第4話 大人として

「それでは先日レーダーが捉えた、正体不明である飛翔体の報告をさせて頂きます」

 日本国防軍・北部恵庭基地所属・中野美月少尉が資料を手に口を開いた。

 基地は十年前に増設され、新しい会議室は照明が落ちていた。正面の巨大パネルにより、室内には三人の影ができている。

 ひとりは中野少尉。

 パネルを背にしているため、逆光により顔が隠れている。手にした資料用端末パットの光が、伏せ目がちな瞳に青く反射していた。

「春日少佐。よろしいでしょうか」

 ショートの髪型のため、首筋から頬までが白く浮かんでいる。その横顔を座りながら見ていた春日勇樹は、黒々とした睫毛から覗く瞳をむけられ慌てて正面になおった。

「あ、ああ。進めてくれ」

「では、まず映像をご覧ください」

 美月の隣には、短く刈り込んだ髪にがっしりとした体つきの大男が立っている。彼女を守るボディーガードさながら、直立不動で微動だにしなかった石川大地准尉は、美月に目をむけられると無言で映像を再生した。

 正面パネルに青い夜空と、山によって黒く塗りつぶされた光景が画面を分割して映しだされた。手前に街の明かりがある以外は、ほかに情報もない。

「こちらが六月七日、二日前。樽前山方面にむいていたカメラです」

 これが昼間の映像であれば、画面中央にある平たい部分には雲を写りこませる支笏湖がみえたであろう。

 だが、いまは青と黒に占められ、しばらく変化がないために眠たい絵として再生されている。

「なにも、変化がないようだが」

 思わずつぶやいた春日に、美月がうなずいた。問題が起きたので報告しているのであり、春日のつぶやきはやや性急ではあったが、美月は丁寧に視線を返す。

 その隣では石川准尉がにこりともせず、映像の横に表示するためのデータ画面を開いていた。けして不機嫌なわけではない。ただ真面目なのである。

「次です。午前二時四十二分十五秒。画面右上にご注目ください」

 美月の声と同時に、パネルの右側に赤い光が出現した。

 出現時に一瞬だけ強く輝くと、そのまま火の粉をまき散らしながら画面を横切って行く。距離と大きさが不明なためはっきりとは言えないが、隕石にしては速度が遅いようにも見えた。

 また、不気味な赤い色がどこか人工的なものを感じさせる。

 無音の会議室では、巨大パネルに映しだされている赤い燐光のみが動いており、三人は無言のまま長い軌跡を目で追っていた。

 そして緩やかな放物線を描き、ゆっくりと上空を横切っていた飛翔体は画面中央を通過したあたりでふっと消えた。

 そのあとは映像再生時とおなじく、変化のない黒い山の画面が流れ続ける。

「以上が、カメラが捉えた飛翔体の映像となります」

 再生が終わると、石川准尉が飛翔体が映っている秒数まで巻き戻して画面を一時停止させた。

 春日は「ふむ」と顔の前で組んでいた手をほどいた。

「確かに多少の違和感はあるが、これだけでは珍しい隕石の類にも思える。だが、こうして美月くんが報告するからには、何か気になるところがあるのだろう」

「はい。視覚的には赤色をした隕石のようですが、データで見るといくつもの不可解な点があります」

 なにも言わずとも、石川准尉が正面パネルに立体的な日本列島の地図を表示させる。

「まず、出現位置です」

「出現位置」

 椅子に背中を預けていた春日は、美月の言葉に座りなおすと正面パネルに身を乗りだした。

「そうです。この隕石は地球の重力圏につかまって引き寄せられたものではありません。映像では確認できませんが突然、北海道上空の大気圏に出現しています」

 日本列島の地図が遷移し、北海道全域まで拡大される。そこから高度をあらわすレイヤーが表示され、熱圏のあたりに赤いマーカーが点滅した。

「謎の飛翔体は、地表五百キロの熱圏領域に突如あらわれ、そこから地表へ向けて降下。そこから恵庭岳を横切り、風不死岳付近の上空で姿を消しました。視覚的にではありますが」

 美月の報告と、地図に表示されるマーカーの動きがタイミング良くリンクする。美月がパネルの表示にあわせて説明しているわけではなく、美月の説明にあわせて石川准尉がパネルを操作しているのである。

 そんな無口で大男の細やかな心遣いをよそに、春日は思わず聞き流してしまいそうになった言葉を確認した。

「視覚的にとは、どういう意味かな」

「言葉通り、と言うと嫌味になりますが」

 唇が渇いたのか、美月は口元に手をあてると小さく咳払いをした。唇を舐めるところを隠したのだ。

「さきほどの映像では途中で燃え尽きたように消えましたが、そうではありません。見えなくなっただけです」

 石川准尉によって、全体地図から再び飛翔体が消える前後の映像へと切り替わる。

「この映像では午前二時四十二分三十秒に姿を消しますが、その後二秒間レーダーに反応し続けています。また、赤外線で捉えたものでは、さらに一秒後の午前二時四十二分三三秒まで高熱源として捕捉しています」

 巨大パネルに黒いレイヤーが重ねられた。温度が高いものほど赤く映り、低いものは青から黒へとなる。流れ落ちる飛翔体は赤いブロックに囲まれ、消えたはずの支笏湖を過ぎても表示され続けていた。

「このあと飛翔体は支笏湖を通過し、風不死岳付近ですべての反応を消しました。着地、もしくは墜落地点は特定できていません。ですが、突入角度より導きだした予想終着範囲がこちらです」

 画面には飛翔体が墜落したと思われる領域が、風不死岳、樽前山付近に確率の高い順に赤、黄、緑と色分けされて表示されている。

「それ以外の特徴としましては、この飛翔体は落下中にもかかわらず減速しています。推測するに、墜落の衝撃を軽減させるためと思われます。これらの現象にくわえ、ステルス機能まで使用したとなると、あきらかに人工物と考えて間違いないでしょう」

 途中から春日はどこかの大男と同じように、美月の話を聞くだけで一言も喋らなくなっていた。予想外の内容に、話が消化しきれないのだ。

 資料端末を置くと、美月は「失礼します」と水を飲んだ。

 白い喉元から視線を外しつつ、春日は何度か溜息をついてからやっと口を開いた。

「つまり、この飛翔体は日本の空に突然出現し、やすやすと侵入に成功したと言うわけだ」

「侵入の意志があった、という前提であればそうなります。ですがステルス機能を展開したからには、我々から正体を隠す必要性があったのでしょう。真相はどうであれ、看過できない忌々しき問題です」

 眉間に指をあて、春日はまだ頭のなかで情報を整理していた。不審点、疑問点が多すぎてなにから対応してよいか決めあぐねているようだ。

「大気圏に突然あらわれたり、光学迷彩のように視覚的に消えたりなど、そんな戦闘機や乗り物など聞いたこともない。いったいどこの国の兵器なのか」

「不明です。さらに、飛翔体の出現時には一瞬ではありますが、強力な重力波が計測されています」

「重力波」

「はい。わたしも専門外ではありますが、飛翔体が光速に近い速度で出現したために放出されたのではないか、とのことです。これが人工的に発生させられた現象であるならば、現代の科学技術がひっくり返ることになります。これらの技術は」

「ちょっと待ってくれ」

 春日は、この数分で三日ほど徹夜したような疲労感に襲われていた。いま胸のなかでひろがる悪い予感は、まだまだ序の口なのであろう。突然やってきた大事件に彼はちょっとした逃避を試みた。

「美月くんがSF好きだとは知らなかったな」

 乾いた笑いはふたりには届かない。

 石川准尉は微動だにせず、美月もなにかが伝線したのか、白い頬はぴくりともしない。何事もなかったように資料端末を手にすると美月は報告を続けた。

「この重力波はJAXA、および各観測センターでも捉えられたとの報告を受けています。同様に海外でも観測されているでしょう」

 嫌な汗が浮かび、春日は聞こえない振りをしてみたが、怖い顔をされたので座りなおした。いつも頼れる有能な部下なのであるが、それだけに遠慮がない。

「また、近年ロシアによる宇宙再開発の勢いは周知のことかと思います。であるなら、ロシアを含む諸外国からも相当な圧力がかかるでしょう。この飛翔体が何者かによって製造された兵器であるとするのなら、各国がこぞってその技術を手に入れようとするはずです」

 春日の挙動は落ち着かず、足を組み替えたり顔に手を当てたりなど忙しい。それだけに、事の重大さが彼の足元を揺すって脅してくるのである。「大事な報告がある」と呼びだされて来たものの、まさか国を揺るがすほどの事件だとは誰が予想したであろうか。

 夢にも思わないとは、まさにこのことである。

「い、いや。諸外国への対応は、我々が考えることではないよ。それに美月くんの言い方だと、その飛翔体はまるで地球外から来た人工物のように聞えるが」

「これは私見で確証もなく、荒唐無稽な話かもしれません。ですが重力波を発生させて空間に突然出現する技術など、少佐が言われたように世界中どこの国にも存在しません。であるなら地球外の存在であると考えた方が自然です。そして」

「まだあるの?」という言葉を飲み込んで、春日は精一杯の余裕を見せて頷いた。もっとも、そんな小芝居は見抜かれているのだが、冷たい美月の対応により体面が保たれた。と言うより、彼女自身も余裕がないのであろう。

「そして、仮に地球で開発された技術とするのなら、唯一の可能性があったアメリカの説も否定されました」

「なぜだね」

「さきほど、飛翔体の捜索にアメリカが協力を申しでてきました」

「うそだろ」

「協力と言えば聞えは良いですが、あきらかに横取りを狙ってきています。強引にも奪取するつもりで、いまうえの国防省と外務省は大騒ぎです」

 思わず立ちあがった春日だが、止まっていた息を吐きだすと座り込んでしまった。

「なぜ、もっと早く言ってくれないんだ」

「ですから、こうして詳細を報告に参りました」

 ぐうの音も出ない。

 春日は苦りきった顔で椅子にもたれ、突然に降りかかってきた難題に頭を悩ませた。両手を腹のうえで組み、目を閉じながらつぶやいた言葉が「なぜ、よりにもよって、わざわざ日本に落ちてきたんだ」であった。

 国を守る人間として、いささか無責任かつ不誠実であったが、美月もその気持ちは理解できた。何も起きなければ、それが一番の幸せであり国防軍が暇なことは平和の証拠でもあるのだ。

 だが、平和だからと言って、有事の際に対して防衛の備えを怠って良いわけではない。日本が国防省を立ちあげ、国防軍を新設したのにはそれ相応の理由がある。

 そこで今回の事件は、日本にとって大切な転機になるのではないかと美月は考えていた。

「春日少佐。確かにこの件は、ややこしいことになりそうですが、逆に考えれば幸運だったとも言えます」

「わたしには、不幸中の不幸にしか思えないが」

 春日が悲観的な考えの持ち主なのは承知のうえなので、とくに気を悪くした様子もない。

 美月も人間である。

 時には情を殺して公務に赴かなくてはならないが、上官と部下と言う立場であっても、お互いに信頼という根本的な人間関係がなければ成り立たない。それがいかなる理由のもとに築きあげられているかは所詮、本人にしか分からないのである。

 であるならば、その理由が血を受け継いだ者を愛することであっても問題はないはずだ。

「予想される問題は数多くあるでしょう。この件で日本がどのような未来を担うのか想像もつきません。ですが、少なくともいまは国家間での折衝が最重要案件となります」

 国家間という言葉が、間接的にそれ以外の存在を美月が認めていることを示していた。人間同士での揉め事が解決しないまま、外の世界に目をむけることなどできないと彼女自身も理解はしている。だが、その先に未知の存在との対応が必要になるときが必ず来る、とも考えていた。それがいつになり、どのような事態になるかなど見当もつかない。最悪の結果となってしまったときの事まで予想しておかないと、すべてが後手にまわってからでは取り返しがつかないことになる。心配のし過ぎもよくないが、なにも考えなしでいられるほど楽天的でもない。わずかな可能性があるのなら、それに対する心構えが必要であると思うほどには現実主義者なのである。

「それはそうだが。諸外国と折りあいをつけると言っても、正体が分からないことには始まらない」

「だからこそ、上層部が時間稼ぎをしているあいだに一刻も早く見つけだす必要があります。けして望んだことではありませんが、そのカードはすでに日本に落ちてしまっているのです」

 公務には厳しくはあるものの、あまり自己主張しない美月が今日に限っては驚くほど雄弁であった。

「あの技術が彼らの手に渡ったとしたら、ただでさえ軍事大国であるアメリカにより世界のパワーバランスはさらに崩れるでしょう。そうなったとき、日本は対抗する手段がありません。明日にでも強引にやって来るつもりのアメリカより先に、なんとしても我々が確保する必要があります。勇気や綺麗事では国を守れないのです春日少佐」

 あいかわらず無言であるが、美月の言葉に石川少尉が全力で支持し拍手を送らんばかりの気配が伝わってくる。

 美月も、石川准尉も、国防軍の一員として誰よりも国を愛していた。いや、誰かを守りたいのである。

 長い沈黙が訪れた。

「よく、わかったよ美月くん。ひとりの軍人として国を守りたい気持ちや、日本の未来にまで目をむけているきみの姿勢、誠実さはわたしも見習わなくてはならない。これは嘘ではない。ただ」

 そう言葉をきると、春日はしばし続ける言葉を考えあぐねていた。美月の真摯な気持ちに、彼なりに誠意ある答えを選ぼうとしているのである。

「アメリカへの対応もしつつ、すでに捜索は開始されているのだろう? それなら、いま我々は捜索結果を待つことしかできない。すべては、その飛翔体を見つけだしてからだよ。美月くん」

 結局でてきた言葉は、その場しのぎにも聞こえるような平凡なものでしなかった。

 

          ○

 

 遮光ウィンドウが解除され、会議室には夕日が差し込んでいる。

 自分のそばを離れようとしない石川准尉の顔には「公私問わず、どのような話であっても他言無用」と凛々しい眉毛と真一文字の唇が訴えていたが、美月は感謝しつつもドアの外まで追いだした。

 同席させてもらえないのであれば、かわりに話が終わるまで誰も通さないようドアの外で仁王立ちでいるつもりだろう。

「完全に美月くんのボディーガードだな」

 コーヒーを手に戻ってきた美月に、春日が苦笑する。

「自分の身ぐらい自分で守れます」

 すこし頬を赤らめながら、美月はそっとコーヒーを差しだした。

「ありがとう」

 受け取ったカップを見て、春日の浮かべていた笑顔が微妙に変化した。

 それは不恰好な手作りのカップであり、ぐにゃぐにゃに曲がった五線譜と音符が描かれていた。譜面通りに演奏したら、さぞ絶望的な曲が流れるであろう。

 だが、それは春日にとって大切な宝物である。

 美月もカップを贈った人物のことを知っているからこそ、「その話」をする時にしか触れなかった。つまりふたりにとって、このカップは暗黙の了解となっていた。

「世界を揺るがす大事件かもしれないと言うのに、待っているしかないのは、もどかしいね」

 渡されたカップでコーヒーを飲みつつ、春日は夕日の空を飛ぶ戦闘機を眺めた。文武両道である美月であったが、唯一の欠点はコーヒーをいれるセンスが致命的に欠けていることであった。

 そんな気持ちを知っているかはわからないが、美月も無言のまま全身を朱色に染めていた。

 お互いに聞きたいこと、話したいことは共通しているのに、なかなか口を開くことが出来ない。

「少佐。捜索は数日はかかるでしょう。今のうちに帰られたらいかがですか」

 先に言葉をかけたのは美月であった。

 カップを受け取った時点で自分から水をむけるべきであっただけに、春日は気まずい気持ちを抱えながら「うむ」と煮え切らない返事をした。

 春日も、美月も、相手が抱えている傷のために、どこまで触れて良いかわからない。大人だからこそ、お互いの距離感を気にしてしまうのである。

「来週の航空祭には」

 遠くを眺める美月の言葉に、ずるいと思いつつ春日はカップを撫でながら質問で返してしまった。

「こんな時に航空祭なんてと言いたいところだけど。美月くんは、逢いたいかい」

「あいたくない、と言えば嘘になります。でも、紫苑にとって、わたしの存在が自立の邪魔になってしまうのは複雑です」

 湯気が残っているカップを置くと、春日は目を伏せた。

「きみは、陽子にそっくりだからね。紫苑が母親のぬくもりを美月くんに求めるのも仕方がないよ」

「それは、泉さんの役目です」

 さきほどの雄弁さはみじんもなく、美月はこの時ばかりは泉の名を言いよどんだ。

「そうだね。でも」

「でも」

 視線をむけられても、春日は目をふせたままであった。気づいてはいるのだが美月の顔を見られない。

「紫苑は誰にも、美月くん以外の者には心を開かないのだ。わたしにも、泉にも。それどころか、この世界をも見ていないんだ。あの子は、いまも陽子と過ごした想い出のなかでしか生きられないんだ。わたしが救えなかったばかりに、わたしは紫苑の世界も声も奪ってしまったんだ」

「それは」

 顔を伏せた春日に、美月の唇が動きをとめた。

 日が陰り、会議室は薄暗く影を落とす。遠くに聞こえる戦闘機の音だけが低く響いていた。

「それは少佐、勇樹さんの責任ではありません」

 自責に悩まされる春日に、美月は何度この台詞を唱えたであろうか。無駄とは知りつつも他にかける言葉が見つからないのだ。国防大を首席で卒業し、軍人となってはみたものの美月は自分の無力さを痛感せずにいられない。

 いったい、自分はなにを守れると言うのであろう。

 目の前にいる春日も、傷ついている彼の娘も。

「紫苑は、わたしにではなく、わたしを通して姉さんを探しているのでしょう」

 美月は、寂しそうに言った。

 昔から姪である紫苑とは、姉妹のように過ごして来た。赤ん坊の頃に何度も抱かせてもらっていただけに、紫苑に対する愛情は美月にとっても深く育まれている。そして紫苑も意識していなくとも、陽子を失ってからは美月に母親の面影を求めていた。

 そんな紫苑を誰が責められようか。

「まだ中学生だと言うのに、この世界で誰にも心を開けないなんて、あんまりです。子供を導いてあげることが、わたしたち大人の役目であるはずなのに。それなのに」

 軍人になれば多くの人を守ることができる。

 そう単純で直接的なものではないと理解していたが、やはり思い描いていた理想との差異に美月も自分自身に対しての失望を隠しきれない。

「勇樹さん。いえ、お義兄さん」

 ぎくりとして、勇樹は顔をあげた。

 背をむけてそう呼んだ美月のうなじに、消えかける夕日が朱色の線を光らせる。

「どうして」

 声が揺れた。

「どうして、再婚したの?」

 胸の奥に重たいものが突きあがり、春日は答えることも、呼吸をすることもできなくなった。美月の肩がかすかに震えていた。

 空は紫色となり、戦闘機の影も消えている。

「どうしてって、それは」

 吐きだした息は再びとまり、彼の胸を締めあげる。

 春日は狼狽し、愕然とした。あらためて突きつけた美月に、自信をもって答えることができない自分に絶句したのである。

「もちろん、紫苑のためにだよ」

 その言い訳のような言葉は、美月の背にあたってこぼれ落ちた。彼女の胸にはとても届かない。

「紫苑のため」

 美月の声色が冷たく変化した。

「そうだよ。美月くんも、さっき言ったではないか。子供を導くことが大人の役目であると。紫苑には、あの子には、母親が必要なんだ」

「それなら」

 床を蹴るように美月が振り返る。

 わずかに残った夕日が、彼女の瞳を光らせた。

「泉さんとは、好きでもないのに結婚したの」

「なにを」

 腰を浮かせかけた春日だが、美月の瞳にすべてを打ち砕かれてしまった。彼女の瞳は、まるで陽子と紫苑と、ふたりから心の奥底を見透かされているようであった。

「そ、そんなわけない。泉は良くやってくれている。わたしと結婚してからずっと、紫苑の心を開かせるために努力してくれているんだ」

「お義兄さん、自分で言っていて気がつかないの」

「なにが、だね」

 春日は、心から美月の目が怖いと思った。震える手に冷や汗が浮かぶ。

「いつも、泉さんは良くやってくれている。とても助かっている。そんなことばかり。いままでだって一度も、お義兄さんの口から泉さんが好きだ、なんて聞いたことない。どうして、好きでもない人と結婚したの」

「美月くん、いい加減にしないか」

「お義兄さんは」

 二人の瞳はお互いに、その奥に傷ついた悲しみを揺らし触れられることに、ひどく怯えていた。

「お義兄さんは泉さんに、紫苑を押しつけたのよ」

「ちがう」

 春日は叫び、立ちあがる。

 傷口を触れあった大人たちは、また傷ついた。

 彼らは睨みあったまま、無言で立ち尽くす。

 けして怒っているわけでも、憎んでいるわけでもない。それどころか、どれほどお互いを信頼し、家族としての愛情を覚えていたであろうか。ふたりの瞳に映る光は、「どうして」と言う感情で満たされていた。

 すっと美月が視線を外すと、襟元に口を寄せて「なんでもありません。大丈夫です」と静かに吹き込んだ。

 ドアの外で待機していた石川准尉が、美月にコンタクトを取ったのであろう。

 それをきっかけに、ふたりは落ち着きを取り戻した。だからと言ってなにかが解決したわけでもなく、悲痛な空気はふたりの体を重たく濡らしている。

 春日は力なく椅子に座ると顔を覆い、美月は顔をそむけて目元をぬぐった。

「ごめんなさい。勇樹さん」

「いや、わたしこそ」

 続けたのは美月であった。

「あの飛翔体を見て、嫌な予感がしたの。なにか良くないことが起きそうって。そのとき、わたしが軍人として、義姉として、紫苑を守ってあげられるのか心配になってしまって」

 水面下に忍び寄る不吉な影に、何かを感じたのであろうか。めずらしく感情をあらわにした美月にも、それ相応の理由があったのである。

「美月くんの言う通りだ。きみも泉も、心から紫苑のことを心配してくれているのに。わたしは」

 春日の口は重い。丸めた背中から彼の苦悩が滲んでいた。

「わたしは紫苑が怖いんだ。心を閉じたまま、冷ややかにこの現実を呪うような目をしている。あの子に見られると、わたしはなぜ陽子を助けられなかったのかと、責め立てられている気がしてならないんだ」

「まさか、紫苑が勇樹さんのことを責めたりなんか。繊細で優しい子なのは、みんな知っているわ。誰かを憎んでいるわけではなく、まだ現実を受け入れられなくて苦しんでいるのよ」

「そうだね。そうやって苦しんでいる紫苑を、わたしは放りだしてしまった。泉だって困っているというのに、わたしは手を貸すことすらしない。わたしは、父親失格だ」

「そんなこと」

 安易な気休めは、慰めにもならないのであろう。言葉の無力さに、美月は胸に手をあてて呼吸を整えるしかなかった。

「勇樹さん。やはり航空祭には、ふたりを招いて。離れていてはなにも解決しないと思うの。解決できなくても、いまは少しでも一緒にいることが大切だと思うわ」

 しばしうつむいて悩んでいた春日であったが、顔をあげると唇の端にかすかに笑みを浮かべた。

「きみのほうが、ずっと大人だね」

「いえ、わたしのほうが、紫苑に歳が近いからよ」

 苦笑ではない笑みが、ふたりに広がった。

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