買えるのかよ? ってそんなわけ無いだろう。
「だって、幸男君のこと忘れられないよ、そんな簡単にわたし」
やっぱり聞き間違いか。そうだよ。そう簡単に忘れられないよな。何しろ大事な女の子を捧げた相手なんだ。余程大切な相手に違いないよ。
「気持ちは分かるけどね。でも次もおんなじのにすればいいいじゃん。幸男君は幸男君だよ」
おんなじのにすればいい? ちょっと友紀ちゃん、さっきから酷くね? 一人として同じ人間なんかいないんだよ。友紀ちゃんがこんな酷いこと言う人とは思わなかった。幾ら何でも楓ちゃんが可哀想だよ。
「うぅ。そうかなぁ……。抱き心地とか違わないかなぁ……」
「大丈夫だって。段々また楓ちゃんの体に馴染んでくるんだから。すぐ慣れて今までの幸男君みたいに気持ちよくなるって。心配しなくていいよ」
うぉ〜いっ。楓ちゃん、簡単に説得されちゃダメーッ。て言うかちょっと友紀ちゃん、何言ってるわけ? うら若き乙女が『また楓ちゃんの体に馴染んでくる』とか『すぐ慣れて今までの幸男君みたいに気持ちよくなる』とかもぉ〜っ。女の子がはしたないこと言っちゃダメだよ!
「不安だったら一緒に買いに行ってあげるから、ね?」
「う、うん。じゃあそうしよっかな……」
やっぱり買いに行くって言ってた? おいおいおい。それってまさかプロの方にお相手してもらうってこと? しかも二人一緒に? ダメダメダメ。何言ってんのよ。ダメに決まってるじゃん。
「よし、そうしよう! ところでさ、抱き枕ってどこで売ってるの? 専門店みたいなのあるのかな?」
「抱き枕〜っ?」
「うわっ、びっくりした! 何よ、夏葉ちゃん、いきなり」
「あの、付かぬことをお聞きしますが……」
「何、藪から棒に?」
「幸男君、とは……?」
「え? ひょっとして、夏葉ちゃん、今までの話全然聞いてなかった?」
「えへ、えへへ」
「あ。愛想笑いで誤魔化した。……まあいいわ。幸男君は楓が愛用している抱き枕に付けている名前よ。枕部分が腕みたいに伸びてるんだけど、そこの縫い目が
「はぁ」
俺は気の抜けた返事を辛うじて返すくらいしかできなかった。何でそんな名前を抱き枕に付けるんだよ。そう言えば楓ちゃんって前に友紀ちゃんの強烈なハグから俺を引き離して救ってくれたことがあったっけ。なるほど、怪力。
「ちょっと夏葉ちゃん。何を考えてたわけ? んんん?」
友紀ちゃんが嫌らしい笑みを浮かべて訊いてくる。
「え、いや。何をって、別に?」
「あれあれ? 何かエッチなこと考えてたのかな? んん?」
「ち、違うよぉ。そんなのじゃないって」
「怪し〜なぁ〜。ねぇねぇ。その後、十一夜君とはどうなのよぉ」
「えぇ? またそれ? 彼とは何でもないよ」
「楓、聞いた? 『彼』だって。ヒュ〜」
あらら、また始まっちゃったよ。やりにくいなぁ。
「あのさ、あのさ。もう彼とはエッチしたの?」
友紀ちゃんが声を潜めて顔を近づけて来て、興味津々といった様子でいきなり大胆なことを訊いてくる。
「はぁっ? 何言ってんの。そんなのまだ……」
って違った。まだって何だよ! これからあるみたいな言い方じゃないか。つーかさ、何て言うあからさまな。女子ってこんなにストレートなのか。女子はそんな話しないと思ってたのに。
「ホントにぃ? な〜んだ、夏葉ちゃんもまだなんだぁ」
ん? ということは友紀ちゃんもまだということなのかな。ふぅ、何だかちょっとホッとしたな。さっきは楓ちゃんのことでめっちゃショックだったから。じゃあ楓ちゃんは実際のところはどうなんだろうか。ふふ、逆襲じゃ。逆襲の夏葉じゃ。
「何よ。悪い? そういう友紀ちゃんと楓ちゃんはどうなのよ」
「えぇー、わたし? まだだよ、そんなの。夏葉ちゃんだってまだって言ったくせに」
ふむ。思った通りか。友紀ちゃんはまだと。さあ、楓ちゃんはどうなんだ? 勢い俺と友紀ちゃんの視線が楓ちゃんに注がれる。
「わ、わたし? えっと……その。まだ、だよ……」
恥じらいながらそう言う楓ちゃん。ナイス。そうだよ、楓ちゃんはそうでなくちゃ。さっきの幸男の時の楓ちゃんは楓ちゃんじゃないよ。はぁ〜。超ホッとしたわ。安心したぁ……。
「でもさ、でもさ。麻由美、最近中学の時から付き合ってる彼氏とついにしたらしいよ」
「きゃー、ホントに? 凄い。どうだったのかな」
「んー、それがさ。何だかこんなもんかって感じだったて言ってた」
「え〜、何それ」
ホッとしたのも束の間。何これ、女子トークってこんななの? て言うか、麻由美ちゃんの彼氏それとなくディスられてないか? あ、麻由美ちゃんっていうのは受験組で、前に体育の授業の時に更衣室で登場したことがある須藤麻由美ちゃんだ。流石受験組というか、進んでいるな……。高一でも経験しちゃう子はいるもんなのか、やはり……。早い子は小学生でとも聞いてはいたが。
俺は矢庭に始まったこの明け透けトークに白目を剥いて気を失いそうな勢いで魂を何処か遠くへ持ってかれた。
多分その後もそんな話で盛り上がっていたようだが、俺はほとんど記憶にない。唯一覚えていることと言えば『麻由美ちゃんの彼氏が羨まし過ぎる』と思ったことぐらいだ。我ながら情けない。て言うか女子に抱いていたイメージが今更だけど変わったな。結構大胆にこういう話もするのか。男同士だとしょうもない自慢大会みたいになるけど、女子は女子で意外にそういうことにも興味津々ってことなのかな。やはり思春期なのだ。
それにしてもすげぇな、麻由美ちゃん。痛くなかったのかな。興味はあるけど、ちょっと怖いな……。って違ーーう。俺はそっちじゃないから。そういうことは男に戻ってから是非に。いや待てよ。男に戻る前に一度経験しておくというのもこれはかなり貴重な体験かもしれないな……。って違ーーう。危ねえー。何考えてんだよ、俺。はぁ〜。最近脳の女子化が進んで来て相当やばいな。うっかり油断すると女子目線で考えていることが多くなってるもんな。怖い怖い。
学校帰り、今日も秋菜と甘味処うさぎ屋に寄り道する。秋菜がすっかり気に入ってしまったようだ。勿論俺も気に入っているのだが。前回は抹茶エスプーマ
抹茶エスプーマ善哉はなかなかイケる。エスプーマというのは平たく言うと泡のことだ。普通、亜酸化窒素を圧縮ガスとして用いて細かいムース状に泡立てたものを言う。抹茶エスプーマ善哉は抹茶をエスプーマしたものを善哉に掛けたものということだ。ここのは恐らく抹茶ラテに近いものをエスプーマしてあって、餡この甘みにクリーミーなコクと抹茶のほろ苦さ、そして清涼な香りが絶妙にマッチした逸品なのだ。
秋菜がご機嫌な様子で抹茶エスプーマ善哉を頬張る様子を眺めながら、俺は今日の楓ちゃんや友紀ちゃん達が話していた事柄がうっすら蘇ってきて、無意識に溜息を吐いていたようだ。
「どしたの、夏葉ちゃん? こんな美味しいもの食べながら溜息なんか吐いちゃって」
「え? あぁ、何でもないよ。まだまだ女子のことを分かってないなと思ってさ」
「え、だって夏葉ちゃんもうすっかり女子なのに。今更? 何々、何か困ったことでもあったわけ?」
心配して秋菜が訊いてくる。う〜ん、秋菜になら別に話しても何てことないかな。華名咲家の女子は欧米並みにオープンだからな。何なら全米オープンと言っていいレベルだ。
「あのさぁ、今日のお昼休みにね、友紀ちゃんと楓ちゃんがもうエッチは経験済みなのかとかいきなり訊いてきてさ。女同士でそんなこと話すのかってびっくりしちゃって」
「あぁ〜、皆お年頃だからね〜。そういうことに興味津々なんだよ」
「まぁ、そうなんだろうね。男同士だったら分かるんだけどさ、女子もそうだなんて知らなかったからちょっとショックでさ。誰々はもう経験済みだとか言うわけよ。何か結構明け透けでびっくりしたよ」
「まぁ、仲良し同士だったら普通だよ。皆友達はどうか、自分が遅れてるんじゃないかって気にしてるのよ」
「なるほどなぁ〜。て言うか秋菜随分余裕だな。まさか俺を出し抜いて経験者?」
「バ〜カ。そうやってほら、夏葉ちゃんだって気にしてるんじゃん。そんなこと気にするより、ちゃんと大事にした方がいいよ、女の子は。わたしはそういうの人と比べたり、焦って済ませるものじゃないと思うけどな。あと俺ってまた言ってる」
おぉ、常に一歩先を行っていそうな秋菜なのに、意外にも地に足の着いたしっかりとした考えを持っていた。何だか安心するな。
「分かってるよ。……違った、俺が男とそんなことになるわけ無いだろうが、アホ」
「あら、じゃあ女の子とならしてみたいんだ。秋菜と試してみる? わたしは別にいいけど?」
悪戯っ子のような顔をしてドキッとするようなことを言ってくる秋菜。冗談がキツイよ、ホントに。
「馬鹿言ってんなよ。お……わたしは男だけど外見は女なんだから女の子となんてできるかよ。しかも秋菜なんて身内も身内。っていうかもうわたしの分身みたいなもんじゃない」
「もぉ、いつまでも女の子になりきらないし煮え切らないな。ま、どっちにしてもさ。そういうのって、本当に好きな人に出会うまで大事に取っておいた方がいいと思う。我慢できなかったら精々自分でやっときなさいよ」
「自分でって、どうや……おまっ、何言うんだよ。そういうこと女の子が言うなよな。友紀ちゃんでも言わないぞ」
実際、あんなこと堂々と話題にしてた友紀ちゃんや楓ちゃんとでさえ、ひとりエッチのことなんて話題に上ったこともないっていうのに、何だよ秋菜の奴と来たらもう。俺は赤面して思わず俯いてしまった。
よく考えたら元男の俺の方がこんなに恥じらっているのに、秋菜がこんなにあっけらかんとしているのはどういうわけなんだ。やっぱりこういうところが欧米的なんだよなぁ。
「え、夏葉ちゃんだってどうせしてるんでしょ? 元男の子なんだし。男の子って猿だって言うじゃない?」
んぐぁーー。俺はもう俯いているだけでは足りなく感じて、両手で顔を覆った。言い返せない自分が心底恥ずかしい。
「何よ、夏葉ちゃんたらかわいらしい。結構皆してると思うよ、そんな恥ずかしがらなくていいじゃん。生理前とか結構ムズムズするもんねぇ〜。あはは。寝る前するとぐっすり眠れるし〜」
やーめーろーやー。こいつ絶対俺をおちょくってわざと言ってんな、ちくしょー。俺の意識は再び何処か遠い世界へと旅立ったのだった。
かつて戦場ジャーナリストを自称していた俺は何処へ行ってしまったのやらだ。気が付いてみれば、そういうことは恥ずかしくてとても言えない感じになっていた。いつの間にか女子的な感覚にどんどん染まっていってるから、自分でもびっくりするくらいだ。
帰宅後、秋菜に何を告げ口されたのか、叔母さんからバージンを大切にするように、本当に愛し合える人と出会うまで簡単にそういうことしちゃ遺憾と
相変わらず女子としての生活ってのは疲れるもんだ。そう言えば……。漸く落ち着いてから改めて思い出したが、盗聴の録音記録をチェックしていなかったのと、今日は十一夜君とは全然話せていなかったことを思い出した。せめてLINEの交換くらいできてればなぁ。いや、そもそも十一夜君の場合やってない可能性が高いからなぁ。
パソコンを開いてメールをチェックすると、十一夜君からメールが入っていた。
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