第7話 再生
心身ともに、劇的な変化が起きていた。
アイオレスが水資源の豊かな惑星・地球に墜落し、紫苑との奇妙な生活が始まってから二週間が過ぎていた。
もちろん、それはディアボロイドであるアイオレスが、地球時間にて体感したものである。
一週間は一日が七日間でカウントされ、一日は二十四時間、一時間は六十分と細かく細分化されている。
この惑星が太陽と呼ばれる恒星を中心にまわりながら日の出、日の入りと、地球人の活動サイクルに振り分けられた時間スケジュールである。
彼らが太陽の恩恵により繁栄を続けるため、太古の昔から人間たちに刻まれた体内時計を数値化したものであった。
地球人たちは日が登ると目覚め、日が沈むと眠る。そして畑や水田、酪農など自然の力を利用した方法で農作物を生産していた。水が生命を産み、光と土が育て、風が伸ばす。
地球人は自然と共存しているのだ。
デストシア帝国の開発環境とはあまりにベクトルを違える画期的、いや革命的とも呼べる生産方法であった。
革命的などと言ったら、地球人は笑うだろうか。そうアイオレスは感じていた。
超巨大プラント内にて人工的に培養し均一の食料を絶え間なく大量生産するという、デストシアの科学力に依存しているディアボロイドたちには想像も出来ない英知である。
もちろん手間や管理は自動化されたものより格段にコストがかかる。けれどもそれは側面的なものであり、環境、品質、副産物への展開など、総合的な面で考えれば比べ物にならないほど合理性なのだ。
デストシア帝国は、植民地とした惑星そのものを生産プラントに改造すると言う、他の追髄を許さない超科学力により発展し勢力を伸ばしてきた。
だが、こうして考えると自分たちの環境を整えるために惑星を作り変え、結果として資源を喰い潰しているようでは、ディアボロイドの科学力も大して誇れる代物ではないらしい。
地球人たちの科学技術はデストシア帝国より何十世代も遅れているが、それは自然と共存するために必要以上の発展を望まなかったのか、いまだ発展途中なのか。
どちらにしても地球人が編みだした農作物の生産技術は、食糧問題を抱えているディアボロイドたちを救うきっかけになるのではないか。それが、この二週間のあいだにアイオレスが導きだした答えである。
食糧問題と環境汚染が一度に解決し、結果として侵略行為から解放されるこの農耕技術は、ディアボロイドの真の繁栄に必要不可欠なものである。
自然の理、万物の法則を人工的に押さえつけた発展には必ず限界が来ると言うことを、ディアボロイドは何万年ものあいだ気が付かずにいたのだ。
地球には食物連鎖という言葉があり、強いものが弱いものを食らい糧とする。そして強いものが息絶えたとき、その亡骸は一番弱いものの糧となり、美しい生命の輪を紡いでいるのである。その連鎖は広がり地球そのものが、ひとつの輪廻として機能しているのである。
この宇宙に繁栄する、気の遠くなる年月をかけて産みだされた尊い生命の輪は、デストシア帝国の侵略によって幾度となく食い尽くされた。
なんと言う愚行。
なんと言う傲慢。
百回か。
千回か。
一万回か。
殺戮した生命の数にいたっては、表記する単位が存在しないであろう。聖地奪還という免罪符を掲げディアボロイドによる大量虐殺と侵略の歴史は、未来永劫に語り継がれる罪業である。
なればこそ、デストシアの呪いから解放されたいま、アイオレスはディアボロイドたちを救いたい。
そう考えていた。
許されるとは思わない。
だが、これ以上の無益な侵略を繰り返さないために、自然と共存するという地球人の英知をもって終止符とするのだ。
ディアボロイドは残忍で好戦的であるかもしれないが、高度な知能を持っている。
必ず成功する。なぜなら、アイオレスがその身をもって深く体に刻み込んだからだ。こうして生まれ変わった自分自身が、その証明である。
まず肉体。
足が骨折し、墜落時の衝撃による筋肉の裂傷に筋の断裂。大量の出血に内蔵も傷ついていた。
これだけの大怪我を負ったにもかかわらず、今ではゆっくりだが立ちあがれるまでに回復した。
もともと、ディアボロイドという種族が並々ならぬ生命力を持っていることもあるが、過去のデータから比較しても倍の速さで治癒が進んでいる。
水、食料、空気、そのすべてがアイオレスの肉体に絶大なるエネルギーを与えてくれている。人工的に生産された食料の栄養とカロリーバランスは完璧だが、それだけではない未知なる力が作用しているのだ。
強いて言えば自然の力である。
日の光を受けて発芽した生命の恵。
大地と水、そして風の恩恵を受けた食料を体内に取り入れることで、この地球という惑星と同化するのである。
なんと素晴らしい摂理だろうか。
アイオレスは墜落したときに一度死に、再生と同時にこの地球で新しい生を受けたのだ。
人工的な生体エネルギーでは味わえない、みずみずしい命の力。傷が治癒されると同時に、アイオレスの肉体はより強靭なものとなっていた。
血液、筋肉量の増加。骨と外皮の硬度が強化され、体の底から無尽蔵に力が沸いてくるのだ。
心臓が脈打つたびに熱い血液がめぐり、四肢に痛いほどの躍動がほとばしる。溢れだす活力がアイオレスのなかで覚醒し、まさに地球での生命の息吹きに包まれていた。
なんという奇跡であろうか。
こんなに明るく清々しい気持ちは初めてである。気がつけば四六時中、頭上に吹いていた暗く重たいが風が止んでいた。
そう、肉体の変化と同時に訪れたのは、アイオレスの精神的な変化であった。一日、一日と目覚めるたびに体の再生を体感し、それにともなう思考能力の向上と感情の安定は、なによりも彼の視野を広げたのである。
思い返せば、寝ても覚めても理由のない怒りがくすぶり続け、本能と欲望のままに殺戮を繰り返していた自分に恐怖した。それはけして満たされることのない破壊衝動であり、ディアボロイドたちは侵略と言う形で消化していたのだ。
怒りを放てば放つほど黒い炎に飲み込まれ、這い出そうとしてさらに怒り狂う。
侵略を終えたときに覚えた高揚感と満足感はけして本物ではなく、永遠に抜けだせない負の連鎖に対する無自覚な逃避でしかなかった。
何万年もの間に、ディアボロイドは万物の理から遠く離れる道を歩んでしまっていたのだ。
何が理由で、光り輝く世界から逃げてしまったのか。それはもう、今となっては誰も知ることのできない謎である。だが一度闇のなかへ逃げ込んでしまった彼らは、たびたび救い出そうとしてくれる光に対し恐怖と痛みを感じ、さらに闇へ闇へと潜り続けてしまったのである。
その痛みから身を守るために、科学技術による絶対的な恩恵がさらに拍車をかけたのであろう。いつしかディアボロイドは自分で自分の首を絞める世界から抜けだせなくなってしまっていた。そうしてデストシア帝国は殺戮の輪廻のなかで、無限の苦しみにもがき続けていたのである。
幸運にも、と今でこそ思えるが、事故により地球へ墜落したアイオレスは、結果としてディアボロイドたちを憤怒と餓鬼の地獄から解放するための英知を得たのである。この穏やかな気持ちは自然と調和し、静かながらも大きな力をもって包み込んでくれている。
なんと美しいのであろう。
なんと眩しいのであろう。
数万年ものあいだ、宇宙を飲み込んだ負の連鎖から、ひとりの地球人、いや、ひとりの聡明なる少女によって救われる事になろうとは。
アイオレスは、いままで自分が信じて疑わなかったデストシアの信仰や理想、そして生きている理由までもが、こんな短時間でひっくり返ってしまったことに驚きを隠せない。
自分の中にあった確固たる信念は、こんなにも脆いものであったのか。いや、それだけに地球で受けた洗礼が強烈なものであったのだ。
デストシアの騎士としてのプライドや地位、サーベルの価値。そのすべてが、いまは取るに足らない、ちっぽけなものへと変わってしまっていた。
その代わりに、新たに湧きあがった価値観がある。
生命、大地の恩恵、自然と共存する地球人と言う種族。これらに対するアイオレスの興味と尊敬は、いまなお増して心を占めていた。
初めは命を救ってくれただけの、なにの価値もない異教徒のひとり。その紫苑も、ともに過ごすうちにアイオレスにとって掛け替えのない存在となりつつある。
もっとも、他の地球人との接触がないために絶対的な基準として評価されているのだが、それだけではない運命的なものを感じていたのであった。
〝ピアノ〟と呼ばれる楽器から流れる旋律を聴くたびに、アイオレスの胸に宿る〝それ〟が光を増して燃えあがる。
〝それ〟が、なにであるか彼はまだ知らない。
彼女の奏でる音色により、ディアボロイドとして受け継いできた魂の底に眠るなにかが、目を覚ましつつあるのだ。
この数日間のうちに劇的な再生を続けるアイオレスは、そんな自分に戸惑いはあるものの、不快とは感じていない。それどころか自分がどこまで変わり、どこまで新しい世界が見られるのかと、変わりゆく自分を受け入れていた。
これらのきっかけをつくった紫苑。
ふと、彼女がやってきた気配を感じ、アイオレスは読んでいた農学の本から顔をあげた。
〝おはよう、アイオレス。怪我の具合はどう。今日のメニューは、あなたの好きな卵と果物。さっきそこの直販所で買ってきたから採ったばかりよ。あと、お気に入りのお水。摩周の霧水〟
紫苑は大きなカバンを置くと、そのなから、みずみずしい果物と卵、そしてミネラルウォーターを取りだした。
〝ほかには、おやつのナッツ類。今日はこれくらいしか持って来れなかったけど平気〟
「ああ、いつもありがとう。こんなに重かっただろう」
〝ケガしてる人は、そんな心配しなくていいのよ〟
ふたりは、すっかり仲良くなっていた。
また、たった数日でアイオレスが手話を読むことを習得したため、お互いの意思疎通が潤滑に行えるようになったのである。
他人との接触を避けていた紫苑が、なぜアイオレスとここまで打ち解けることが出来たのか。異星人と言う、人間ですらない地球のしがらみを持たないためであろうか。それとも、純粋にアイオレスから悪意や冷たい感情を感じなかったからであろうか。
その理由はわからない。
ふたりは、言葉や理屈では言い表せられない、人智を越えたなにかに引き寄せられたようであった。
もっとも、そこが紫苑の聖域であり、本来の姿をさらけ出せる場所にアイオレスが入ることを許された、と言うこともあるだろう。
一方アイオレスも、戦うことでしか存在理由を見つけられなかった自分に、広い視野を得るきっかけとなった紫苑に深い感謝の念を覚えていた。
そして彼女の奏でるピアノに、なぜか強く心を揺さぶられる理由を知りたいと思っていた。いままで感じたことのない感情なだけに新鮮でもあり、怖くもあった。
この正体がこれから先、自分にとってどのような影響を与えるのかと不安もある。だが、それよりも戦場に身を置いていたなかで垣間見た〝それ〟の正体に近づける気がしたのである。
〝なにの本を読んでいたの〟
最初は卵を殻ごと食べるアイオレスに仰天したものの、「骨折している自分には貴重なカルシウムとタンパク質であり、大変理想的な食べ物である。地球人は殻を食べないようだがもったいない。そのままでは吸収が悪いようだが、ディアボロイドの消化器は摂取した食べ物の栄養をほぼ完全に取り込むことができる。したがって果物の芯や種でさえ立派な栄養素となり得る。また本によると、新しい芽を出すために果物の種にも養素が豊富に詰まっており」と言うことを延々と力説され、それ以来なにも言わないことにした。
「農学の本だ。やはり、地球人の編みだした自然の力を借りた食物の収穫方法は素晴らしいな」
人類が発祥してから続いている農耕文化に、紫苑はいまさらなにの感銘も受けない。生まれた時よりその恩恵を受けていれば当然ではある。
〝そんなものかしら。あなたの星には畑はないの〟
「ない」
イチゴを口に運びながら、アイオレスは即答した。
〝それなら、あなた達は食べ物をどうしていたの〟
「侵略した星を丸ごと食料プラントに改造し、水や動植物を分解して毎日何十万トンという合成食料を生産していた」
紫苑の返答がなかったのは、理解が及ばなかったからだ。
紫苑を含め、地球人はほとんどが宇宙にも出たこともないのだ。それが突然に他の星などの話をされても訳が分からないのも無理はない。
実際にアイオレスはいくつもの星を渡り歩き、その戦場を潜り抜け体験してきたのである。それがない者に対して、想像力の欠如として捉えるのは酷と言うものである。
〝でも、それだと、すぐに無くなってしまわないの。収穫して、また肥料をまいて耕せば何回でも実がなるのに〟
アイオレスは鼻で笑った。
もちろん自嘲である。
宇宙でも他の種族の追従を許さない、超科学力を保持するデストシア帝国の致命的な欠点を、無垢な子供に看破されたからである。
逆に言えば、そんな子供にですら分かることがディアボロイドたちには理解できないのだ。
「その通りだ紫苑。我々ディアボロイドは他の星を侵略し、資源を食い潰しながら繁栄すると言う、許されざる大罪を犯して来たのだ」
アイオレスはイチゴを手の平に乗せ、しばし過去の行いを投影させていた。
「そう。わたしは、いくつもの惑星を侵略して来た。そして、何千人、何万人と言う罪のない人々を殺戮してまわったのだ。ただ、自分たちの欲望のために。一切の慈悲もなく、この手で斬り殺したのだ。わたしの手は、こんなにも血で汚れていたのだ。いままでわたしは、それすら見えていなかったのだ」
そっと、パックにイチゴを戻した彼は、「こんなにも眩しい世界は、わたしにさえも光を与えてくれていたと言うのに」とひとりごちた。
アイオレスの独白は、目の前の紫苑へと言うより、いまこの瞬間も宇宙のどこかで大量虐殺を行っているディアボロイドたちへ向けられているようであった。
「そんなわたしが、こうして、のうのうと生き長らえられる資格があるのだろうか」
アイオレスの話を聞きながら、しばし無言であった紫苑は彼が戻したイチゴをかじった。
〝難しいことは、よくわからないけれど。人間も誰かを傷つけないと生きて行けないみたい。そのためには、必ず誰かが犠牲になって痛い目にあうの。それと同じよ〟
紫苑は指に巻かれていた絆創膏をはがすと、内出血した指先があらわれる。内ポケットから新しい物を取り出し、割れた爪を保護するように巻きなおした。
「その指は、誰かに怪我をさせられたのか」
アイオレスの問いに紫苑は答えなかった。
〝あなたにも必要そうだけど、百枚くらいあっても足りないかしら〟
そう言うと、紫苑は笑いながらアイオレスの鼻に、絆創膏を張り付ける振りをした。
〝アイオレスが生きているということは、神様がそうしろって言っているからではないかしら。過去にたくさんの人をいじめたのかもしれないけれど、いまは違う気持ちなのでしょう〟
紫苑の手から絆創膏を受け取ったアイオレスは、裏返したり、手触りを確認したりしていた。キャラクターの絵が描かれている、カラフルな絆創膏の存在意義を確かめているようであった。
「そうだ。わたしはこの地球で一度死に、生まれ変わった。以前のわたしとは自分自身でも、まるで別人とさえ思える。地球で得た知識、文化、そして自然と共存するという素晴らしい輪廻。これらをもってすればディアボロイドたちの蛮行を止めさせることが出来る。そう、わたしは彼らを、仲間を救いたい」
〝あなたの仲間は、みんな苦しんでいるの〟
「自覚はしていないだろう。それどころか、率先して侵略と虐殺を繰り返している。それが我らの生きる理由であり、皇帝ゼノンへ信仰の証明であるからだ。ひとつでも多くの星を取り戻し、ひとりでも多くの異教徒を殺す。そうすることで楽園への扉が開くと信じているのだ。ディアボロイドたちは生まれた時より信仰のために、生き残るために戦うことを義務付けられているのだ。わたしも、ついこの間までは信仰を信じて疑いもしなかった。なんと、なんと愚かな」
アイオレスの苦しみが、紫苑に入り込んでいた。胸を押さえながら〝楽園てなあに〟と聞いた。
「ゼノン皇帝が追い求める理想の惑星のことだ。星々を侵略し、その行いが神に認められたとき、我々の前にあらわれると信じられている」
〝誰も知らないの〟
再び、アイオレスは笑った。
「そうなのだ。ディアボロイドは誰も見たことがない、存在しているのかも分からないもののために何千年と言う間、戦い続けているのだ。これが愚行でなければなんだと言うのだ」
自覚はなかったものの、アイオレスはなぜ自分は戦っているのか、何の為に自分は生きているのかと疑問を持ち続けていた。戦うたびに胸の奥底でちらちらと垣間見えたものが、地球で生まれ変わったことにより表面化したのであろう。
いま彼は生きる理由を、あらためて探し始めているのだ。
〝仲間を救いたいと言ったけれど、アイオレス。あなたはどうやって仲間のところへ帰るの。それとも、迎えが来るの〟
遠くを見ていたアイオレスは、紫苑へと向き直った。そして感心したように、また、なにかに呆れたように溜息をついた。
「きみは、いつも現実を突きつけてくるな」
紫苑は小首をかしげた。
「わたしは仲間を救いたいが、母星へ帰れる可能性は低い。自力で帰れる手段もないし、現時点で救助隊が来ないのであれば死亡認定されているだろう」
〝NASAにお願いしてみたら〟
「NASAとはなんだ」
〝地球の、宇宙を研究している一番すごい会社〟
アイオレスは肩をゆらして笑った。
表情は変わらないが、紫苑にはちゃんとアイオレスが笑顔をつくっているように見えた。
「わたしがブラブラと外に出歩いたら大変なことになる」
紫苑は、はっとして激しく首を振る。
〝それは駄目。やっぱりNASAは駄目〟
鋭く現実を見ていたり、と思えば突拍子もないことを言いだしたり、紫苑の大人と子供が交じり合った感性を、アイオレスは微笑ましく思った。
そんな気持ちも、少し前までは持ち合わせていなかったため、アイオレスも自分の中に芽生えた様々な感情に戸惑いながらも楽しんでいた。
その一方で、今後の方針も真剣に考え始めていた。
当初は自力で帰還する方法を模索するつもりであったが、地球の恩恵を受け、紫苑と触れあうことにより考えをあたらめる必要がある結論に至った。
なぜなら、連絡を取ってしまえばディアボロイドたちに地球の存在を知られてしまう。ともすれば、彼らは大喜びで自然と資源豊かな地球を、すべて食い尽くさんと飛んでくるであろう。
それだけは避けなくてはならない。
ではどうすれば良いのか。
答えはでない。
「紫苑。頼みがある」
〝なあに。ほかに食べたいものでもある〟
「いや、それもあるが違う。わたし用に、それと同じような端末を手に入れられないか」
紫苑は指さされ、胸ポケットから携帯端末を取りだした。
〝そうね。スマホがないと退屈だし、もしかしたら仲間と連絡も取れるかもしれないわね〟
アイオレスがそのような意図から所望したのかはわからないが、紫苑はひとり納得した様子であった。
〝パパに言えば新しいのを買ってもらえると思う。少し待ってて。それに、アイオレスがスマホを持っていれば、ここへ来るときに食べたい物も聞けて便利ね〟
「頼む」
デストシアと比べると、何世代も昔の旧式な情報伝達機器であったが、贅沢も言っていられない。彼なりに思うところがあるのだろう。
ふと思いついて、アイオレスは聞いた。
「紫苑。ピアノ、音楽と呼ばれるものは、言語に頼らずに意志を疎通するものなのか」
携帯からなぜピアノの話に移ったのか分からなかったが、紫苑は顎に細い指をあててしばし考えた。
〝そうね。作曲者の意志を譜面から読み取って演奏する。そこに演奏者としての表現力が試される。そうママや先生から習ったけれど、わたしには、よく分からないわ。でも、どうして〟
「それは、いつもきみが弾くピアノが、わたしの胸を痛ませるからだ。まるで紫苑、きみの叫びを聴いているような気持になるのだ」
〝わたしは〟
紫苑は手を止めると宙に舞う想い出に心をむけた。アイオレスを見ていた瞳に、ふっと影が落ちる。
〝ママにあいたい〟
「ママ。母親とは、そんなにも大切な存在なのか」
紫苑は無言でうなずいた。
〝アイオレス。あなたには、ママはいないの〟
「わたしを生んだ母体は存在する。だが、人間のように核家族を構成し、親密な関係を築きあげるという意味での母親はいない。したがって、わたしにはその重要性を理解できないのだ」
言葉を紡ごうとした手は動かない。
伝えたい気持ちが大き過ぎて、とても言語として表現できないのである。ましてや異星人であるアイオレスには、どんなに言葉を尽くしても母への想いは理解できないであろう。
結局、紫苑にとって言葉は不完全なものであった。話すことが出来ても出来なくても、自分の気持ちをちゃんと伝えられないのだ。
〝だから、わたしはピアノを弾くの〟
言葉ではなく、紫苑は見えない鍵盤に指を走らせた。
〝嬉しいことも、悲しいことも、ぜんぶわたしの代わりにピアノが歌ってくれるのよ〟
紫苑の指使いに、アイオレスは何度も心に刻まれた旋律がよみがえった。夢のなかで聴いていた頃より、いまはずっと強く心が揺さぶられるのである。
「不思議なものだな。こうしているだけでも、紫苑。音色と一緒に、きみの抱えている孤独が伝わってくる」
〝わたしは、孤独なのかしら〟
「どうだろう。少なくとも、きみの弾くピアノは悲しい音がする。いつも、なにかを探して泣いている。迷子、と言うのかな」
宙に舞っていた手を降ろすと、紫苑は唇をほころばせた。
〝あなた、どんどん日本語が上手になるのね〟
「いまは、傷を癒す以外にすることがないからね。本ばっかり読んでいるよ。ここは学校であり、知識を学ぶ場所なのだろう。毎日、新しい発見があってとても新鮮だよ」
〝アイオレスの星には学校もないの。みんなと一緒に勉強をしたりもしないの〟
「しないよ。もちろん、学校もない。我々ディアボロイドは、生まれるとすぐカプセルに入れられる。成長すると同時に剣術と信仰を教え込まれ、すぐに実践へと駆りだされるんだ」
異世界の出来事に紫苑は想像が追いつかなかったが、それはとても寂しいことなのではないかと思った。
〝友達もいないの〟
「友達か」
アイオレスは隊の仲間たちを思いだしたが、彼らは友達と言う関係でもない。そもそも、文化が違いすぎて友達と言う定義が当てはまらないのだ。
「我々の世界には、友達という観念が存在しない。紫苑の言う友達が正確にどのようなものかは分からない。たぶん、わたしには友達はひとりもいないのだろう」
〝それなら、わたしと一緒だね〟
「きみも友達がいないのか。だから孤独なのか」
〝友達がいても、孤独は感じるものよ。でも、いまはちょっと違うかも〟
「なぜだ」
紫苑は、軽くアイオレスの胸を指差した。
〝いまは、あなたはがいるから楽しいわ〟
「孤独の対義語は、楽しい、なのか」
〝あなたは、異星人のくせに理屈っぽいのね〟
眉をひそめられ、アイオレスは苦笑した。
「すまない。話せるようになったと言っても、まだまだ日本語でのコミュニケーションは難しいんだ。だが、紫苑。なぜ異星人であるわたしと一緒にいると、楽しいと感じるのだ」
そう言われ、紫苑はあらためて気持ちを整理してみた。
〝そうね。少なくとも、あなたは悪意をむけたり、大人の都合をわたしに押しつけたりしないから、かしら。それに、いつも黙ってピアノを聴いてくれるもの〟
「他の者は違うのか」
〝みんな自分を守るために、わたしを傷つけようとするわ。それを意識しているわけではないけれど、知らないうちに冷たい悪意が、わたしのなかに入り込んでくるの〟
話しながら、そっと胸に手をあてる。
〝もちろん、そうでない人もいるわ。ママや、美月姉みたいに。でも、ほとんどの人はいつも他人を傷つけて、傷つけられているの。そんな人たちと一緒にいると、わたしの心は耐えられない〟
「紫苑は、感受性が強いんだね。だが、痛みを感じるという事は生きている証拠だ。屍は痛みすら感じない」
〝黙って耐えろと言うの〟
「そうではない。その痛みがあるからこそ、紫苑のピアノが光り輝くんだ。痛みを感じるからこそ、生きてピアノを弾きたいと言う、紫苑の情熱になっているんだと思うよ」
〝さっきも言ったけど、あなたは理屈ぽいのね。でも慰めてくれて、ありがとう〟
「どういたしまして」
紫苑は手を差しだした。
「なんだ」
〝アイオレス。わたしたち、友達になろうよ〟
「友達か。親しく交流し、関係を結んでいる者同士」
そう言いながらもアイオレスは紫苑の手を取り、握手を交わした。その手は、すこし力を込めただけで、折れてしまいそうに小さく細かった。だが、とても暖かく、美しい音色を紡ぎだす不思議な力を持っていた。
〝ほんと、理屈ぽいのね〟
紫苑は喉を鳴らして笑った。
その笑顔を見たとき、アイオレスのなかに眠る炎が揺らめいた。また、あらたに沸き起こった奇妙な感情は、アイオレスの胸を強烈に押しあげて熱くした。
「なんだ、これは」
〝どうしたの〟
「いや、なんでもない」
苦しそうに胸を押さえたアイオレスに、紫苑は持ってきた毛布をかけなおした。
〝ごめんなさい。長くお喋りしすぎちゃったわ。もう休んで〟
「ああ」
横になったアイオレスの枕元に水を置くと、紫苑は帰り支度をするために立ちあがった。
「紫苑」
〝なあに〟
「帰る前に、またピアノを聞かせて欲しい」
〝うん〟
「ありがとう」
〝いいのよ、友達でしょ〟
友達か、とアイオレスは心でつぶやいた。
目を閉じながら、紫苑のピアノに包まれるアイオレスの胸は、いつまでも締めつけられていた。
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