第3話 迷い込んだ者

 猟師である赤城鉄男は、今年で六十三歳になる。

 体力と足腰の強さに恵まれ、猟師は自分の天職であると考えていた。

 だが数年前に足を怪我してからというもの、以前のような気持ちを保てなくなっていた。

 昔では考えられなかったミスに、体ではなく心が弱ってしまったのだ。無茶をしての失敗は数え切れないほどあったが、不注意による大きな怪我は肉体ではなく心に傷を残していた。

 そのとき、鉄男は猟師として活動する限界を感じてしまったのである。

 何日も山に籠り、ライフルを手に獲物を追いかけていた頃の、猛々しい自分はいなくなってしまった。

 雪が降る極寒、見えない雪の落とし穴。数々の山の脅威。どんな過酷な環境であっても、獲物を撃ち倒すために命を懸けていた執念。

 そんな若かりし頃の熱いものを失い、いまは細々とガイドや山菜業などで食いつないでいた。

 だが、そんな鉄男に、再び銃を持たせる事件が起きた。

「鉄さん。熊がでたらしい」

 山のふもとに住んでいる鉄男のところに、猟師仲間である源二が訪ねてきたのである。

 裸電球ひとつのうす暗い部屋で、ふたりは手酌でビールを飲んでいた。

「この山にか?」

「ああ。それも、かなりでかい奴らしい」

 知床の辺りならまだしも、このあたりではすっかり見かけなくなっていただけに、鉄男は驚いた。

 いままで心ここにあらずな様子だったが、熊と聞いて源二にむきなおった。

「誰かやられたのか?」

「いや。仲間の一人が遠くから見かけただけだ。それでも、化け物みたいな大きさだと」

「なぜそんな奴がここに。もともと住み着いていたのか、どこからか流れてきやがったのか」

 鉄男の脳裏に、いままでに戦った熊との歴史がよみがえる。

 そのなかには、決して避けては通れない痛ましい記憶があった。

 妻を早くに亡くし、父の跡を継ぎたいという息子・総司に、狩りの仕方を教えながら暮らしていたときである。

 町での買い物の帰りに、総司はひとり山道にて、エサを求めて降りてきた子連れの熊と遭遇してしまったのだ。

 もともと熊は臆病で慎重な生き物であるが、手負いと子連れの時だけは狂暴になる。もちろん銃も持ってなく、運悪く鉢合わせた総司は巨大な爪によって命を落としたのである。

 翌日、変わり果てた総司の姿に、鉄男は復讐の鬼と化した。

「この山の熊はすべておれが撃ち殺す」

 自分を戒めるため、息子の無念を払うため、そして総司のような子供が二度と熊の被害にあわないために。

 それからというもの、鉄男はひとりで熊を狩り続け、気がつけば山で一番の熊撃ちとなっていた。

 それから数十年がたち、熊の数が減るとともに、猟師も姿を消した。

 体も衰え、狩っても狩っても満たされない心。

 長い年月が鉄男の心を疲れさせ、足の怪我も重なり、鉄男はいつしか銃を持たなくなってしまっていた。

「鉄さん。いまはまだ被害が出てないが、もしあの熊が町へ降りていったら、大変なことになるよ」

「うむ」

 鉄男はコップを置くと、顔をぬぐい酒臭い溜息をついた。

「つまり。おれに、そいつを狩れと?」

「この山の熊撃ちといったら、あんたくらいしか残っていないんだ」

「おれはもう、何年も熊を撃ってない。かわりにお前がやってくれ」

「とても無理だ。ほかに頼む人もいないから、こうしてやって来たんじゃないか」

 眉をひそめたまま黙りこんでしまった鉄男に、源二は続けた。

「どうしたんだ鉄さん。昔なら熊がでた、なんて聞いたら真っ先に飛び出してたじゃないか」

 源二は、近頃ずっと元気がなくふさぎ込んだ鉄男が心配でならない。

 もともと陽気な性格ではなかったが、狩りをしていたときは生きる目標をもっていた。鉄男自身が獣のごとく山に潜み、研ぎ澄まされた感覚が野性となって彼を突き動かす。

 獲物を追う狼のように、ぎらぎらとした殺気をまとって「おれにまかせろ。おれが撃ち殺してきてやる」と、目を光らせていたのだ。

 とても六十代とは思えぬ精悍な顔だちに、長年の山によって鍛え抜かれた肉体。

 熊を追っていた彼は生きていた。

 それが復讐という形であったとしても、生命としての灯を掲げ、絶対に折れない心をもって山へ挑んでいた。それが、鉄男の生きている理由であったからである。

 だからこそ、源二はこの話を聞かせに来たのだ。ところが、その鉄男といえば難しい顔をしたまま、黙り込んでしまった。

 ふたつ返事で引き受けてくれると考えていただけに、源二は意外でもあり残念でもあり、うらめしくもあった。

 長いあいだ同じ猟師としてやってきた彼が、このまま枯れ木のように朽ちてしまう気がして、どうにか鉄男に以前のような元気を取り戻して欲しいのだ。それが、永遠に終わらない敵討ちであったとしても。

 源二も年を取り、若い時ほど体が動かなくなってきた。同じ猟師として、命がけで過酷な仕事であることは誰よりもわかってる。

 だが、いまの鉄男は肉体的な衰えではなく、心が、情熱が抜けてしまって生きる希望を見失っているのだ。

「あの鬼みたいな鉄さんは、どこにいったんだよ。毎日のように熊の内臓を持ち帰ってきて、今日も仕留めたぜって笑うあんたは、そりゃ怖かったよ」

 それが、いまの鉄男はどうであるか。

 抜け殻みたいに生気がなく、毎日をただ死ぬためだけに過ごしている。

 熊撃ちとして名をはせた鉄男が、このままで良いわけがない。源二も一方的な気持ちを押しつけていることは理解している。

 ライフルを担いだ背中は大きく、誰もが一流の猟師として賞賛し、息子の尊敬を一身に集めていたのである。

 だからこそ、鉄男は猟師として熊と戦い続けることを誓ったのではなかったのか。

「総司くんは、猟師であるあんたに憧れていた。強くて、猛々しいその姿に」

 言いかけて、源二はちらりと仏壇にある写真に目をむけた。

 しばらく無言でビールを飲みあっていたが、鉄男は「源二。おれは、疲れてしまったんだ」と遠い目をした。

「熊が憎いという気持ちも。独りになってしまった悲しさも。すっかり気がぬけて、どうでもよくなってしまったんだ」

「どうしてさ、どうしてさ鉄さん」

 源二がつかんだ鉄男の肩は厚く、鍛え抜かれた強靭な筋肉が眠っていた。

「いったい、なにがあったっていうのさ。おれはそんな腑抜けで、ひとりで拗ねてるあんたを見たくないんだ」

 鉄男は短く「怪我をした」とだけ答えた。

「それは知ってるよ。ちょっと大きな怪我だったけど、猟師をやめるほどではないだろう。もう良くなったんだろう?」

「ああ、傷は治った」

 ごつごつとした大きな手で、鉄男は自分の脚をさする。

「だが、怪我をしたとき、なにかが傷口から抜けてしまったんだ。おれはもう駄目だと思ってしまったんだ」

「なにが駄目なんだ。やる気が抜けたっていうのか? そんな馬鹿な話があるかい。あんたはまだまだ戦えるじゃないか。そんなことで良いのかい」

 鉄男は答えない。

 その目は力なく、ぼんやりとテーブルのずっと下を見つめている。

「総司くんの無念はどうなる?」

 その言葉に、肩をゆすられた鉄男の目にちらりと光りがゆれた。

「もう充分、戦ったよ。もういいじゃないか。もう、なにも出てこないんだよ。もう、なにも感じないんだよ、源二」

 なにかを確かめようとして、鉄男は胸にあてた手を開いて見せた。

 たくさんの傷跡が残った指は硬く渇き、そのすきまから今も鉄男の持っていた熱がこぼれ落ちているようである。

 辛抱強く説得を繰りかえす源二は、鉄男が昔の猟師としての気持ちを忘れてしまったことが残念でならない。

「あんたの気持ちはわかった。だが、この山にうろついているっていう、あいつはどうするんだ。いまはまだ平気かもしれないが、秋になって餌がなくなったら町まで降りるかもしれない。そうなったら、また人が襲われる危険だってある。襲われた相手が子供だったらどうするんだ」

「おれが知るか」

「鉄さん!」

 源二は膝を立てかけたが、もう何を言っても無駄と諦めたのか、疲れた顔で座りなおした。

「わかったよ。無理を言って、すまなかった」

 そう言うと源二は「それなら、おれがやるよ。腹を空かせたそいつを、町には行かせられない」と後にした。

 ひとり背中を丸めている鉄男には、もう誰の言葉も届かないようであった。


 そして、鉄男が源二の遺体と対面したのはそれから三日後のことである。

 一緒にいた仲間によると、源二をやった熊は立ち姿が三メートル以上ある化け物らしい。

 背丈から想定すると、体重は四、五百キロほどはある巨体である。

「げ、源二の体が飛ばされたんだ。爪で裂かれて、宙に飛んで木に激突したんだ」

 みな蒼白な顔をして、わなわなと震えていた。

 源二の遺体の近くに座り込んでいる者もいた。

「おれも長いこと猟師をしてきたが、あんな化け物は初めてだ。遠くから源二を助けようとして何発か撃ち込んだのに、倒れないどころか怒り狂いやがった」

 残された者は、口々に「すまない、すまない」と繰り返すばかりであった。

「源二を死なせたばかりか、逃がして仕留め損ねたのか。手負いにして面倒にしただけじゃないか」

 そう呟いた鉄男に、みな激高した。

「鉄さんが行かないから、源二がかわりになったんじゃないか。この山で一番の熊撃ちであるあんたが行けば、こんな事にはならなかったんだ!」

「おれなら仕留められたと?」

「そうだよ、さっきから他人事みたいに、何も感じないのか鉄さん!」

 怒り、憎しみ、悲しみが渦巻き、その中心にいる鉄男は、何も言わぬ源二の前で立ち尽くしている。

 かつて、友であったものを見おろす目は灰色に濁り、その奥底は光の届かぬ沈黙に隠されて見えない。

 日が暮れ始めた山は、いつまでも陰鬱な嘆きが支配していた。

 

       ○

 

 明け方、鉄男はふと目が覚めた。

 耳が痛いほどの静寂のなかに、ぎらぎらした欲望が混ざり込んでいるのを感じたのである。

 それは、純粋な野性であった。

 生き残るために放たれる、生命としての顕示である。

 包み隠すことなく、眠りについた山の奥から強烈な生命力が熱風のように押し寄せる。部屋のなかにいても、その一挙一動が手に取るように伝わってくる。

 しばし身を起こして感覚を研ぎ澄ませていた鉄男は、しだいに引き寄せられるように窓際へと歩み寄った。

 カーテンの向こう側。

 巨大な気配が闇に潜んでいた。

 力強い足が、一歩ずつ慎重に近づいてくる。

 鉄男は確信した。

「獲物を、取り返しに来たか」

 鼻を鳴らし、黒々と輝く目を見開き、口からは熱い息が吐き出される。首を振り、威嚇しながら周囲をうかがう様が目に浮かぶようだ。

 眠っていた猟師としての野性が、近づく気配に呼び起されているのか。

 壁に背をあてて、鉄男は目をふせた。

 そこにいる。

〝ドコダ、オレノ獲物ヲカエセ〟

 夜の闇に、小枝を超重量の生物が踏みつぶす音が響いた。

 右に、左に探しまわっている。

 血の匂いを頼りに、黒い気配が揺らめき立つ殺気をまとって歩み寄る。

〝オレヲ傷ツケタヤツヲ許サナイ〟

 壁の内側にいる自分を感じ取ったのか、背中から心臓を鷲掴みにされる殺気が突き刺さる。

 動きが止まった。

「こちらを見ていやがる」

 汗が噴きだした。

 はっきりと、その息遣いを感じられるほどに生々しく、振りむけばすぐそこに顔があるようだ。

 獣の匂い。

 獣の気配。

 鉄男は震えていた。

 確かに緊張していた。

 恐怖も感じていた。

 だが、それだけではない何かが、鉄男のなかで呼び起されていた。

 呼吸を整え、顎までしたたった汗をぬぐうと、ゆっくりとカーテンをひらく。

 鉄男の心臓は跳ねあがった。

 柵を越え、山道をはさんだむこう側。

 源二が寝かされていた場所に、そいつは四足で構えていた。

 じっとこちらを見ている。

 暗い街灯に吐きだす息は白く、巨大な影のなかで、生命力にあふれる双眸が黒々と敵意を放っていた。

「おまえが、源二をやった奴か」

 想像以上の大きさと迫力であった。

 鉄男は総毛立ち、初めて心から怖いと思った。

 だが、鉄男のそうした心の奥底にあった感情の扉を蹴破られると、恐怖と一緒に湧きあがるものがあった。

 激しい鼓動。

 激しい恐怖。

 心臓の高鳴りがとまらない。

 脈打つたびに、燃えたぎる血が鉄男の体を沸騰させた。

 震えている。

 全身が震えている。

 そう、鉄男はかつてない興奮を覚えていた。

 熊と猟師。

 睨みあい、お互いの内なる野性が共鳴する。

 どれだけのあいだ睨みあっていたであろうか。自分の体におさまり切らない衝動に、ついに黒い影が立ちあがった。

 まさに化け物だ。

 後ろ足で立つと、その巨体が暗闇の力を借りて膨れあがったように見える。

「まるで、山の影のようだ」

 闘気を放ちながら仁王立ちになり、圧倒する山を思わせる姿から、鉄男は「山影」と名づけた。

 ごおっ、ごおっと怒りをあらわにし、いまにもこちらに突進して飛びかかって来そうな勢いである。

 獲物を奪われた苛立ち、傷つけられた怒り、ぶつかりあった闘志。山影のなかでの野性が最高潮に達し、牙をむきだして長い咆哮をあげた。

 全身で叫んでいた。押し寄せた殺気はびりびりと窓を震わせ、鉄男の全身を貫いた。

 むうっと鉄男はうなった。

 気圧されたのではない。

 獣同士が威嚇するように、よみがえった鉄男の心が解き放たれたのだ。いや、この熊との接触により、傷つき眠りについていた野性が引きずり出されたのである。

 これは宣戦布告である。

「望むところだ」

 お互いに、ぎらぎらと目を光らせて熱い息を放つ。すでに戦いが始まっていた。

 両者は見えない鎖につながれて、戦場に放り込まれたのだ。

 山影は、いつまでも首を揺らして威嚇していたが、前足を降ろすともう一度こちらを睨み返す。そして、背中から黒い熱を残しながら山に戻っていった。

 けして諦めたわけでも、逃げたわけでもない。

 野性のままに戦える山で決着をつけたいのだ。何者にも邪魔されず、己を解放できる大自然に呼び戻されたのである。

 それに呼応するように、鉄男も体中の血がたぎり、いつまでも暗闇に消えた山影を睨み続けていた。

 

       ○

 

 わずかに空が白み始めた。

 久しぶりのライフルに胸が高鳴る。

 使わない時でも、つねに手入れだけは欠かさなかった。

 今思えば、自分の沈み切った心は嵐のまえの静けさであったのかもしれない。

 猟師として、最後にして最大の獲物との戦いに備え、力を蓄えていたのである。

 山の中に身を隠し眠りについていた鉄男の魂が、山影によって連れ戻されたのだ。

 夜明け前はまだ寒かったが、鉄男の心と体は若かりし頃に感じた熱い情熱に満たされている。

「準備はいいか」

 自分に言い聞かせた鉄男は、ライフルを背負った。久しぶりの重さである。

「源二、すまない。これは敵討ちでもなければ、町の被害を防ぐためでもない。だが、あいつに引きあわせてくれたお前には感謝している」

 地面には、まだ源二の血が残っていた。

 近くの木から測定すると、山影の巨体さが改めて実感させられる。百八十センチ近い鉄男が、さらに見あげる大きさである。

「これは、おれが猟師としてあいつを討ちたい、という純粋な気持ちからだ。あんな大物にはもう二度と出会えないだろう」

 獲物の消えた雑木林の前に立つと、鉄男はいままで何度も登った山に思いをはせる。勝っても負けても、これが最後の狩りとなるだろう。

 もちろん死ぬつもりはない。

 ただ猟師として、こんなにも魂が震える相手と戦うことが出来るのは、肉体的にも精神的にも、これが最後であると感じていた。

 だからこそ、山影と出会ったとき、この戦いにすべてを賭ける気持ちになったのである。

「さあ、狩りの始まりだ」

 青臭い台詞に鉄男は苦笑した。

 だが素直な言葉である。

 狩るか、狩られるか。

 いまもどこかに潜んでいる「奴」の影を映したように、目の前の山は黒々とそびえている。

 こんなに胸躍る朝はいつ以来であろうか。

 はやる心を抑えながら、鉄男はついに獲物が待ち受ける戦場へ足を踏み入れた。

 むせ返る緑の匂いに、朝露の湿気。

 山はまだ眠っていた。

 いや、今日だけは両者の戦いのために、場所を譲ってくれたのであろうか。しんと静まりかえっている。

 聞こえるのは、自分の呼吸のみ。

 枝をよけ、草をわけ、一歩また一歩と緑の影を落とす山中をのぼる。

 山影の足跡はすぐに見つかった。

 あれだけの巨体である。

 柔らかい土に、足と爪でえぐられた跡がはっきりと残っていた。土の色からして、まだ通ったばかりであることが分かる。

「見つけた。まずは、おれが一歩リードだ」

 他の山へ逃げてしまうことがなければ、あの体の大きさが逆に追跡を容易にさせる。

「待っていろよ」

 離れた恋人に会いにゆくような、そんな情熱的な声色である。

 以前は重くて仕方がなかったライフルも、いまは自らの意思で、獲物に引き寄せられているのかと思うほど軽い。

 全身が躍動し、息は切れていても体が重くなることはなく、脚が思うように動く。

 だが進みは慎重に、どんな変化も見逃さないように全神経を集中する。

 途切れ途切れではあるが、まだ足跡を見失わずにいた。切れている足跡は、何十年という猟師としての経験が補正する。

 熊の習性、行動はすべて頭のなかに入っていた。

「さあ、どこにいる山影。おれを翻弄しているつもりか? すぐに追い詰めてやるぞ」

 奥へ奥へと続く足跡に、鉄男は樹木たちに深く囲まれるほど、山と一体化したような感覚の広がりを覚える。

 あらゆる木々の揺れ、息吹。空気、風、そして匂い。さらには、自分の背中を俯瞰で捉えられる気がするほどだ。

 空の明るさが少しずつ増し、眠っていた草木たちが目を覚ます。鉄男には、山のすべてが自分の味方をしているように感じていた。

 こんなにも、冷静でかつ研ぎ澄まされた感覚は初めてである。よみがえった野性が、さらに新たな覚醒を遂げたのであろうか。

 木々に手をあて、草が頬に触れるたびに獲物が潜む場所へと導かれる。

 言葉ではない言葉が、鉄男の行く道を告げる。

 長いあいだ共に過ごした山が、突然に現れた巨大な獣を敵とみなしたのか。

 いや、熊は山の神からの贈り物である。

 それが山の掟ならば、排除されるべき存在は人間である自分。

 熊はとても賢い動物だ。

 あれだけの巨体にまで成長したという事は、それ相応の知能と、生き残る力を持っている証明である。ならば、山を味方につけているのも、獲物を追い詰めているのも、本当は山影の方なのかもしれない。

 先手を取っていたはずの自分が、知らぬうちに奴に誘い込まれていたのだとしたら。

 そう考えると、鉄男は歯を見せた。

 恐怖と同時に、命を取りあう勝負に究極的な楽しさを覚えたのである。簡単に狩られるのではつまらない。

 自分も、山影も。

 お互いのすべてをぶつけあい、魂が燃え尽きるほどの死闘を制してこそ、有終の美を飾るにふさわしい。

 過酷な条件に落とされれば落とされるほど、鉄男は逆境に燃えあがる。

 誘い込んでいるのなら、あえて飛び込もうじゃないか。おれが臆病者ではないことを教えてやる。

 鉄男は燃えていた。

 あれだけ冷え切っていて、何も感じなかった心が、いまは薪をくべるのが追いつかないほど炎が吹き荒れている。

 草をかき分け、樹木をくぐり、山の奥へと入り込むほどに鉄男の野性が解き放たれた。

 足跡を確認するたびに、掘り起こされた土が大地の息吹を香らせる。

 両者の対決を見守る樹木たちは黒いシルエットとして浮かびあがり、濃度を増して背が高くなってゆく。

 探りあいは長時間に及んだ。

 お互いの存在を感じつつも、姿を隠し、翻弄し、牽制する。

 姿は見えないが、すでに両者はめまぐるしい攻防を繰り広げていた。

 気配を感じ、気配を隠し、お互いの背後を取ろうと樹木の海をぐるぐると泳ぎまわる。

 足跡を追っているあいだに同じところを歩かされてしまったり、自分が身を隠していた場所を嗅ぎまわった様子が残っていたりなど、鉄男は水面下での戦いに興奮がとまらなかった。

 かつて、こんなにも知力と体力を尽くして追いかけ、追いまわされた獲物がいたであろうか。

 ひりひりする緊張感に時間はあっというまに流れ、均衡が崩れたのは、曇り空が夕方になり濃度を増した頃である。長い長い探りあいの戦いがついに動きを見せた。

 さすがに疲れが見え始め、鉄男は折り重なる枝と葉のあいだから、湿った風によって灰色に染まる空を見あげた。

 天気が崩れるかもしれない。

 雨が降れば、こちらの匂いを消してもらえるが、足場が滑ったりなどリスクもある。

 足場も悪く、気が緩んだときが一番危険である。

 だからといって、ここで引き返すという考えは鉄男にはなかった。

 もう火がついてしまった鉄男に引き返すという選択肢はない。この炎がいつまで持続し、いつ体が動かなくなるかわからないのだ。運命に導かれた今日という日を逃してしまったら、もう自分に明日はない。そう自分を律し、鉄男は心は熱く体は冷静に、粘り強く山影を追う。

 ひたすらに愚直に地を這い、泥にまみれ、わずかな手がかりを探りながら確実に近づいている。

 どれだけ山を登り、歩きまわったであろうか。喉が焼け、鉄男は膝をつくと息を整えた。

 大きく吐き切ったとき、鉄男は全身が震えた。

 近くにいる。

 山影だ。

 匂いか、気配か、その両方か。

 鉄男の持っているすべてが、猟師としての勘となって気づかせたのである。

 まずい、と鉄男は心で舌打ちした。牽制しつつも、知らない間にお互いが予想よりずっと近くにまで接近していたのだ。

 生い茂る草木に身を屈め、慎重に様子をうかがう。自分からさがって距離をとるか、奴が離れるまで様子を見るか。

 いま、鉄男がいる場所がこのあたりでは一番高い。

 草や細かい木々に遮られ、動かなければ視覚的に発見される危険性は低いだろう。だが、熊はあまり視力が良くないとされている代わりに、犬よりも優れた嗅覚は脅威である。

 幸い、いまは風上にいるが、いつ風向きが変わるかわからない。

 ここで慌てて見つかったりなどしたら、あっという間に捕まってしまう。近距離で熊から走って逃げることなど人間には不可能である。

 ではどうするか。

 この状況で動くのが危険なのであれば、先に見つけて討ち取るしかない。

 朝から追跡し、やっと手の届くところまで追い詰めたのである。この機会を逃がしてはならない。

 そもそも、守りにまわって勝てるような生易しい相手ではない。自分のすべてを、生涯をかけて挑んだ相手に対し、そんな消極的な戦いではすでに心で負けている。

 けして無謀な戦いを挑むわけではない。

 だが、まず気持ちで勝たなければ到底討ち取ることはできない。

 自分から攻めろ。

 勝機は自分で切り開け。

 ふうっと恐怖を吐きだすと、鉄男はゆっくりと身を起こして周囲を確認した。

 右側は岩が切り立っているため、山影がいるとすれば逆側の斜面方向である。

 岩に背中を預けると、目の前の巨木との間に身を隠した。

 ここで発見できれば、高い位置から狙撃できるため鉄男にとっては好条件となる。

 だが、こちらが気づいたということは、山影も自分の存在を感じ取っている可能性が高い。

 踊る鼓動が耳を襲う。

 激しく喉が渇いている。

 冬であれば雪を口に入れて潤すこともできたが、いまは水を飲むことすらためらわれる。額から流れる汗を舐め、浅くなってしまう呼吸を整えながら神経を集中させた。

 変化はない。

 警戒して動きまわるのをやめたのか。

「どうした。怖気づいたか」

 恐怖と緊張に耐えられず、先に動いたほうが負ける。

「大丈夫だ。おれは生まれた時からこの山で暮らしていたんだ。たまに降りてくる神の化身より、ずっと山を知っているさ」

 たっぷり三十秒ほど深呼吸を繰りかえす。

 シャツも手袋も、汗で重くなっていた。

 場所はわからないが、木々の合間からゆらゆらと強烈な生命力を含んだ気配が立ちのぼってくる。

 そんな強烈な殺気に飲まれたのか、辺りは静まりかえり鳥の声すら聞こえない。

 唾を飲み込む音すら響いてしまいそうだ。

「さあ、出てこい。そろそろ痺れてきただろう?」

 そう心で挑発した鉄男の脚もライフルを抱える腕も、緊張のためか、身を屈めた体勢のためか震え始めている。

 そんな鉄男の顔に、かすかに冷たいものを感じた。雨が降ってきたのである。

 このタイミングで!

 うっすらと肌に感じるくらいの雨は、すぐ葉に音を立てるほどの強さとなった。

 ざっと広範囲に打たれる音。

 大粒となってしたたり落ちる音。

 小さい葉に落ちる高い音。

 大きい葉に落ちる低い音。

 みずからの呼吸しか聞こえなかった山が、いっせいに雨音に包まれた。これで、かすかな足音も聞き取れなくなってしまった。

 だが、相手も条件は同じである。

 焦った方が負けだ。

 いまは我慢しろ。

 まだだ、まだはやい。

 もう少し辛抱すれば、必ず奴が先に動く。

 飛び出してしまいそうな自分を必死にこらえ、悲鳴をあげそうな脚を歯を食いしばって固定する。

 胸が苦しい。

 落ち着け、落ち着けと、深く呼吸する。

 そのとき斜め左下の方角から、ざわっと草木が揺れた。

 あきらかに風などではない。

 続いて、かすかに枝の折れる音がした。

 見えた。

 山影だ。

 四足の頭部が、草木のすき間から黒い影となって覗いている。警戒しているが、まだこちらの位置をつかめていない。

 あらためて大きい、と鉄男は戦慄した。

 岩のような肩、丸太を思わせる強靭な四肢。

 鋼で出来ていそうな筋肉は隆々と盛りあがり、数百キロとある体であっても、重さを感じさせない力強く優雅な歩み。

 人間の非力さを痛感させられる、大自然の申し子。まさに山の神である。

 圧倒的な存在を前にして、鉄男はしばしその脅威に見とれてしまっていた。

 美しいとさえ思った。

 そんな神々しい存在に、いま自分は挑もうとしている。

 やはり無謀な戦いなのであろうか。

 とても人間が太刀打ちできる相手ではないのであろうか。

 否、おれは熊撃ちである。

 熊を討つことが存在理由であり、それが生きている証明なのである。

 だからこそ、おれはここにいる。

 父から受け継いだ熊撃ちとしての血。

 この血は自分の代で途絶えてしまうが、残せなかったかわりに、ここで決着をつけさせてもらう。おまえには、山がついているかもしれないが、おれには先祖代々の熊撃ちとしての血。祖父、父、そして総司の魂がついている。

 これらの力を、お前は越えられるか。

 山影よ、赤木家の名とともに土へ帰れ。

 覚悟を決めると、鉄男から迷いと恐怖が消えた。

 鉄男は慎重に、だが迅速にライフルを構えた。

 幸運にも、顔を自分にむけている。

 大きく移動する前に、狙いをつけなくてはならない。山影は、こちらの気配を感じてはいるが場所がわからず、首を振りながら警戒を続けている。

 最短距離の倍率でスコープを覗く。

 拡大された山影の顔が映しだされ、目の前にいるわけではないのに腰を引いてしまいそうなプレッシャーが押し寄せる。

 スコープ越しに見える山影の双眸からは、獰猛な光がきらめいている。

 周囲をうかがっているので、狙いが定まらない。少しでいい。ほんの数秒、頭の位置が止まってさえくれれば、その眉間の中心を撃ち抜くことができる。

 こうしている間にも、狙撃されそうなことに気がついて身を隠したり、こちらの場所が知れて襲いかかってくるかもしれない。

 喉が張りつき、鉄男は内臓が動きを止めてしまうような緊張とも戦っていた。

 一秒が十秒にも感じられ、極限まで高められた集中力によってあらゆる音が聞こえなくなった。

 無限にも続くかと思われる沈黙のなかで、山影の顔がゆっくりとこちらを向いた。

 山影と鉄男は、スコープ越しに視線が絡みあい、お互いを認識したのである。

 まばたきののち、山影が頬を釣りあげて牙を見せる。その口元のわずかうえ、動きを止めた眉間に狙いが定まった。

 何百分の一にまで凝縮された時間が、鉄男の指によって戻されようとしていた。

 おれの、勝ちだ。

 鉄男がトリガーをひいた。

 閃光、衝撃。

 銃声に空気が裂け、射線上の草木がはねて驚いた鳥たちが羽ばたいた。

 スコープのなかで山影の頬が吹き飛び、赤い飛沫がはじけた。

「はずした!」

 ごおおと、怒りの咆哮が響き渡る。

 もう位置もばれている。

 鉄男は慌てて身を起こし、次の弾を装填しようとライフルを立てた。

 斜面の下では巨体が草木を踏み倒し、強靭な手で枝を折り、爪で木の幹をえぐる音が聞こえてきた。

 怒り狂っている。

 山影がここまで駆けあがってくるまで、あと何発撃ち込めるであろうか。

 取りまわしがきかず、連射もできないライフルでは最低あと二、三発が限界だろう。はずしたり、仕留められなければ、その時点で自分の死が決定する。

 そんなプレッシャーのなかで、まともに銃が撃てるのか。ましてや樹木が生い茂る視界の悪さにくわえ、高速で動いている相手である。

 もう絶望的な要素しか残されていない。

 だが、どんなに絶望的であっても、ここで自分から仕留めに行かなければ、わずかな可能性すら失われてしまう。

 鉄男は迫りくる死の圧力に、めまいを覚えながら震える手でライフルの装填を行った。呼吸は百メートルを走り終えたように荒く、冷静であるはずの体はいう事をきかない。使い慣れたライフルのスライドすら満足にできない。

 ざざざと、小型の台風を思わせる獰猛な勢いが草木を押し倒す。

 その中心にいる山影が声をあげ、いままさに自分に牙をむこうといきり立っている。震える脚をバンバンと叩いて叱りつけ、鉄男は片足を立ててライフルを構えなおした。

 揺れる草木に銃口をむける。

 いつ樹木をかき分けて山影が飛び出すのか。

 全身が汗と雨に濡れ、ぐっしょりと重い。

 はやく、二発目、三発目と撃ち込み、少しでもダメージを与えておきたい。

 だが、山影はなかなか登ってこない。

 不審に思い、鉄男はスコープから顔をはずして斜面の下を覗き込んだ。

 すると意外なことに、揺れる草木はどんどんと鉄男から離れ、山を降りてゆくではないか。

 逃げたのか?

 そう認識した途端、鉄男は地面に顔をうずめて安堵した。恐怖から解放され、いままでとは違う震えが押し寄せた。

 濡れた地面が顔を汚し、泥まみれになりながら何度も息を吸い込む。

 助かった。

 滲んだ涙は、水滴と混じって流れ落ちた。

 あのまま山影が駆けあがって来ていたら、確実に殺られていた。

 虚脱して突っ伏した鉄男の心と体を、冷たい雨が冷やす。

 いつまでそうしていたであろうか、落ち着きを取り戻した鉄男は、顔をあげて何度も手でぬぐった。

 そして頬を叩くと再び立ちあがる。

 戦いが終わったわけではない。

 決着はどちらかが動かなくなるまで続く、制限時間なしの過酷な勝負である。

 山影が逃げるとは予想外であったが、その理由が知りたかった。

 単純に傷を負って、恐怖に駆られて戦いから逃げ出したとは思えない。上から狙撃されたために、地形的な不利を悟って移動したのかもしれない。

 熊は一度逃げたふりをして油断させ、とつぜん目の前に現れたりする狡猾さをもつ。

 考えられる話だ。

 どちらにしろ、鉄男は追わなくてはならない。

 一度外してしまったために、山影はより警戒してくるはずだ。

 となれば、先ほどみたく幸運に恵まれる確率も低くなり、さらに厳しい条件となる。だが、もう引き返すことはできない。

 長引けば、それだけ山影が有利になる。

 それこそ、本当に逃げてどこかへ姿を消すかもしれない。それだけは避けなくてはならず、鉄男は気を引き締めて追跡を再開した。

 一度喉を潤してから、雨で滑る斜面をゆっくりと降り始める。ついたばかりの足跡は、それほど苦労せず見付けることができた。

 傾斜が緩くなり、鉄男の足にかかる負担がやわらいだ。高低差を利用した地形の優劣がなくなるが、どのような条件であろうと一長一短である。運や環境ばかりに頼ってもいられない。実力で勝ち取るしかないのだ。

 雨のためか、それとも意図的なのか、離れていても生々しく漂っていた山影の気配が感じられない。完全に逃げたわけでないのなら、そう遠くへは行っていないはずである。

 いつ再び遭遇してもおかしくない。

 雨が強くなり、鉄男の条件は悪くなる一方である。それだけに、先の狙撃を失敗したことが悔やまれた。外した理由は山ほど考えられるが、いまは次の会敵時にどうやって仕留めるかを決める必要がある。

 やはり距離を取って、遠くから弾丸を撃ち込むのが確実だ。そのためには、再び居場所を突き止めなくてはならない。

 そう鉄男が考えていると、ふとある異変に気がついた。

 前方にそびえる大きな岩の前に、何かがある。

 そっと近づくと、それはエゾ鹿の死骸であった。

 片膝をついて確かめると、体が裂かれ引きずられた跡がある。血や傷口から見て、ついさっき殺されたものだ。

 山影以外に考えられないが、なぜここまで死骸を持ってきたのであろう。

 腹が減っていたのかもしれないが、食べたり血を飲んだ形跡もない。食料として保存するのであれば土に埋めるはずである。

 事故のように偶然、接触しただけなのであろうか。

 なにか、おかしい。

 はっとその意図に気がついたときは、すでに手遅れであった。

 膝をついた鉄男の後ろで、山全体が立ちあがったような巨大な影が出現したのである。

 そんな馬鹿な!

 山影は、鉄男が鹿の死骸を確認すると考え、岩場の前で止まらせて膝をつかせる罠を張ったのである。

 いくら狡猾さを持った熊といえど、人間を貶める罠を仕掛けるなど考えられない。しかし、現実に鉄男は見事にまで山影の策略にはまり、後ろを取られてしまったのである。

 鉄男は驚愕しつつも、山影の賢さに感動していた。

 やってくれたな、と鉄男は振りむき様に背負ったライフルに手をかけた。

 だが、長いライフルはこの至近距離では不向きであり、いまから肩から降ろして手に構えるなど到底間にあわない。

 覆いかぶさる山影の巨体は、その名の通り鉄男の周りに黒い影を落としていた。

 頬から流れる血が怒りとなり、無数の牙を見せる真っ赤な口より吐きだされた。怒りの双眸は黒い殺気に燃え、轟く咆哮は山を震わせる。

 仁王立ちに高く掲げられた爪は、神の怒りとして鉄男に振り降ろされた。

 山影と鉄男。

 魂の叫びが重なった。

 丸太を思わせる強靭な腕が、山影みずからの超重量を乗せて唸りをあげる。

 鉄男は、最後の最後まで戦うつもりであった。

 おまえの爪がおれの首をふき飛ばすまで、負けを認めるものか!

 そう決めて鉄男は目を見開き、山影を睨みつけた。

「うおおおお!」

 時が止まった。

 どさっ、と体に響く低い音がした。

 山影の腕が地面に転がっていた。

 肩から切断され、爪をうえにむけたまま、ひくひくと痙攣する。

 噴きあがった激情を一瞬で凍結させ、ふたりは見つめあい、山に流れる現実から取り残されてしまったようである。

 実際には一秒にも満たない、まばたきほどの時である。

 その痛みが脳へ届き、山影が生命の叫びを吐きだそうとした。

 けれども、悲鳴はその体に起きた異変によって聞くことができなかった。

 ずるり、とただ乗せられていた置物のように、山影の頭部が滑り落ちたのである。

 濡れた地面に転がった音は、鉄男がいままで聞いたことのない残酷なものであった。

 残された肩口からは鮮血が噴きだし、粘度のある雨となって鉄男に降りそそぐ。

 首を失った山影は、その巨体を静かに沈めて両膝をつき、地響きを立てて横たわった。

 血のカーテンから姿を現したものは、鉄男の人生、運命、赤木家の歴史、山の神、自然の摂理、そのすべてを否定する異質の存在であった。

 猟師としての誇り、受け継がれてきた血の歴史。その魂。

 熊たちとの戦い。

 山の恩恵。

 その者は、これら人の持つ理を無情にも破壊し、すべてを斬り捨ててしまったのである。

 首を失って倒れた山影ごしに、鉄男は突然あらわれたその者と対面していた。

 長いマントを羽織い、頭からつま先まで全身を黒い鎧で覆っていた。いや、鎧のように見えるが、そんな中世の騎士のような子供だまし的な安っぽい物ではない。

 鉄でもセラミックでもなく、人工物ですらない。

 そう、それは生命体であり、まとっている主人と一体化しているのである。

 言うなれば、何重層にも囲まれた皮膚である。

 人智を越えた進化の果てに、超高度な文明技術によって生み出された、生命と科学が融合した存在であった。

 また、ロボットや、サイボーグと言った無機質なものでもない。なぜなら、鉄男は鎧の者から山影などとは比べ物にならない、強烈な命を感じていたからである。

 その命から放たれる闘志は、山の精力を吸収して燃焼されているような熱量であった。

 殺気ではなく闘志である。

 生命の闘志。

 生き残るための戦いである。

 その純然たる想いのために、鎧の者はこの山の歴史を踏み潰したのである。

 雨の夕暮れは暗く、あたりは重たい影が支配しつつあった。

 突然現れた異質の存在に、山が拒絶反応を起こしたのか、ざわざわと強い風が吹き始める。いや、この鎧の者がもつ人ならざる力が呼び寄せたのか、嵐のような雨風があたりを包み込んだ。

 山が侵入者を否定し、侵入者も山を否定した。打ち消しあう圧力が摩擦を生み、相容れない力が鎧にまとわりついて陽炎のように黒くゆらめいている。

 雨に濡れた仮面は表情がなく、ただその体から放たれる圧倒的な存在感が風に舞って鉄男の頬を叩く。

 手にした剣は、ゆら、ゆらと呼吸しているように、不気味な赤い輝きを放っている。

 まとっている鎧と同じく、その剣にも生命の息吹が感じられた。山影の魂と一緒に吸い取られたのか、刃には一滴の血もついていない。

 鉄男には、その剣がさらに血を求めて舌なめずりをしているかに見えた。

 その剣で、山影を殺したのか。

 鉄男は、すっと心が冷たくなると同時に、猛烈な怒りが沸いてきた。

 殺したのか。

 いとも簡単に。

 なぜだ。

 なにの目的で。

 なにが理由で。

 なにの権利があって。

 すべてが、あらゆるものが鉄男を否定した。

 これは冒涜である。

 神聖なる狩りへの冒涜だ。

 山への冒涜だ。

 おまえが何者かは知らない。

 だが、ひとつ確かなことは、おれはお前を許さない。

 絶対にだ。

 おまえが来なければ、おれは山影に殺されていたであろう。それが猟師としての運命であるのなら、魂をかけて戦った結果なのであるのなら、潔く受け入れる。

 それが自然の摂理だからだ。

 それを、おまえは勝手に踏みにじった。山影の魂を、おれの魂を。

 かつて、これほどの屈辱があったであろうか。

 これほどの怒りがあったであろうか。

 鉄男は吠えた。

 山影が憑り移ったように。

「うおおおおお!」

 何度も、何度も吠えた。

 怒りが鉄男を野性に、獣へと帰化させた。

 立ちあがり、ライフルを手に吠えた。

 すべてを冒涜した鎧の者に、山の魂を集めて心から怒りをあらわした。

 だが、鎧の者は剣を手にしたまま動かない。

 怒り狂う鉄男をまえに、ただ無感情に見つめ返している。世の理から逸脱した存在であるならば、鉄男の憤りも理解できないのであろう。

 そもそも、人間を対等の存在とすら見ていないのかもしれない。

 であるなら、おれがどれほど激怒しているかを教えてやる。人間を、自然を馬鹿にした、その思いあがった鼻っ柱をへし追ってやる。

 そう鉄男が思ったとき、鎧の者はおもむろにマントの内側から銃を取りだした。

 見たこともない形だが、銃口があるそれが何であるかは一目瞭然であった。鎧の者はためらいなく鉄男に銃口をむけた。

 だが、鉄男は咄嗟に顔を覆った腕から見返すと、鎧の者は無造作に銃を捨て、静かに持っていた剣先をあげたのである。

 ちくしょう。

 馬鹿にしやがって。

 馬鹿にしやがって。

 馬鹿にしやがって。

 今度はその剣でおれを斬りつけるつもりか。山影と同じように、おれの首を狙うのか。

 望むところだ。

 許さない。

 許さない。

 お前を許さない。

 勝負の途中で理不尽に殺された山影の恨みを、おれが晴らしてやる。おまえが誰であろうと知ったことか、山を汚す奴はおれが討ち取ってやる。

「うおおおおお!」

 鉄男は再び吠えて、ライフルを構えるとトリガーを引いた。

「おれは、熊撃ちの猟師だ!」

 銃声。

 赤い光がきらめいたかと思うと、鉄男は闇に包まれた。

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