第5話 死と目覚め

 ゆらめいている。

 ゆら、ゆらと漂っている。

 無重力ではない。底のない水のなかで、ゆるやかに流されながら沈んでゆく。

 そんな安らかな気持ちであった。いったい、どこで感じたものであったか。そもそも自分の体験ですらないのかもしれない

 何千年、何万年という気が遠くなる時間のなかで受け継がれ、紡いで来た生命の記憶。

 あたたかく、沈むほどに光が増してゆく。

 いや、沈んでいたのではなく、浮かびあがっているのだ。

 見えざる手により暗い水底からすくいあげられ、光に近づくにつれ四肢の重さが消えてなくなってゆく。生まれた時より体の奥深くから湧きあがる黒い感情が溶け、澄み切った水が血液の代わりとして満たされるようである。

 懐かしい。と感じていた。

 それは自らを沈める、このあたたかい水に抱かれている記憶であろうか。それとも、遠くから見え隠れする、きらきらとした音色であろうか。

 はじめは鈍く、ぼんやりとしていたものは次第に鮮明になり、いくつもの旋律が重なりあうと全身を包み込んだ。

 喜びと悲しみが交じりあい、金色の追憶として儚くたゆたう。

 光の粉が胸の奥まで染み渡ると、その痛みにアイオレスは目を覚ました。


 ここは、どこなのであろうか。

 自分は、どうしてしまったのか。

 アイオレスは朦朧としたまま目を開いた。

 うす暗い部屋のなかで、アイオレスは仰向けに寝かされている自分を認識した。だが、いま意識を満たしているのは、どこからか聞こえてくる金色の旋律であった。

 よどみなく滑らかに、それでいて胸に痛みを感じさせる不思議な音であった。アイオレスはそれが何であるかは知らないまま、しばし耳を傾けていた。

 良くはわからないが、誰か意思を持った者が自分の感情を伝えるために音として発しているのではないか。意思の疎通をするための言葉なのではないかと感じていた。

 であるのなら、その者は深い悲しみのなかに、小さな温もりを必死で追いかけているようだ。両手に捕まえようとすると、するりと逃れてまた遠くへと流されてゆく。

 いつまでも、いつまでも、永遠に繰り返す。

 なぜそう思い、なぜそうしようと思ったのか。本人にもわからぬまま、アイオレスは居た堪れなくなり、「その幻は永遠に捕まえられない」と言うべく身を起こそうとした。

 だが全身に激しい痛みが走り、ぐうっと呻いた拍子に近くにあった何かを倒してしまった。

 音色が止んだ。

 全身の痛みにより意識が覚醒し、それと同時に、これまでの記憶が一瞬にしてよみがえった。

 

          ○

 

 どれほど気を失っていたのであろうか。

 意識を取り戻したとき、アイオレスは地面に投げだされていた。

「ここは」

 自分は確か光速潜航を開始するラベリウスのセーフティネット付近で、エルナンド星の爆発に巻き込まれたのだ。

 本来なら、すでに戦艦に収納されているはずなのだが、気がつけば見知らぬ森のなかに倒れていたのである。

「いったい、何が起きたのだ」

 推測するに、光速潜航の瞬間に衝撃波を浴びて、空間のひずみから弾き飛ばされ、ここに落とされたのであろう。

 アイオレスは自分の体を確認した。

 意識は問題ないが、全身にひどい怪我をしている。エルナンド星での負傷より、地表に激突した際に負った怪我が大きい。

 全身の打撲や筋肉の裂傷。さらに、脇腹から何かの部品が背中まで貫通している。

 それを抜こうと膝を立てたとき、左脚を骨折していることに気がついた。

 いままで、いくつもの戦場を経験して来たが、全身がズタズタになるようなこんな怪我は初めてである。

 さいわい、足の骨折にかんしては硬貨質の皮膚がギプスの役目をしているので、痛みを我慢すれば歩けないこともない。

 問題は腹の傷である。

 抜けば出血してしまうが、このままでは激痛のために行動出来ない。アイオレスは破片をにぎり、息を吐き出すと同時に素早くひき抜いた。

 漏れそうになる声を飲み込み、痛みを堪えつつ呼吸を整えた。

 やはり、かなりの血が流れ始める。

 どこか安全な場所に身を隠し、傷の手当てをしなくてはならない。とはいっても、救命道具を持っているわけでもなく、助けを呼ぶにも脱出ポッドは大破して散乱している。

 墜落の瞬間に、一応は重力制御が機能したのであろう。成層圏から減速なしに激突したのであれば跡形も残らない。逆にいえば、この程度の怪我は幸運だったわけである。

 所持品はサーベルと腰にさげたブラスターのみ。あいにく、どちらも自分の怪我を治療するにはまったく役に立たない。

 いまアイオレスに出来ることは、とにかく安全な場所に身を隠して休息を取ることであった。

 何かしらの形で止血をしないと、このままでは死んでしまう。いかにディアボロイドといえど、不死身でもなければ万能でもないのだ。

 それにしても、と思う。

 考え方によっては、かなりの幸運続きである。

 第一に、潜航空間のひずみから異常なく抜けられたこと。一歩間違えれば、永遠に空間のすきまを漂うはめになる危険性もあったのだ。

 第二に、大気がある生存可能な惑星に落ちたこと。これが恒星や超重力空間であれば、塵どころか原子レベルで消滅していたであろう。

 第三に、ここが人気のない自然のなかであったこと。運悪くこの星の主要都市に落ちようものなら、大騒ぎになっていたところだ。

 この星の住人がどのような姿で、どんな気性を持つ種族かは知らないが、穏便に済まされないことだけは確かである。

 しかし、生存可能な惑星であるならば、いずれこの星もディアボロイドの手によって救済されるであろう。

 事故ではあったものの、こうして新たな植民地を発見できたことは朗報である。

 だが、元凶となったメドューザのことを考えると、さすがのアイオレスも許さずにはいられない怒りを覚えた。

 かろうじて生きてはいるものの、このさき生きて帰れるかは皆目見当もつかない。

「あいつめ」

 軍法会議にかけられる行為であるが、証人がいない限り、すべて事故で片づけられるであろう。

 もし自分が死亡認定されれば、隊の序列は繰あがりによりメドューザがアグナトップとなる。

 許しがたいことではあるが、ここで憤ってもどうすることも出来ない。地団太を踏んだところで、メドューザは痛くも痒くもないのだ。

 もっとも、骨の折れた脚では満足に悔しがることも出来ない。

 ついさっきまで自分の幸運を喜んでいたアイオレスは、すべてを帳消しにする不愉快さに胸が悪くなった。

 そもそもメドューザに蹴られなければ、経験する必要もなかった不幸中の出来事なのである。

 大怪我を負ったうえに、最悪な気分によってアイオレスは激しい疲労を覚えた。

 これからのことは、後ほどゆっくり考えればよい。現実問題として、いまはこの場を離れなければならない。

 この星がどの程度の文明度かは不明だが、自分が降下したことを感知された危険性もある。

 どのような敵が来ようと負ける気はしなかったが、さすがに自分一人で惑星中の下等な異教徒すべてを相手するわけには行かない。

 力なく立ちあがり、傷口を押さえながらアイオレスは空を見あげた。さきほどから雨が降りだしている。

 空は雲に覆われていたが、この星の恒星が落ち始め夜が近づこうとしていた。これから暗くなるのであれば、行動するのには都合の良い時間帯である。

 濡れた地面は歩きにくく、アイオレスは傾斜の緩やかな方角を求めて進み始めた。

 森のなかを歩くうちに、この星の空気は澄んでいて、降りつける雨も汚れていないと気がついた。

 他の星に比べ、惑星の生命としての力強さがある。部分的なものかもしれないが、かなり利用価値の高い最上級クラスの星のようだ。

 いろいろな興味が沸いてきても調べる術はなく、連絡がつき次第デストシア本隊に任せるしかない。

 そんなことを考えていると、どこかで銃声が鳴り響いた。近くに、この星の異教徒がいたのだ。

 いまは無用な接触は避けておきたい。

 音だけでは正確な位置はわからなかったが、山の上の方からである。このまま山を下っていけば遭遇することもないであろう。

 それよりも、出血がひどく体に力が入らない。一刻も早く、身を隠せる安全な場所を見つけなくては。

 雨はひどくなり、足元が滑る。

 ただでさえ脚を骨折しているのに、足場の悪い斜面を歩かなくてはならない。その歩みは鈍く、時間がたつほどアイオレスの体力が削られてゆく。

 このままではまずい、と焦りが募る。

 のろのろと進んでいるあいだにも日が傾いて、周囲の樹木が黒く染まりつつある。

 自分の姿が隠れるのは構わないが、場所や地形を確認できなくなる恐れがある。知らないうちに街などに近づいてしまったら、目も当てられない。

 大きな木の根をいくつか越えると、急に傾斜が緩くなり歩きやすくなった。

 目の前に大きな岩場があり、その陰でしばし休息を取ろうかと、アイオレスが近づいた時である。

 怪我と疲労により集中力を欠いていたのか、岩の影に潜む獰猛な生物に気がつかなかったのである。

 突然、叫び声をあげて巨大な獣が岩場から躍りでたのである。

 アイオレスは、すっとサーベルで振りあげられた腕を斬り飛ばし、後方へまわると戻す刃で首を切断した。

 自分より大きな原生生物であったが、所詮は獣である。

 デストシアの騎士として極限まで鍛えられた剣術の前には、なにの脅威にもならなかった。たとえアイオレスが怪我を負い、思うように体を動かせなかったとしても。

 ところが、緩慢な獣が頭を失って倒れたとき、二つ目の予想外なことが起きた。

 倒れた獣の前に、この星の異教徒がいたのである。

 腰をついて両手に長銃を抱えている。驚愕に目を見開き放心したようにこちらを見あげていた。

 面倒なことになった、とアイオレスは内心で舌打ちをした。

 ここで首を跳ねてしまうのは簡単だが、仲間がいた時のことや、後々のことを考えると手を出さない方が安全である。

 最優先は身を隠すことであり、そのためには怒りを買ったり追跡される理由を増やしたくない。

 もっとも他の星からやって来た、というだけで追われる理由にはなるのだが、少なくとも表面上は敵意がない振りをしておく必要がある。

 だが、そんなアイオレスの心配は無駄に終わった。

 我に返った原住民が、怒りをあらわしながら立ちあがったのである。銃と獣という関係性から、この異教徒はハンターかなにかであろう。邪魔をされたためか、獲物を横取りされると思ったのか、理由はわからないが大変な怒り様である。

 星も文化も違う異教徒の怒りなど理解出来ないし、するつもりもない。デストシア帝国からすれば、この星もディアボロイドの土地であり、目の前の異教徒も聖地を荒らす蛮族の一人である。

 そんな輩にかける情けなどなく、泣こうが喚こうが知ったことではない。

 怪我を負っているいま、早急に休息を取りたいアイオレスには甚だ大迷惑なだけである。

 と言って殺してしまえば身に危険が及ぶ、という厄介な状況にアイオレスは激しい苛立ちを覚えていた。

 ひどい出血をしているため、いちいち相手などしていられない。気が急いていたアイオレスは腰のブラスターを最小出力で狙い撃った。

 自分が身を隠すまで時間が稼げれば良いのである。殺さずとも、気絶させるかしておけば問題ないと判断したのだ。

 ところが、ブラスターは墜落した衝撃で壊れていた。

 こんなときに!

 これだから飛び道具は、とアイオレスはブラスターを投げ捨ててサーベルを握りなおした。

 やはり、どんな時でも頼れるのはサーベルだけである。最初からデストシアの騎士として、一番信頼のおける分身を使えばよかったのである。

 軽く手足を傷つける程度なら、恨みは買うだろうが死にはしないであろう。

 そもそも、すでに大変な怒りを買っているのである。それが多少増えたところで、大した問題ではない。

 その時、ブラスターを向けたことで身の危険を感じたのか、原住民が大声をあげながら長銃を発射した。

 思考より体が反応し、アイオレスは撃ち込まれた弾丸をサーベルで斬り飛ばした。だが火花を散らして跳ねかえった弾丸は、運悪く異教徒の頭部を貫通してしまったのである。

「ええい、次から次へと」

 何もかも思うようにいかず、激高しかけたアイオレスは眩暈に膝が崩れそうになった。出血のために、気が遠くなったのである。このままでは本当に倒れてしまう。

 事故ではあるものの、異教徒を殺してしまったことにはかわりない。この場には仲間はいないようだが、この件によって追われる危険性ができてしまった。

 であるなら、二重の意味でも一刻も早くこの山から逃げなくてはならない。

 全身の力が抜けてきているアイオレスは、荒い呼吸を押さえながら死体を放置して歩きだした。

 死体を隠す余裕も時間もない。

 こんな辺境の星で人知れず死に絶えるなど、絶対に御免である。作戦中ならまだしも、デストシア帝国になに一つ貢献出来ない事故死などあまりに無駄である。

 また、アイオレスには成すべきこと、答えを見つけなくてはならないことが沢山ある。

 そのためにも生き残らなくてはならない。

 ふらふらと力なく歩むアイオレスは、瀕死の体になって初めて、デストシア帝国は超高度の科学技術により成り立っているのであると再認識した。

 その恩恵を受けられなければ、自分も非力な生き物でしかないと痛感させられたのである。

 日が落ちたためか、それとも出血によるものか、アイオレスの視界は黒い霞に覆われていた。

 もはや、どこを歩いているのか方角すらもわからない。

 手さぐりに伸ばした腕は宙をつかみ、雨に濡れた地面に足を滑らせると、アイオレスは崖の下へ投げだされた。


          ○


 それからどうやって、ここに辿り着いたのか。

 なにも覚えていない。

 それどころか、ここはどこなのであろうか。

 夢うつつで聞えていた旋律も消え、いまは薄暗い部屋のなかでアイオレスはひとり仰向けに天井を見ていた。

 激しい虚脱感と痛みに、身を起こすことも出来ない。この星の地表に激突した時より悪くなっていた。

 さきの作戦の疲労にくわえ大量の出血、筋肉裂傷と骨折、内出血による炎症に衰弱し切っているのである。

 戦士として致命的な状況であったが、なぜか焦りも恐怖も、そして不安もなかった。ただ、いままで感じたことのない、安らかな気持ちがアイオレスを支配していた。

「一体、おれはどうなってしまったんだ」

 なんとか首だけをもたげると、自分の体が視界に入った。

 体温の低下を防ぐために、二メートルあるディアボロイドの体を包み込む黒い布がかけられていた。

 唯一、動く右手でまくってみると腹部の傷は止血用の当て布がされ、傷の処置がされていた。もっとも処置と言えるほどのものではなく、無造作にあてられた布を粘着性のテープで止めただけである。

 とは言うものの血が染み込んだ布は黒く変色し、乾いているところを見ると止血の効果はあったようだ。

 どうやらアイオレスは重傷を負い、ここに逃げ込み意識を失ったところで傷の手当てをされたのであろう。

「なんということだ。デストシアの騎士たるおれが、怪我をして異教徒に命を救われるとは屈辱の極み。こんなことでは皇帝や将軍に顔向けができぬ」

 と言う台詞は彼が話したものか、それとも心のなかでつぶやいたものか。戦士としての誇り、規律がアイオレスを責め立てるが彼の心は穏やかに流れていた。

「おれは、抜け殻になってしまったのか」

 アイオレス自身、自分の感情の変化に戸惑っていた。

 だが、どれほど怪我をして心が弱っていたとしても、彼がもっている戦士としての能力は失われていなかった。

 部屋のむこう側に、何者かが近づく気配を感じたのである。さきほど、アイオレスが立てた物音に様子を見に来たのであろう。

 敵か。

 腰のサーベルを確認する。

 もっとも、いまのアイオレスは立ちあがることもできず、サーベルを振う力もない。

 絶望的な状況ではあるが、アイオレスは手を降ろした。

 近づいてくる気配から殺気を感じなかったこともあり、また危害を加える意志があるのであれば、とっくに殺されていたであろう。どちらにしろ、動くことすら出来ないのであれば同じことである。

 ゆっくりと、アイオレスが寝ている部屋の端にある扉が開いた。横開きの扉から明かりが入り、その光とともに小さな影が顔をのぞかせた。


          ○


 四日前、紫苑はいつもと同じようにピアノを弾くために廃校の音楽室へとやってきた。ピアノのほこりを払うため、用具室に入ったとき彼女の日常が崩壊した。

 黒い甲冑を着た大きな者が、血まみれで倒れていたからである。用具室の小さな窓から忍び込んだのか、べっとりと血がついていた。

 紫苑は聞こえない悲鳴をあげて尻もちをついた。恐怖と衝撃に力が抜け、足が笑って逃げだすことも出来ない。

 反射的に、紫苑はすべてを遮断して胸に手をあてた。

 助けて、助けてママ。

 わなわなとする手を力いっぱい握りしめ、紫苑は気を失いそうなほどの恐怖と戦っていた。小さな世界を粉々に砕いてしまった存在に、すべてが震えて呼吸すら止まりそうであった。

〝紫苑、ピアノを弾くときも、どんな時も、ちゃんと心の声を聞くのよ。そうすれば、すべて上手くいくわ〟

 胸が苦しい。

 その苦痛から逃れるため、うずくまりながらも呼吸を整えた。まだ心臓は激しく脈打っている。

 怖い、怖いけれど。

 恐怖が全身を支配していながらも、紫苑はあることに気がついた。心の声を聞きながら、ゆっくりと確かめてみる。

 そう、怖くはあるが嫌な感じがしないのであった。

 いつも紫苑に入り込んでくる思念は怒りや憎悪であったが、この血まみれの恐怖の対象からは、そのような負の感情が流れてこなかったのである。

 だからといって安心できるわけではないが、自分に危害が及ぶことはなさそうだ。そう思うと、少しは気分が落ち着いた。

 あまりの非日常な光景にいまだ混乱していたが、紫苑のなかで確かなことは、「誰にも言ってはならない」であった。

 なぜなら、あの血まみれの存在が何者かはわからないが、大騒ぎになったとしたら、この廃校への立ち入りを禁止されると考えたからである。

 あくまで利己的なものであったが、紫苑にとって唯一の聖域であるこの場所は、いかなる理由があっても守らなくてはならない。

 とは言うものの、ではどうすれば良いのか。

 突然に自分の聖域に侵入してきた存在。嫌な感じは受けず邪悪な存在ではないことは理解したが、非力な自分にはなにもすることが出来ない。

 いつまで頭を抱えながら腰をついていたであろうか、紫苑は突然に聞こえたうめき声に体を震わせた。

 紫苑に飛び込んできたのは、苦しみであった。

 全身に激しい痛みと苦しみを抱え、助けを求めている。

 いままで感じたことのない強い感覚であった。紫苑は怖くてたまらず、すべてを遮断しようとしたが、とても受け流せないほど強烈であった。

〝助けて〟

 声ではない思念が紫苑の胸をかき乱す。

 まるで自分が傷つき、苦しみを感じているかのようだ。

 それは紫苑がこれ以上傷つきたくない、苦しみたくないと思ったうえでのことか、それとも自らの聖域を守るためのことだったのであろうか。彼女自身もわからない感情かもしれない。

 だが、いままですべてを遮断して目を背けてきた紫苑にとって、ひとつの試練が課せられていた。

 手が震え、笑う膝を引きずりながら、紫苑はもう一度あの存在を確かめるために用具室へと近づいた。

 半開きの扉の前で、どれだけ深呼吸を繰り返したであろうか。いま持てる最大の勇気を振り絞って、紫苑は用具室の奥を覗き見た。

 大きな人が倒れていた。

 人、なのであろうか。

 全身が黒い鎧のような物で覆われていた。

 それが血まみれで倒れている。

 吐き気をもよおす光景であり、とても直視出来ない。やはり駄目だと思ったとき、再びうめき声があがった。

 紫苑は胸がぎゅうっと痛み、うずくまってしまった。

 喉が焼けつくように乾いていた。

 体が燃えるように熱く、苦しみが全身を襲う。

 これは自分ではなく、あの存在の苦しみだと言うのに。

 紫苑は身をひるがえした。

 この苦しみから解放されるには、そうするしかなかったのである。ピアノまで駆け戻ると、横に置いてあるカバンから水を取りだした。

 まだ冷たい。

 水を手に用具室へと入ると、倒れている者へと近づいた。

 顔までもが細かい鎧で覆われており、口と思われる部分から荒い呼吸とうめき声が漏れている。

 この存在は何者であろうか。

 あきらかに人ではない。

 だが、紫苑にとって恐怖と混乱以上につらいことは、ひどい苦しみがいつまでも伝わってくることであった。

 この苦痛から逃れるためには、目の前の人ではない存在が元気を取り戻して、ここから出て行ってもらうしかない。

 それが紫苑の答えであった。

 自分には、他にどこにも居場所がないのである。

 母との想い出を共有できるこの場所を守るためなら、望むとも望まぬとも紫苑は介抱せざるを得ない。

 震える手で水をそそぐと、鎧の者はすべて飲み干してしまった。

 一度吹っ切れると、紫苑はためらわなかった。

 一分一秒、一日でも早くいつもの日常を取り戻したい。

 その一心に突き動かされていた。

 冷えないようにカーテンをかけ、水をやり、怪我の手当てをする。そもそも鎧の者が冷えて風邪をひくのかさえ不明である。

 もっとも生き物であるのなら、体を冷やさない方が良いであろう。

 そして紫苑は消毒して当て布をし、傷をふさいだ。保健室には備品があったが、腹にある大きな傷をふさげるガーゼは見つからず、これもカーテンを切って代用した。当て布はガムテープで固定した。

 衛生を保つため、血はすべて拭き取った。

 これも彼のためではなく、すべて聖域を汚したくないという理由からである。

 これらの世話をしていると次第に恐怖もなくなり、まじまじと鎧の者を観察していた。

 焼けてしまった家に母が飾っていた絵を思いだした。

 黒馬にまたがった騎士。

 真実を知ってしまったために味方から追放され、それでも仲間を想い戦ったと母が言っていた絵である。

 そんな鎧の者はかなり衰弱しており、紫苑が三日ほど介抱するあいだ一度も目を覚まさなかった。

 そして四日目の夕方、いつものように紫苑がピアノを弾いていると、用具室から物音がした。

 紫苑は手をとめて振り返る。

 目を覚ましたのかもしれない。

 様子を見に行こうとしたが、ふと足が止まった。

 いままで意識のある騎士と接触したことがないため、どんな反応をするのか不安で躊躇したのである。

 しかし、介抱しているあいだにも紫苑は嫌なものは感じなかったので、ゆっくりとではあるが用具室に近づいた。


          ○


 紫苑とアイオレス。

 どれだけのあいだ、見つめあっていたであろうか。

 紫苑の瞳にはアイオレスが。

 アイオレスの瞳には紫苑が。

 相手の瞳に自分を映したとき、それぞれの胸に抱えていた炎が共鳴したのである。なにの抵抗もなく心を奪われたように、ふたりの時間は止まり続けた。

 ただあるのは、お互いの瞳にゆれる炎。

 青く、ゆらゆらと消えてしまいそうに頼りない。

 だが、しっかりと心の奥に灯っている小さな炎である。

 紫苑とアイオレスは、永遠にも思える沈黙のなかで自分たちの未来を見ているようであった。

 薄暗い用具室には、初夏の風がたてる葉のささやきだけが聞こえている。やわらかな日差しは、紫苑の髪を金色に浮かびあがらせていた。

 ふたりのあいだには、心の氷解をしめす兆候が光となって差し込んでいるのである。未来を見ていた彼らに、言葉は必要がなかったのであろう。風のささやきにすら消えてしまうそうな炎は、いつまでも無言なる雄弁としてゆれていた。

 ふと、その沈黙を破ったのは咳き込んだアイオレスであった。

 知らず遠い未来にいた紫苑は現実に引き戻され、慌てて水を持って駆け戻って来た。

 アイオレスの横に片膝をつき、そっと口元へペットボトルを差しだした。屈強の戦士はされるがまま、水を飲む。

 超高度な科学技術を持つ、デストシア帝国の騎士であるアイオレスの心中はいかなるものであろうか。

 意外なことに、アイオレス自身それほど違和感は無い。意識を失ってたあいだ、近くにいた紫苑に対して夢うつつのなかで触れあっていたからである。

 水を飲ませてくれて、傷の手当てもしてくれた。

 ディアボロイドが神より与えられた惑星に勝手に住み着いた、許されざる異教徒のひとり。弾丸一発分の価値もない原住民である。

 だがアイオレスは妙な親近感を覚えていた。

 紫苑の抱える孤独が、戦っている時に見え隠れする炎を大きく揺れ動かしたのである。自分の心の奥底に眠る、その存在の答えを垣間見た気がしたのであった。

 与えられた水が体内に染み込み、アイオレスは身を震わせた。

 かつて、アイオレスが飲んだどのような水よりも美味しく、体にうるおいを与えていた。

 デストシア本国にて生産された水は不純物のない最高品質のはずであった。にもかかわらず、校舎の井戸から吸い上げた専用水道の水が、これほどまでに活力を与えられるなど不思議でならない。

 アイオレスは一息つくと、顔だけを紫苑にむけた。

「アリガ、トウ」

 不鮮明であるが、あきらかに言葉を話したのである。

 それも日本語である。

 紫苑は驚いて空になったペットボトルを取り落とした。その衝撃は、動物が人間の言葉を発したのに近い。

 呆然とする紫苑に、アイオレスは苦笑した。もっとも、彼女には笑ったことなど伝わらない。

「騎士トシテ、命ヲ救ワレタ礼ヲ言ウ」

 口を開いたまま、紫苑はアイオレスの顔と全身を忙しく何度も見返した。

 自分はもしかして、大変な勘違いをしていたのではないだろうか。この鎧の者は、じつは人間だったのではないか。

 そんな紫苑の動揺をよそに、アイオレスは途切れ途切れ、ゆっくりと話し始めた。

「私ハ、デストシア銀河帝国軍ノ騎士。ツマリ、オマエ達ノ言ウ異星人ダ」

 ペットボトルを落としたままの姿で固まっている紫苑に、アイオレスは「私ノ言葉ハ理解デキルナ?」と確認した。

 紫苑は首だけを縦に動かした。

「私ノ名ハ、アイオレス・オーティアギス。アイオレス、ダ」

 このアイオレスと名乗った者が異星人と語ったことか、それとも人間の言葉を話したことか、紫苑には驚きのハードルをはるか高く飛び越えてしまっていた。

「オマエノ名ハ?」

 そう言われ、紫苑は反射的に手話を使ったが、すぐに自分の口の前で指でバッテンを作った。

「話スコトガ、デキナイノカ?」

 うなずいた紫苑に、アイオレスは「ソウカ」とだけ呟くと、視線を外して天井を見やった。

 しばしの沈黙に紫苑はなにかを思い立ち、携帯端末を片手に戻ってきた。

〝私の名前は紫苑〟

 画面にテキストを打ち込んで、アイオレスの顔の前に突き出した。

「シオン」

 文字を読んだアイオレスに、紫苑は目を見開いて何度もうなずいた。無理かもしれないと思ったのだが、アイオレスはこともなげに日本語を読んで理解したのである。

 これら一連のアイオレスの言語能力は、もともと知識としてあったわけではなく、頭部に埋め込まれた小型端末の恩恵である。

本来は戦艦や重機器などが搭載するサーバにアクセスし、通信や情報を引きだすものであるが、独自でも多少の能力は発揮される。

 戦艦などの能力にくらべれば微々たるものであるが、時間をかければ人間の言語を翻訳しアイオレスの頭脳に焼き込むくらいは可能である。もっとも、その処理ばかりをさせるわけにも行かないので、あとはアイオレスの学習能力に頼るしかない。

「紫苑」

 アイオレスは、今度はっきりと発音した。

「コノ星ノ名前はなんと言う?」

 紫苑は、再び端末の画面にテキストを打ち込んで見せた。

〝地球〟

「地球か。自然も多く、空気も水も澄んでいルな」

 さぞ、ゼノン皇帝が喜ぶだろう、とは言わなかった。

 話し疲れたように、アイオレスは頭を置いた。すると、ぐうと音が鳴った。アイオレスのお腹が音を立てたのである。

 四日ほど何も食べていないので、仕方のない生理現象であった。

 その音を理解すると、紫苑はあっと言う顔をしながら笑い、手に何かを抱えてきた。

 地元で採れたラズベリーと、サンドウィッチであった。

〝食べ物よ。お腹すいてるでしょ?〟

 その後の事件は、アイオレスがデストシアの騎士として、どんな敵にも立ちむかう勇気ある戦士として、一生の汚点を残すこととなった。

 ラズベリーを食べて気を失ったのである。

 絶食していた胃に、いきなり食べ物を入れたと言うこともあるが、理由はそれだけではない。

 ラズベリーの美味しさに驚愕し、アイオレスの脳が過負荷に耐えられずに失神してしまったのである。

 その甘味と酸味の比率、芳香、種の歯応え。口の中で溶ける果肉のみずみずしいさが混ざり、過去にない味覚の衝撃となった。

 さらに胃に入るとすぐ、全身の血管のなかを生命の躍動が駆け巡ったのである。枯渇していた糖分の補充によるものでもあるが、それだけではない自然の恵みとも言える力であった。

 どんな過酷な訓練でも、どんな攻撃にも、たとえ戦場でひとり取り残されても、けして根をあげることがないアイオレスが、少女が持ってきた果物によって心を打ち砕かれてしまったのである。

 アイオレスは驚いたが、紫苑も驚いた。

 自分の与えた食べ物によって、異星人が気絶してしまったのである。死んだのではないかと驚愕したが、すぐに意識を取り戻したアイオレスに安堵した。

 心配そうに覗き込む紫苑に、アイオレスは再び苦笑した。

 こんな様をメドューザに見られたら、どんな嫌味を言われて笑われるであろうか。ベルフライに限っては嘆き悲しみ、失望から騎士の除隊を命じられるであろう。

 異教徒に食料を与えられ、気を失うなど!

 赤い巨体を震わせて、サーベルを手に指を突きつける。

 そう想像すると、アイオレスはあまりの滑稽さにひとり含み笑いを漏らした。

 気絶したり、笑いだしたり、紫苑は目の前にいる異星人にどう対処してよいか途方に暮れていた。

 そんな視線に気がついたのか、アイオレスは「大丈夫だ、心配ナイ。とても美味しい食べ物ダ。ありがとう」と答えた。

 サンドウィッチも食べ終えたところで、ふたりは不自由なコミュニケーションながら、ここでのことを秘密にするという協定を結んだ。

 動けないアイオレスは、言わば紫苑に運命を決められてしまう状況であった。水と食料を運んで来てもらわなければ、餓死して死んでしまうという皮肉な状況なのである。

 デストシアの戦士として思うところは多々あるが、なにをするにしても、とりあえず怪我を治さなくては始まらない。

 足の骨折は回復に時間がかかるであろう。筋肉の裂傷も、慣れない土地での菌に炎症を起こしている。

 体力も落ち血も足りず、命に別状はなくとも絶対安静の状態である。

 つい先日まで千人単位という部下を引き連れていた戦士が、いまは小さな異教徒に命の手綱を握られている。

 自力で周囲を制圧して応援を待つか、何らかの形で本国に連絡をつけるか。

 紫苑の扱いは後日考えるとして、それまでは彼女の手を借りなければならないのだ。水と食料の配給は、紫苑の事情に左右する。来れない日もあると言う。

 また紫苑も、いまだ実感がないが異星人というアイオレスの存在が世に知れてしまったら大騒ぎなる。そんな事件などはどうしても避けたく、アイオレスに出て行ってもらうにしても、元気になるまでは自分が食料などを運ばなければならない。

 そのようなお互いの事情から、やや紫苑の負担を強いる形の協定であるが、どちらも条件を飲まずにはいられない現実があった。

〝それなら、今日はもう帰るから。明日も来るわ〟

 そう言う紫苑を、アイオレスは呼びとめた。

 お互いの利害が合致したという理由からの協定ではあったが、ふたりとも言葉には出来ないなにかを感じていた。

 いまは、それがなにか知る由もないが、放っては置けないと言うはっきりした感情だけはあった。

〝手当てをしてくれテ、ありがとう。水と食料も感謝スル〟

 紫苑は少し笑うと首を振った。

 てれたのである。

「帰ル前に、頼みがあル。さっきノ、あれを聞かせて欲しい」

 アイオレスは、右手で壁を指さした。

 つられて壁を見た紫苑は、その先にピアノがあることを悟った。

〝ピアノが聴きたいの?〟

「ピアノと言うノか。私が眠っていた時に聞こえていたやつだ」

〝いいわ。わたしもピアノを弾きたくて、ここに来ているのだから〟

 用具室から姿を消すと、紫苑の奏でる音色が広がり始めた。少しだけ開いた扉から、金色の粉が舞い込んでくる。

 それは、やはり永遠に捕まえることの出来ない、遠いぬくもりを求める音色を含んでいて、胸を痛ませる。

 アイオレスは、紫苑のピアノを聴きながら眠りについた。

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