第8話 夕暮れ
百合子にとって、一輝はなによりの憧れであった。
欲しいものはなんでも手に入り、望むものはすべて叶えられた。そんな不自由のない百合子が唯一、憧れたものが一輝である。
初めて会ったのは百合子が小学六年生のときであった。ヨーロッパにて音大での留学が終わり、一輝が日本へ帰国したさいに、百合子の新しいピアノの家庭教師として紹介されたのである。
いとこと言う関係ではあったが、百合子は一目で恋をした。
その容姿、まなざし、豊富な知識に紳士的な物腰、そして圧倒的なピアノの技術。どれをとっても、いままで百合子が会ってきた異性のなかで、一輝はその名の通り光り輝いていた。
けれども一輝からすれば、百合子はピアノを教えてあげている小さな女の子でしかなかった。また留学をするにあたって、世話になった黒木正義の孫娘とあっては、気を使わずにはいられない関係であったのだ。
そんな一輝に婚約者がいることも、百合子は知っていた。それでも自分に振りむかせて、絶対に手に入れてやると固く決めたのである。
恋に落ちたそのときから、百合子のすべては一輝に注がれた。学業にて学年全科目にて一位を取るまで努力し、一日に何時間もピアノの練習をした。
高熱が出て倒れても練習をし続けた。
すべては一輝に認めてもらうために。
その努力は開花した。
全国でもレベルが高い、難関のピアノコンクールで見事優勝したのである。これで一輝に認めてもらえる。百合子はそう信じて疑わなかった。
控え室にはお祝いに駆けつけた親戚や友達に囲まれながら、百合子は一輝を待った。ほどなくして、運命の時がやって来た。
彼が姿を現すと、少女たちが小さく黄色い悲鳴をあげた。誰もが一輝に注目していた。ゆっくり近づく彼に、百合子は一歩進みでた。
「おめでとう」と抱きしめてくれるであろうか。それとも、ひざまずいて手にキスをしてくれるであろうか。
緊張と興奮、そして祝福される一輝との未来に、百合子の胸は張り裂けんばかりであった。目を閉じ、「百合子」と声をかけられるのを幸せな思いで待っていた。
だが、いつまでたっても名前は呼ばれなかった。
いぶかしげに目を空けた百合子が見たものは、知らない少女の前に一輝がひざまずき、優しいまなざしを向けながら手をとっている姿であった。
その相手は、入賞はしたが三位にも入らない下手な演奏をした子であった。
「お嬢さん、入賞おめでとう。きみの演奏に、ぼくは一番心を打たれたよ。コンクールではミスのない演奏、譜面の誠実さが評価されるけれど、音楽性ではきみのピアノが一番素敵だったよ」
百合子の世界は崩壊し、その激情の底から現れたのは「憎しみ」であった。
○
「それでは、午後のスピーチ大会の代表は黒木さん。黒木百合子さんに決定でよろしいですね」
担任の教師は、黒板に書かれた正の字をみながら教室を振り返った。生徒たちは異存なく、後方に座っている百合子に向かって静かな拍手を送る。
「今年も百合子さまのお陰で、わたしたちのクラスが優勝ですわ」
「頼もしいですわ。さすがは百合子さま」
口々に世辞が飛び交うなか、それらを無視するように百合子が立ちあがった。
「今年は、わたしが考えた適任者を推薦いたします。よろしいでしょうか、先生」
手帳に名前を書き込もうとしていた教師は、驚いて顔をあげると眼鏡のふちに触れた。
「ええ、黒木さんがそう言うのなら先生は構いませんよ。生徒の皆さんに異存がなければ」
「ありがとうございます。それでは」
ざわつく教室にむけて、百合子は片手をあげた。
「それでは、わたしが推薦する適任者を発表します」
その背中に、黒い陽炎がたちのぼる。
「春日さん、お願い致します」
すべてを遮断し教室の隅でうつむいていた紫苑は、突然の悪意をむけられ、肩を震わせて百合子に振り返った。
それ以上に驚いたのは生徒たちである。
「黒木さん、それはちょっと」
予想外のことに担任の教師も目を白黒させ、静まり返った教室の空気に飲まれていた。誰もがスピーチ大会と言う場で、紫苑を指名するとは思わなかったのである。
けれども、いち早くその意図に気がついたのは、取り巻きの亜美と優子であった。
「それは素晴らしいですわ」
「わたしも春日さんを推薦致します」
言うまでもなく、百合子は紫苑が話すことができないのを知っていて、あえて指名したのである。あろうことか、スピーチ大会という学園をあげての催しの場に、紫苑を引きずりだす魂胆なのであった。
あまりのことに否定することも出来ず、紫苑は突然にむけられた冷たい殺気と驚きに、ただ固まりながら胸を押さえていた。
そんな役は受けられない、と言いたくとも、じわじわと教室中に広がった残酷な思念が押し寄せ、余計に紫苑を委縮させる。
「黒木さん、さすがに、それは無理ではないかしら」
「なぜです」
「だって、春日さんは」
優雅ではあるが、まったく温かみが感じられない百合子の声色に、担任も恐る恐る意見する、と言う様子あった。
この学園では、誰も百合子に逆らえないのである。
「先生、ご存じないのかしら。春日さん、仲の良い友達とならお話しされるのよ」
「あら、そうなの」
違う、と腰を浮かせかけた紫苑は、百合子の浮かべた笑みに体を縛られてしまった。なぜ、これほどまでに自分が憎まれなくてはならないのか。
その理由は紫苑にはわからない。
「それに、このあいだ春日さんから相談を受けたのです。もっと、人前で話せるようになりたいと。そこで今回の推薦を思いついたのです」
すべて出鱈目なのだが、それを否定し教室の全員を説得する術を持たない。いまこの場で声をあげられたとしても、完全に百合子に飲まれてしまっている状況で、誰が聞き入れてくれるであろうか。
「それに、感動的な話ではありませんか。ずっと話せなかった子がスピーチ大会で元気よく活躍するなど。先生の評判も上々ではありませんこと」
「そうねえ」
担任も眼鏡に触りながら、満更でもない様子である。
〝違う、違う、違う。わたしは〟
残念ながら、紫苑の声は誰にも届かない。
「春日さん」
百合子は、ゆらゆらと冷たい光を放つ目をむけて紫苑へと向き直った。その静かな迫力に、とても抵抗できない。
「スピーチ大会、頑張りましょうね。銀杏ヶ丘学校のためにも」
紫苑は息を飲み込んだ。
唐突に航空祭での光景がよみがえる。あの時、しがみついた黒木と言う男性の後ろに百合子がいたのを、今更ながらに思いだしたのである。
そして、苗字が同じなのは、ただの偶然ではなかったのだ。すべては繋がっていたと言うことである。
百合子のゆがめられた唇は、「わたしに出来ないことは、なにもないのよ」と雄弁に語っていた。つまり、銀杏ヶ丘学校の存続は、百合子の意思でどうにでもなることを理解させられたのである。
紫苑は脚が震えて立ちあがることも出来ない。
いまの紫苑にとって、銀杏ヶ丘学校は自分にとって大切な場所だけではなく、アイオレスの身を守る場所でもあるのだ。それが世間に知れたとなったら、どのような事態になるかは想像もつかない。
絶対に知られてはならない。
絶対に壊されてはならない。
もはや紫苑に選択の余地はなかった。
どんなに理不尽で残酷なものであっても、受け入れる以外にアイオレスを守る方法はない。
紫苑自身の気が付かないところで、アイオレスの存在は孤独を分かち合うかけがえのない存在となっていた。彼女にとって、失いたくないと言う気持ちが深く芽生え始めていたのである。
この世界で、二人にとって唯一の居場所である廃校の音楽室。そのなかで紡がれた麗らかな時間は、紫苑にとって新しい絆となり深く胸に刻まれていた。
守りたい。
守らなくてはならない。
いま自分とって、なによりも大切なものは何か。
それらを考えたとき、紫苑は震える手を胸に当てながら顔をあげた。
「それでは春日さん。本当によろしい」
担任からそう確認され、紫苑はうなずいた。
「原稿も、わたしが用意したものがあるから、不備はなくてよ。春日さん」
百合子の笑みは、この上なく冷たかった。
○
アイオレスは、ひとり植物を育てていた。
カイワレ大根・ミント・バジルなど、栽培が簡単なものである。食料と言う意味もあるが、実際に自分で種をまいて発芽させ、それを食するという輪廻を体験したいと考えていたからである。
鉢植えから小さな芽がでたときは、生命の神秘に感動したものである。地球人からすれば些細なことではあるが、いままでデストシアの超科学に頼り切っていたアイオレスには新鮮かつ、新たな視野の開花でもあったのだ。
殺すことばかりであった自分の手が、生命を育むことが出来たのである。その新しい価値観による喜びは何物にも代えがたく、ディアボロイドを救う限りなく小さな希望として受け取ったのである。
自然と共存した、なんと素晴らしい経験であろうか。
この惑星による自然界の大きな力は、どんな小さなものであっても恩恵を与えられている。
アイオレスは食事をする際に食べ物に感謝すると言う、紫苑の言葉を初めて理解し実感したのであった。
食物連鎖、生命の神秘、あらためてアイオレスは科学では越えられない惑星そのものが持つ、自然の力に感銘を受けた。
それは惑星にとどまらず、この宇宙すべてに存在する究極の摂理として機能しているのだ。
なぜディアボロイドは自然に逆行する道を選んでしまったのか。食料にしても以前の自分であれば、紫苑が持ってきてくれる量ではとても足りないはずであった。
にもかかわらず、いままでに感じたことのない満足感と栄養価により、再生が終わろうとしている肉体は見違えるほどに逞しくなっていた。
断裂した筋肉はひと回りも太く修復され、腹部の大きな傷も新たな硬化質の皮膚によって塞がれていた。
血液量も増加したためか、足の骨折も驚異的な速度で回復している。いまだ全力で踏み込むことは出来ないが、剣術の鍛錬をするにあたって不自由をすることはない。
肉体の再生を促進する効果も狙い、鈍っていた体を動かしたとき自らの体の軽さに驚いたものである。
サーベルの扱いはより正確に鋭く、そして力強くなっていた。さらにはどんなに激しく動いても、まったく息が切れないのである。
地球での空気、水、食料がアイオレスの肉体を再生させるとともに、無尽蔵とも思える体力を与えていたのである。
これらの事象に対し、アイオレスはどうにかしてデストシアへ情報を持ち帰り、ディアボロイドたちを開眼させる術はないかと考えていた。
しかし、この状況では、どうすることも出来ないのが残念でならない。いまは可能な限り、地球での経験を積むしかないのが現状である。そして、少しでも多くの知識が必要になる。
紫苑よりもらった端末にて、植物の育て方や、海や山など自然の動画を見ていたアイオレスは、ふと近づいてくる足音に顔をあげた。
〝ただいま、アイオレス。ごめんね、遅くなっちゃった〟
「おかえり。気にしなくていいよ」
音楽室に入ってきた紫苑を見て、アイオレスは一目でなにかあったのだと気が付いた。笑顔を作ってはいるが、あきらかに紫苑の表情がさえない。
だからと言って「なにかあったのか」と聞くようなことはしなかった。彼女が笑顔を作っているのであれば、自分に心配をかけまいと努力しているのである。
であるのなら、気が付かない振りをするのが優しさなのであろうか。これは人間とディアボロイドと言う関係でなくとも、人間同士でも起こりうる事柄であろう。ここでは、あえてなにも触れない選択をしたのであった。。
アイオレスが耳付きのパンで作られたサンドウィッチを食べ始めると、紫苑はおしゃべりもなくピアノを弾き始めた。
海側に面した窓は外から死角になるため、アイオレスは窓際から遠くに見える海を眺めていた。潮の香とは、どんなものなのであろうか。そう思いを巡らせる背中に、バッハの旋律が流れ込んできた。
恐怖と絶望。
何百という奇異なる者を見る目、蔑みの視線、そして悪意。嘲笑と哀れみの嵐に飲み込まれながらも、紫苑はそれでも耐え続けた。
どんなに蔑まされても、どんなに冷たい刃を突き立てられても、紫苑の確固たる意志がその細い両足を支えていた。
体は震え、胸は引き裂かれ、唇は真っ白になるまで噛み締められた。
ピアノの音色は、紡がれるたびにアイオレスの胸の情景から色を奪って行く。湿度を持った音はまとわりつき、深海に突き落とされるような冷たさであった。
黒い瘴気が手足を縛り、光の届かない海の底へと引きずり込もうとする。もがくことも許されず、紫苑はただ突きつけられる負の感情に全身を貫かれていた。
それでも立っていたのは、守るべきものがあったからである。その小さな体では、とても受け止めきれない恐怖も悲しみも、すべては、ふたりの居場所を失いたくない。その一心のみであった。
鍵盤は激しく叩きつけられ、弦は紫苑の心を映して共鳴する。音楽室は紫苑の叫びによって埋め尽くされた。
彼女自身が声をだせない代わりに、ピアノは悲鳴をあげ、震え、泣き叫んだ。
紫苑の胸を占めていた、あらゆる感情が爆発していた。細い指は別の意思を持ったように駆け巡り、慟哭と言う魔物に憑りつかれたごとく音をまき散らす。
怒りなのか。
悲しみなのか。
それとも憎しみなのか。
あらゆる叫びは濁流として荒れ狂い、いつまでもアイオレスを打ち続けた。氷のように冷たいはずの音色は、胸のなかで激しい熱量をもって揺さぶってくる。アイオレスの扉を開けようと、大声で呼びかける。
起きろ、起きろ、起きろ。
目を覚ませ。
アイオレスの胸の底に眠る〝それ〟は、紫苑の激情によって長き眠りより揺り起こされようとしていた。
ふと紫苑の指が止まり、夢うつつだった目に表情が戻る。宙で止まっていた手を膝に置くと、紫苑は顔をむけた。
〝アイオレス。泣いているの〟
気が付けば、アイオレスの双眸からは涙がこぼれていた。
彼はそれを拭おうともせず、遠くに見える海を見つめていた。
「一体、どうしてしまったのだ」
夕日に頬を光らせ、アイオレスは紫苑に聞いた。ピアノから離れると紫苑は歩み寄る。
〝それは、涙よ〟
「涙とは、なんだ」
〝悲しかったり、絶望したり、人の気持ちが溢れたときに流れるものよ〟
「わたしは」
紫苑は、そっとアイオレスの頬にふれると、彼の涙にぬれれた手を夕日にかざす。
〝どうして、あなたが泣くの〟
アイオレスは、その小さな手をにぎった。
「それはきっと、きみが泣かないからだ」
○
「紫苑ちゃん。さっき担任の先生から電話があったわ」
翌朝、起きてきた紫苑に泉が言う。
ふたりきりの息の詰まる食卓。
「スピーチ大会の代表で出たって、本当なの。どうしてそんなことをしたの」
紫苑は答えない。
どんなに言葉を尽くしたところで理解はされないだろうし、本当の話をするわけにもいかない。
何を言っても無駄なのだ。
もうずっと前から、紫苑は泉に気持ちをわかってもらうために会話をする、と言うことを放棄していた。ましてや異星人であるアイオレスの身を守るためだ、などと言って誰が信じるであろうか。
「どうして、自分を傷つけるようなことをするの」
けして泉は怒っているわけではない。
ただ、紫苑の気持ちが知りたいのだ。
一方の紫苑は、言葉の無力さを感じて気持ちを伝えることを諦めてしまった。そのかわりとなるピアノは、泉には理解ができない。どこまでもすれ違うふたりは、いつまでもすれ違ってしまうのである。
勿論ふたりとも、このままで良いとは思っていない。だが、だからと言って歩み寄る方法がわからない。
「なんとか言ってちょうだい」
泉の言葉に嘘はないのだが、紫苑には責められていると感じてしまう。それは仕方がないことであった。
なんとか持ちこたえていた紫苑も泉も、お互いに限界が近づいていた。
「紫苑ちゃん」
紫苑はテーブルの上のスープをひっくり返し、椅子を倒して立ちあがった。
「なにをするの!」
そのまま出ていこうとする紫苑の腕をつかむと、泉は強引に振りむかせた。
「いい加減にしてちょうだい! 一体わたしが、どれだけあなたの事を考えていると思っているの」
離さない泉の手に、紫苑は噛みついた。
「いたっ」
泉は、紫苑の頬を叩いてやめさせた。
それは反射的なものであったかもしれない。だが、手をあげたことには変わりのない事実である。
紫苑は床に倒れ、半身を起こすと口元に手をあてた。
血がにじんでいた。
怪我をすることには慣れている。
だが、紫苑の心を完全に閉ざさせてしまうには、充分すぎる出来事であった。呆然と自分の手を見ている泉に、紫苑はあきらかに敵意を持った目をむけた。
泉は、誰かを叩いたなど初めてであった。
ましてや傷ついている自分の娘をである。
「ごめん、なさい」
まぶしい朝日の輝きは、ふたりの間には届かなかった。テレビもついていない食卓は、倒れた娘と、立ち尽くす継母の沈黙に満たされていた。
紫苑はカバンも持たずに飛びだした。
「紫苑ちゃん!」
すべてから逃れたかった。
この孤独から。
この苦しみから。
そして、この不自由な世界から。
ピアノを弾くことでしか解放されない紫苑の魂は、安らぎの場所を求めて駆けだした。
紫苑が平日の朝にその音楽室へ来るなど、初めてであった。
植物を管理していたアイオレスは、地球時間での人々の生活も学んでいた。
学生は、日曜日以外は学校へ行き勉強をする。
それが普通なのであろうが、紫苑はいろいろな意味で普通ではないのだ。他の大勢にあてはまるものが、彼女にも適応するとは限らない。
アイオレスは紫苑以外の地球人を知らないが、少なくとも彼女が抱えている孤独は、誰よりも分かち合っているはずであった。
なぜなら、こうして傷ついた少女が居場所を求めて抱き着いて来たからである。小さな体は震えている。
どれほど苦しかったであろう。
どれほど辛かったであろう。
アイオレスは、こういう時に投げかける言葉を知らなかった。
〝ねえ、アイオレス。わたしと一緒にいてくれる。みんな、みんなわたしを傷つけるの。どこにいても、なにをしても。わたし、もう耐えられない〟
「大丈夫だ、紫苑。一緒にいるよ。わたしは騎士だ。地球の騎士とは、姫様を守るものなのだろう。それなら、わたしが紫苑を守ってあげるよ」
〝本当に。本当に一緒にいて守ってくれるの。ずっとよ、ずっと一緒によ〟
「ああ、本当だ」
アイオレスは紫苑の前に片膝をつくと、その手を取った。
「これが、騎士の忠誠の証なのだろう」
なにをするのか不思議に見ていた紫苑の顔に、小さな笑みがこぼれた。
〝どこで覚えたの。そんなこと〟
首に腕を回すと、ふたりは笑いあった。
その日、紫苑とアイオレスは夕暮れまで一緒に過ごすこととなった。
お互いに得意な分野の勉強を教えあった。
アイオレスは数学・物理を。けれども、アイオレスの知識は地球上の学者を集めた以上のものであったため、紫苑には豆粒ほども理解できなかった。
逆に紫苑は音楽の授業をした。
紫苑がピアノを弾き、アイオレスが歌った。
初めての経験であるアイオレスの歌に、紫苑は笑いすぎてピアノが弾けなくなってしまった。
一緒にお昼を食べ、昼寝もした。
たくさんおしゃべりをした。
トランプもしてゲームも楽しんだ。
そして、アイオレスの育てている植物を観察し、ピアノを弾いていると夕方になった。
幸せな、心安らぐ優しい時間であった。
だがそれも、もう終わろうとしている。
鉢を取り換えるため、アイオレスが紫苑のピアノを聴きながら用具室へと姿を消した時である。
「紫苑ちゃん」
泉が姿をあらわした。
紫苑は目を見開いて、ピアノから立ちあがった。
「こんなところに、いたの」
音楽室へ入ってこようとする泉の前に、紫苑は慌てて両手を広げて立ちはだかった。
「あのあと、学校から連絡があって、紫苑ちゃんが来ていないって。わたし、てっきり学校に行ったものかと。朝から一日中、探していたのよ」
泉は、困惑とも怒りともつかない表情を浮かべていた。
〝帰って!〟
紫苑は激しく手を振った。
全身から激しい拒絶の意思が放たれる。
何者をも通さない、強烈な否定であった。
「紫苑ちゃん、今朝のことを謝りたいの」
〝知らない! 帰って! もう嫌なの、みんなみんな、わたしを傷つける。あなたも!〟
「ごめんなさい。叩いたことは、けして故意ではないのよ。急に紫苑ちゃんが噛んだりするから」
痣のついた手を、泉はさする。
「勇樹さんも。パパも、さっき連絡をしたら、とても心配していたわ」
〝パパなんて呼ばないで!〟
「どうして、わたしは勇樹さんの妻であり、あなたのママなのよ」
紫苑はかっとなり、泉を突き飛ばした。
小さな子供の力とは思えず、泉は激しくお尻を打ち付けた。
〝あなたはママなんかじゃない!〟
「ひどい」
一度ならず、二度までも。
咄嗟についた手をひねってしまい、泉も怒りをあらわに立ちあがった。
ついに、泉も抱えていたものが弾け飛んだのだ。
「あなたに、あなたに何がわかるって言うのよ! わたしがどれだけ苦労したと思っているの!」
〝勝手にパパを取った人のことなんて知らない!〟
「プロポーズしたのは勇樹さんからよ。三人で幸せになろうって約束したのに、みんなあなたがぶち壊したのよ。本当なら、今頃みんなで笑いながら暮らしていたはずなのに!」
〝死んだママの事を忘れて、笑って過ごすことなんて出来ないわ。それで幸せになろうなんて、馬鹿にしてる〟
泉は子供相手に我を忘れていた。いや、それだけに泉も追い詰められていたのである。
「忘れろなんて言っていないわ。受け入れなさいと言っているの。そうやって、あなたが過去に縛られ続けているから、こうしてみんなが不幸になるのよ。いつまでも子供みたいなことを言わないで!」
〝あなたのママは生きているのでしょう! そんなの無責任だわ! わたしのママを追いだしてパパに近づくなんて。あなたなんて、絶対にママなんて認めない。わたしのママはひとりだけよ!〟
「言わせておけば!」
泉は紫苑につかみ掛かると、そのまま押し倒した。
「話すことも出来ないのに、生意気なことを。あなたのせいで、わたしがどれだけ笑われたと思っているの!」
〝自分の体面ばかり気にしている、ずるい大人。そんな人がわたしのママなんて絶対に嫌!〟
下から睨み返す紫苑の瞳は、美しいほどに鋭かった。
「この」
泉はつかんでいた襟を放すと、紫苑の細い首に両手を押し当てようとした。
「やめろ」
アイオレスが言った。
突然の侵入者に、泉は凍り付いた。
見たこともない、異形の姿をした異星人である。それが日本語をもって仲裁に入ったのである。
これがどんなに非日常的で、異常なことか。
一瞬の沈黙の後、泉はいままでのすべてを忘れ、悲鳴をあげて飛び退いた。紫苑でさえ、意識のないアイオレスを遠くから見ただけでも恐怖のあまりに震えたのである。
二メートルはある体躯をもった異星人が、吹き荒れる殺気を放ちながら見下ろしているのである。
これが戦慄せずにいられるはずがない。
泉は金切り声をあげながら、力の入らない足を引きずるようにして廊下へ転がりでた。いつまでも悲鳴をあげながら駆けて行き、そして姿を消した。
追いかけることも、捕まえることも出来たのだが、アイオレスはあえて泉をそのままにするしかなかった。
まがりなりにも、泉は紫苑の母なのである。
「大丈夫か」
アイオレスは膝をつき、紫苑の肩を抱いて起こした。顔をあげた紫苑の顔は、赤く怒りに高揚していた。
形の良い眉が、すうっと釣りあげられている。
〝どうして! どうして出てきたの!〟
「きみを守るためだ」
〝違う違う! アイオレスが、アイオレスのことが知られちゃうじゃない! これで、あなたのことが、みんなに〟
紫苑は、何度もアイオレスの胸を打ち付ける。本気で叩いていた。
「聞いてくれ、紫苑。遅かれ早かれ、こうなることは分かっていたんだ。いつまでも、わたしは、ここにいることが出来ないと」
〝ずっと一緒に、いてくれるって言ったじゃない。わたしを守ってくれるって言ったじゃない!〟
紫苑の叫びは、アイオレスの胸を締めあげる。
「確かに言った。だが、これは本来あるべき姿ではないんだ。私は異星人で、きみにはお家があって家族がいる。わたしたち二人で共存するなど、不自然なことなんだ」
〝嘘つき嘘つき、嘘つき!〟
黒々とした瞳から溢れる涙は、夕日に反射していた。
アイオレスとて、いつまでもこの関係が続けば良いと、本気で思っていたのである。
「すまない紫苑。別れは、いつか必ず来るものだ。そして、楽しい時間も永遠ではない。物事には終わりがあるんだよ」
〝嫌だ、嫌だ! あなたがいなくなったら、わたしはどうすればいいの〟
さきほどから、うるさいほどに鳴っていた。
「わたしは短い間ではあったが、この地球でかけがえのない経験を沢山させてもらった。自然の恩恵に、きみと過ごした日々。とても素晴らしいものだった」
〝そう思っているのなら、どうして〟
「大切なものを胸に、いつかは自分の足で立ちあがらなくてはならない。それが大人になる、と言うことなんだ」
〝絶対に嫌よ! 大人になんてなりたくない〟
濡れた頬を押し付けて、紫苑は嗚咽をあげてアイオレスに抱き着いた。何があっても離れないように、持てる力をもって抱き締めた。
もはや確認するまでもなかった。
その耳に、痛いほど鳴り響いていた。
アイオレスは、その細い体を抱き絞めながら、赤子に聞かせるように優しく言った。
「わかったよ、紫苑。それなら一緒に逃げよう」
紫苑は体を放すと、アイオレスの顔を正面から見返した。
〝本当に〟
「ああ、本当だ。だけど、その前にやらなくてはならないことがある」
〝なにをするの〟
「わたしがディアボロイドとして、デストシアの騎士として、責任を取らなくてはならない。その責任をとらないことには、わたしはどこにも逃げることが出来ないのだ」
まるで警告のように、激しく鳴り響いていた。
頼もしいはずの音が、こんなにも恐怖と絶望を呼び起こすとは、アイオレスは自分の変化に驚くばかりであった。
それだけに、地球で受けた影響と恩恵が、彼を心身ともに成長させていたのである。
〝なにを言っているの〟
「紫苑。すぐ戻ってくる。だから、ここで待っていてくれ。責任を取り終わったら一緒に逃げよう。わたしは姫を守る騎士だからね。ずっと、ずっと、きみを守り抜いてみせるよ」
アイオレスが何を言っているのか理解できなかったが、言葉にはならない大きな不安が、紫苑の胸に渦巻いていた。
〝アイオレス〟
「紫苑、ありがとう」
ふたりを引き裂いたのは人間ではなく、空から落ちてきた真っ赤な光であった。
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