第2話 紫苑
春日
「ちょっと、気をつけなさいよ」
「百合子さま、大丈夫ですか?」
尻もちをつき、両手に抱えていたプリントをばら撒いた紫苑に、亜美と優子が非難の声をあげたのである。
だが、紫苑とぶつかった百合子は無言で、冷ややかな視線をむけていた。その瞳は青い炎をゆらめかせ、はっと怯えた紫苑を燃やし尽くさんばかりの憎悪が込められていた。
百合子は落としてしまった端末を拾おうともせず、無表情なまま殺気に近いものをまとわせて紫苑を見おろしている。
それは意図的にではなく、百合子自身が沸きあがった憎悪の大きさに戸惑っている様子にも思える。
けれども、百合子の心情がわからぬ者からすれば、怒りのあまり言葉を失っているように見えるであろう。
もっとも、紫苑に対して激しい憎しみを抱いていることには変わりない。
一方、紫苑といえば廊下に手をついたまま、全身を貫かれる負の感情に胸を締めつけられていた。
必死に呼吸を整えようとするが、次々と胸に突き立てられる氷のナイフに自分を保つだけで精一杯であった。
望む望まないにかかわらず、紫苑のなかに他人の様々な感情が流れ込んでくる。そのほとんどは悪意であったり、憎しみであったり、怒りであったりする。
許可なく紫苑のなかに入り込む他人の黒い感情は、彼女の心を執拗に傷つける。
お尻を打った紫苑に、さらに乱暴な声が投げつけられた。
「百合子さまのスマホに傷がついたじゃない。機種変したばかりなのよ」
百合子の携帯端末を拾いあげた亜美は、ハンカチを取りだしてぬぐう。まるで百合子が傷ついたようにいたわり、そっとハンカチで包み込込んだ。
百合子が返却を必要とする意思を見せるまで、大切に預かるつもりである。
「百合子さま、お怪我はありませんか?」
ぶつかった腕を無言で押さえている百合子に、優子が気遣わしげに声をかけた。
腕を押さえているのは痛みではなく嫌悪からなのであるが、それを優子が知る由もない。
「いったいどこを見ているのよ」
「あなた百合子さまにぶつかっておいて、なにも言わないつもり?」
頭上から、三人の視線がむけられる。
そのどれもが、冷たく紫苑の心を蝕んでゆく。
紫苑は、一秒でも早くこの苦痛から逃れたい。どちらが、誰が、なにが悪いのか。そんなことはどうでも良かった。謝って済まされるのであれば、紫苑は解放されるためにどんな不条理でも受け入れた。
それが必要以上に傷を広げないために、彼女が学んだ身を守る術だからである。
だが、紫苑は要求される形で謝ることができない。
紫苑はつまんだ指を額にあて、手を開いて空を切った。
〝ごめんなさい〟
「はあ? なにしてるの」
〝ごめんなさい〟
そう伝える紫苑の手は、白く小さい。
力のない手の動きからは、意志を伝えることの諦めが混じっていた。
「なにを言ってるのか、ぜんぜんわからないわ」
「ちゃんと、わたしたちに理解できる形にしてくださらない?」
紫苑を見おろす亜美と優子は、若々しい肉体からぎらぎらとした残酷さが開花している。
「言葉でないと伝わらなくってよ」
「百合子さまに失礼だわ」
曲がり角で紫苑は避けようとしたのだが、亜美と優子を見ていた百合子は気がつかなかったのである。
〝わたしは〟
「なあに? 金魚みたいにぱくぱくして」
くくっと、亜美と優子は顔を近づけて笑いあう。お互いの瞳に映ったものは、野性的で残酷な感情。
「口がきけないのなら、どうしようもないわね」
「日本には美しい謝罪の仕方があるのをご存じ?」
亜美と優子。
ふたりはまるで、打ち合わせをしたかのように息がぴったりである。
学校と言う閉鎖された環境が生み出すカースト制度によって、猫は動けない獲物をなぶり続ける。
その悪意なき若さは罪なのか。
獲物が痛がれば痛がるほど、残酷な炎は喜々として燃えあがる。火傷を最小限に抑えるには、すべてを遮断して要求を受け入れるしかないのである。
光をなくした瞳は廊下のはるか下にむけられ、両膝を揃えると、紫苑は手のひらを廊下にあてた。
そのとき、ただ冷ややかな視線を投げつけるだけであった百合子が進みでた。
なにのためらいもなく、廊下についた紫苑の手を踏みつけたのである。
「!」
ひゅっと喉を鳴らした紫苑であるが、その口から悲鳴があがることはない。
痛みに手を引き抜こうとするのだが、百合子が全体重をのせているため、手を床に貫かれているように動かない。
そればかりか、つま先をあげて踵で紫苑の指を潰さんと踏みにじり始めたのである。
紫苑は身をよじり、片手を添えて抜こうとするも痛みのあまり力も入らない。
ただ声なき悲鳴をあげ、背中を丸めて苦痛に耐え続けていた。
始めはからかいの気持ちがあった亜美と優子であるが、本気で指を潰そうとする百合子の鬼気迫る様に顔を青ざめさせていた。
「ゆ、百合子さま」
その声も聞えているのか無視しているのか、百合子は瞳から苛烈な憎しみの光を放つ以外はまったく表情がなかった。
初夏の緑はゆれ、木々をきらめかせる光が窓から射しこんでいる。
その陽光を背に受けて百合子の髪はつややかに浮かびあがり、すべての者を従わせる美しさで輝いている。それだけに、表情のない彫刻のような美麗さがより足元の残虐さを引き立たせていた。
百合子の放つ冷たい殺気が、踏まれる紫苑の手を通して床を凍らせる。
気がつけば廊下の端には、騒ぎに気がついた生徒たちが遠巻きに身を寄せあっていた。
誰もが息を飲んで、その場を動けずにいる。
静まり返った廊下には、紫苑の悲鳴にならぬ喉を鳴らす音だけが響いている。
陰惨な空気が漂い、永遠に続くかと思われた残酷な私刑は、校内放送という強引な形で終息した。
〝黒木百合子さま。至急、生徒会室までお越しください〟
しばし動かずにいた百合子であったが、唇に初めてぎりっと表情らしいものを浮かべると、ゆっくり足をあげた。
解放された紫苑は、引いた手をお腹に抱えて背を丸くうずくまる。
「行きましょう。とんだ時間の無駄をしてしまいました」
冷たい百合子の瞳が、うららかな季節のいろどりを打ち消すように優子と亜美にむけられた。
「そ、そうですわね。百合子さのお時間を取らせてはいけませんわ」
「百合子さまが、そう仰るのなら」
ふたりの加虐的な笑みはなりを潜め、いまは暴虐な姫に仕える女中のような強張った表情を浮かべていた。
百合子の差し出した手に、亜美がそっと端末を渡す。その流れはとても自然で、彼女たちの置かれている序列をあらわしていた。
当然のように受け取った百合子は、横顔に無言の怒りをにじませている。
「参りましょう」
光に包まれた美しい姿とは裏腹に、陽光すら凍りつかす瞳に亜美と優子はあわてて百合子の後を追う。
百合子はもう視線をむけていないにもかかわらず、肌が切れそうな殺気は容赦なく紫苑を突き刺してくる。一方的な憎悪が氷の刃となって、全身を内側から切り刻まれる気分であった。
仕草、美しい立ち姿、どれをとっても洗練されている百合子ではあったが、彼女を包む黒く冷たいものだけは隠し切れずにいた。
亜美と優子を引き連れ、百合子は無言のまま歩き去ってゆく。
恐々と見守っていた生徒たちは、さっと百合子のまえを開けた。彼女が通りすぎたあとには、黒い残滓が長い尾をひいて漂っていた。
ひとり残された紫苑は、爪が割れて血がにじんだ指をいつまでもお腹で守り続けていた。
廊下に人の流れが戻ると、騒ぎを知らない生徒たちが紫苑の横を通り過ぎて行く。
「なにかしら、あれ」
散らばったプリントのなかでうずくまる紫苑は、生徒たちから嘲笑と蔑みの目にさらされる。
「また、あの子よ」
「このあいだ言っていた、百合子さまの」
「ああ」
新しい校舎は広く、白く磨きあげられた廊下は六月の陽気を反射した。
窓からは部活動の声が流れこみ、清涼な風が紫苑の髪と制服のリボンをゆらす。
やわらかな午後であっても、彼女の心は青く深海のように冷たく濁っていた。
半袖からのびた、紫苑のほそい腕は震えている。紫苑は両手を胸にあて、呼吸を整える。
母親から教わった、気持ちを落ちつかせる魔法であった。深呼吸をして「だいじょうぶ。ママが守ってくれる」と三回となえるのだ。
子供のおまじないだが、いまの紫苑を守る大切な儀式であった。
落ち着きを取りもどすと、ゆっくり目を開いた。
もう、だいじょうぶ。
もう、怖くない。
もう、聞こえない。
最後に、一度だけ大きく深呼吸をすると、紫苑は散らばったプリントを拾いはじめた。
まわりの視線や声も気にならない。
わたしの大切なものは、誰も傷つけられないし、誰も壊せない。
そして、誰も奪うことはできない。
小さな、小さな、形のないそれは、紫苑の心の光であり自分を守るための鎧でもあった。
「あら、ごめんなさい」
紫苑の横を通りすぎた集団が、落ちていたプリントの束を蹴飛ばした。
それは階段をすべり、階下へと舞った。
「やだ、意地悪なことをして」
「わざとではありませんわ」
「そんなことより」
女生徒たちは振り返ることもせず、おしゃべりに夢中であった。
だいじょうぶ。
なにも、見えない。
なにも、聞えない。
なにも、感じない。
床は消えてなくなり、暗闇にスポットライトが落ちたような、ただ白い陽だまりだけが広がっている。床も、壁も、天井も、すべての境界線が溶けてまざりあう。
通り過ぎる生徒たちも、陽炎のようにぼんやりと遠くへとにじむ。
「聞こえているのかしら」
「さあ。いつも焦点があっていなくて、気持ち悪いですわね」
耳が痛いほどの静寂に、紫苑は胸からこぼれる光の粉を拾い集めていた。
母からもらった大切なものを、ひと粒ずつ。
ゆっくりと、丁寧に確かめながら。
これは、夜が怖くてママと一緒に眠ってもらったときの光。
それは、小学生のころ、ピアノで賞をもらったときに喜んでくれた光。
あれは、パパとママに抱きしめてもらったときの光。
それらの小さな光の粒は、容赦なく紫苑をえぐる刃から彼女を守っていた。
刺されるときは、いつも突然である。後ろから口を押えられ、喉をかき切られ、胸に突き立てられる。
そのたびに紫苑を守る光は盾となり、鎧となる。彼女の身代わりとなった光は、傷ついて飛び散るのであった。
自分を守ってくれている想い出は、淡くて小さい。しっかりと抱きしめていないと、すぐに消えてなくなってしまう。
だからこそ、ひとつひとつを大事に仕舞わなくてはならない。
このはかない光の繭の外側には、とても受け止めきれない未来がうごめいている。
その小さな背中に、太陽は気遣わしそうに降りそそぎ、抱える手は彼女自身の影に包まれていた。
紫苑は、まぶしすぎる世界にひとり耐え続けていた。
○
地元の駅に着くと、日が傾き始めていた。
改札をぬけると紫苑は家とは逆の方向へと歩きだす。
彼女が生まれたときには、すでにリニア鉄道が開通しており長距離を短時間で移動できるようになっていた。
そのさいに再開発が行われ、駅と直結した大きなショッピングモールが建てられた。
それ以外は昔ながらの静かな街である。
少子化のために街の人口も減り、駅から離れると店もなく自然が残った海沿いの広い田舎道が続いている。
車通りも少ない道を歩きながら、紫苑は左手にある森に囲まれた小高い丘に視線をはせた。
樹木のなかにある白い建物が、傾いた太陽によってかすかな朱色に浮かんでいる。紫苑は丘へと続く道へ誘われると、たくさんのイチョウが彼女を迎えいれた。
森のなかを続く遊歩道を登りきると、そこには白い木造建ての校舎があった。
昨年まで紫苑が通っていた学校である。
校舎の老朽化と、生徒数の減少により廃校となったのである。
紫苑はこの木造の学校が好きだった。
森に守られた校舎、校庭、大きなイチョウが植えられた中庭。そのどれもが時間の流れからこぼれ落ち、いまも静かに当時のままの光景を残していた。
下界から切り離されたこの場所は、海から吹く風に樹木がゆれ、校舎に近づく彼女を優しく包みこんでいる。
ここは誰にも邪魔されない、紫苑の聖域であった。
木々のささやきに芝を踏む音しか聞こえない。
中庭をぬけて校舎へあがると、紫苑は廊下の奥にある音楽室へむかう。
そこには、長い時を様々な想いをのせて奏でたであろう、漆黒のピアノが夕日を反射していた。
観客はいないが、ピアノのまえに座ると紫苑は胸に手をあてる。
裸足に、ペダルの冷たさが心地よい。
一呼吸あけて、ピンクの絆創膏をまいた指が鍵盤をすべりはじめた。小さな手は、紫苑の想いをのせて白と黒のあいだを駆けぬける。
中庭のイチョウがゆれ、夕日をあびた紫苑の髪、肩、鍵盤でおどる指が金色の粉をはなつ。
〝そうよ、紫苑。心の声を聞けば、自然と音が流れでるのよ〟
解放された心は、音色とともに吹き込む風に舞って音楽室に広がった。ちりちりと光る粒が茜色の想い出をのせて共鳴する。
母が過ごした学校。母が弾いたピアノ。
この世界で、紫苑が母親を感じることのできる、たったひとつの場所。
大切な絆。
母が感じた喜び、母が奏でた音色、母が紡いだ心。
もとめ、心をむければ、光のなかで混ざりあい、体温を感じるほどに記憶が鮮やかによみがえる。
ここに残された母の姿を少しでも、一秒でも多く集めようと紫苑は夢のなかへと溶けてゆく。
木の香り、ぬくもり。
下駄箱。
編入させられる頃には、全員の靴と場所を覚えられるほどの数しかなかったが、空白になってしまった場所にはたくさんの想い出がつまっていた。
掲示板には手書きの広告物。
おしらせ、イラスト、折り紙、学級新聞。
誰の絵で、誰の記事か。
そのどれもが、血の通ったぬくもりにあふれていた。
軽やかな扉は、いつも自分にむけて開かれて音をならす。
その手ざわり。
日差しは教室に影をつくり、制服を白くかがやかせた。
階段の手すりは生徒たちに磨かれ、どんな工芸品より滑らかだった。
秋になれば、窓からは金色に染まったイチョウがゆらぎ、そっと押しかえしてくる廊下に落ちた黄金の葉。
汗も涙も、喜びも悲しみも、なにも言わずに受けとめて寄りそう風は、生徒たちの産毛のようにやわらかい。
白いコンクリートとは違い、木造のうす暗い校内にもかかわらず、おしゃべりも、笑い声も、友達を呼ぶ声も、静かに包んで秘密にしてくれる。
この校舎には、そんなやさしさがあった。
学校内に刻みこまれた様々な感情が、その体を通して指先からよみがえる。
瞳を閉じ、薄紅色の唇からは、かすかに白い歯がのぞいていた。
夢うつつに微笑む紫苑は、いま自分が座っている椅子に、このピアノを弾いている母親の姿と重なりあっていた。
〝ママ〟
○
「紫苑ちゃん。ずいぶん遅かったじゃないの」
泉の声は心配すると言うよりも、詰問であった。
「どこにいっていたの? どこかに寄ったりするときは、必ず連絡してちょうだいって何度も言っているじゃない」
玄関の壁に手をついて、紫苑が答えるまでは家にあげるのを許さない体である。
背が高めであるため、照明の逆光により顔に影が落ちる。美しい顔立ちをしてはいるが、目はあからさまな苛立ちを含んでいた。
「聞いているの? 紫苑ちゃんになにかあったら勇樹さん、パパにわたしが怒られてしまうの。わかるでしょう?」
手をおろすと、答えない紫苑の肩をつかむ。
「べつに遊びに行ったりするのは構わないわ。ただ、どこにいるのかは、ちゃんと知らせてほしいの。うるさいと思うかもしれないけど、それは厳しくパパからお願いされているの」
〝学級委員の仕事があったから遅くなりました〟
うつむいたまま、紫苑は泉と顔をあわせようとはしない。
「こんなに遅くまで? なにをそんなにすることがあるの。紫苑ちゃんだけなの? ほかに手伝ってくれるお友達はいないの?」
〝みんなのプリントをバラバラにしてしまったので、やりなおすのに時間がかかりました〟
力なく伝える手が、余計に泉を苛立たせる。
泉は自分で手話をすることはないが、紫苑と会話できるほどには勉強していた。
「それなら遅くなるって連絡くらいしてちょうだい。話せなくても携帯で」
失言に気がつき、さすがに言葉を切った。
泉は大きなため息をついた。
なにを言っても聞いても、まるで感情のこもらない人形のような反応に耐えられないのである。
紫苑の閉ざされた心を突きつけられると、その底なしの沼に自分も飲みこまれそうな不安に襲われるのだ。
こんなはずではなかった、と泉は毎日のように後悔の念にさいなまれている。
泉はまだ若く、勇樹と結婚できる嬉しさだけで舞いあがっていた。
子供は好きであったし、もちろん紫苑と仲良くなれるとも思っていた。中学生と言う気難しい年齢にくわえ、彼女のトラウマによる障害のことも、勇樹からは聞かされ理解はしていたつもりである。
時間はかかるかもしれないが、一緒に暮らして心を通わせれば、と泉は明るい未来を想像していた。
だが、ふたを開けてみれば勇樹はほとんど家に帰らず、紫苑は一切の干渉を拒む。
毎日、家のなかでもの言わぬ不気味な人形とふたりきり。いや、人形のほうがましと思っていた。
学校がない日は部屋に閉じこもり、ピアノを弾く紫苑の気配が、家のなかに黒い陰鬱として染みてくるのである。
その音色は世界を呪うようにべっとりと絡みつき、空気までを冷たくさせた。
音符のひとつひとつに否定と怒り、憎しみが込められ流れでる旋律は泉を苦しめた。なにをしていても、自分を腐らせる胞子がちらちらと意識のなかに湧きでるのである。
思い描いた結婚生活は、氷の妖気ををまきちらす不気味な存在と一緒に幽閉される有様であった。
夫である勇樹のことは愛している。
では紫苑のことはと言えば、彼女自身もよくわからずにいる。
憎んではいない。
そもそも意志の疎通を一方的に否定されているので、理解を深めることもできない。
か弱い子供にあたってしまう自分にも腹が立つ。自分はいつから、こんなに嫌な人間になってしまったのであろう。
もちろん、この一年半のあいだ泉は紫苑の心を懸命に開こうと努力はした。
言葉を交わすために手話も覚えた。
紫苑が好きな料理も学んだ。
クラシックのことは良くわからなかったが、紫苑が好きで弾いているショパンとバッハのことも勉強した。
傷つき、苦しんでいる少女の心を開かせるために、あらゆることをした。
自分が中学生だったとき、友達とケンカしたときの仲直りの仕方。ずっと苦手だった子と親密になれたきっかけ。大学の実習で子供とふれあい、たくさんの手紙をもらったこと。
いままで他人と心を通わすために学んだ、自分の持っているすべてをぶつけてみた。
しかし、そのどれもが徒労に終わってしまった。心を開くどころか、紫苑の心をノックすらさせてもらえない。
目の前に立っていても、話しかけても、その体にふれていても、紫苑は遠いこの世界には存在しない過去のぬくもりを探しているのである。
みずからの存在をすべて否定され、泉は傷ついた。
いや、ふたりの気持ちとは無関係に、すれ違うたびにお互いを傷つけあっていた。
姉妹のように、仲の良い母娘になれればと抱いた夢は叶わなかったのである。
なにが原因か。
ふたりはもう、どうすることもできないほど複雑に絡みあい、もがけばもがくほど、自分たちを締めあげる糸をよけいに食い込ませてしまう。
「あなた、いつまでそうしているつもり? 一生そのままでいいの?」
泉は膝をつき、強引に紫苑を振りむかせると顔を近づけた。
「いつまでも、夢のなかに閉じこもってはいられないのよ。このさきも、ずっとそんな不自由な生き方をするつもりなの?」
これは大人の理屈だ。
それは泉もわかっている。
だが、こんな子供が世を儚み、光をさけ、呼吸をするだけで傷つき苦しむ姿を見ていられないのである。
そんな紫苑の心がもどかしくもあり、また自分の存在を否定し続ける瞳に、耐えがたい怒りも覚えてしまうのである。
「そうやってすべてを否定して、自分も他人も傷つけていたら、いつかあなたの心は壊れてしまうわ」
これ以上、言ってはいけない。
相手はまだ子供なのだ。
大人にだってつらい現実を、年端もいかぬ少女が受け入れられるはずもない。
しかし、遅かれ早かれ、いつかは自分だけで歩き出さなくてはならない時が来る。
では、それはいつなのか。
年齢をかさね、大人になればなるほど人は身動きが取れなくなる。
少しずつ傷は広がり、深くなり、硬くなり心が石へと変わってゆく。すべてが石化したとき、取り返しがつかなくなってからでは遅いのである。
未来ある子供を導くのは大人の役目である。
けれども、泉にはその方法がわからなかった。
ただ一つ確かなことは、この闇から抜けだすには紫苑が母親の死を受け入れなくてはならない、と言う事である。
「ねえ、紫苑ちゃん」
いけない。
頭ではわかっていても、泉の感情がそれを抑えることができなかった。
「もうどうやったって、あなたのお母さんは帰ってこないのよ!」
能面のように表情がなかった紫苑が、その細い眉をあげて感情をあらわした。
誰であろうと、許さない。
何者をも恐れない純粋な怒りが、紫苑の小さな体からあふれだす。
その青味がかった瞳は暗くぬれて冷え切っているのに、泉の肌を焼くように激しい激情の色を湛えていた。
乱暴に手をほどき、紫苑は叫んだ。
声は出ずとも、全身から世界を呪うような否定の意志が泉を襲う。
なんと残酷な姿であろうか。
傷ついた子供がこんなにも絶望し、心を閉ざし未来を抗う。放たれる怒りは忌むべき過去を引きずりだし、その手で握りつぶさんと終わりの見えない闇へとむけられていた。
爆発した紫苑の感情に、泉は腰をついた。
紫苑は怒り、泉は怯え、ふたりとも微動だにしない。凍てついた沈黙に、下駄箱のうえに置かれた時計の音だけが流れていた。
どれだけのあいだ、ふたりは無言でむきあっていたであろうか。
ほんの数秒のはずであったが、泉には息苦しさにめまいを覚えるほどの時間に感じていた。
だが、すぐに紫苑が視線をはずし、その瞳に込められていた光が消えて色をなくした。
「し…」
泉がなにかを言いかける前に、紫苑は二階の自室へとかけていった。
「紫苑ちゃん!」
照明はあかるく、新築であるにもかかわらず、玄関や廊下には体が引きずられるほどの暗い影が落ちている。
残された泉は、紫苑に弾かれた腕に鉄のような重い痛みが残っていた。
「ああ…」
壁に体をあずけ、両手で顔をふせた。
○
「ママ、ママ」
ピアノのコンクールから帰ってきた紫苑が、とんとんと軽やかに階段をあがってきた。
足音からご機嫌なのがうかがえる。
「ママ、ママ、入賞したのよ!」
賞状を手に紫苑が顔をのぞかせると、母・春日陽子は寝室で身を起していた。
いや、紫苑が帰ってきたので、ふすまを開ける前に起きあがったのである。
「お家に帰ってきたら、ただいま、よ」
はっとして、紫苑は小声で「ただいま」と賞状で口元をかくした。
「おかえりなさい。良かったわね、すごいわ」
陽子は笑うと「いらっしゃい」と自分の横に手をおいた。
紫苑は駆け寄るとベッドのうえにあがり、じゃれつくように陽子の布団にもぐりこむ。
「あのね、一位とか、二位とかじゃないけど、入賞できたのよ!」
「えらいわ紫苑。いっぱい練習したものね」
そっと抱き寄せた紫苑から、陽だまりが香る。
やさしく髪をなでる陽子の手はほそく、艶のない爪をしていた。
「でもね、審査員の先生ったら譜面通りに弾こうね、なんて言うのよ。わたしちゃんと弾いてるのに、失礼しちゃうわ。あ、でもひとりだけ、わたしの演奏をとても褒めてくれたお兄さんがいたわ」
紫苑を見つめる陽子の視線はあたたかい。
だが、それと同時に、娘の未来を案ずる瞳は、春の日差しに憂いをまとって影を落としている。
「紫苑は、どんな気持ちでこの曲を弾いたの?」
陽子は娘を抱きかかえるように、肩から腕をまわして楽譜を開いた。
「船の曲なんでしょ? だから、ママに抱っこしてもらっている時みたいに、ゆらゆらって」
得意気に、紫苑は楽譜のうえに指を走らせた。
母に体を預け、ぬくもりは見えない鍵盤を通して音となった。無垢な気持ちは音符を踊らせて、音色とともに宙へたゆたう。
紫苑の奏でる音はまっすぐで、聴く者の胸を痛ませるほどに純粋であった。
「きっと、ショパンさんがイメージしたよりも、紫苑がロマンチックに弾きすぎたのね」
「えーどうして? ロマンチックな曲なんだから、ロマンチックに弾かなきゃ」
「そうね」と陽子は紫苑の頭に頬をよせると、「紫苑があまりにロマンチックに弾いたから、先生がてれちゃったのかしら」と笑った。
「先生が? やだあ、あんなプロレスラーみたいで眉毛なくて怖い顔してるのに」
ふたりして笑いあうと、陽子は「でも、男の人って、わたしたち女よりずっとロマンチストなのよ」と髪をなでた。
紫苑はまた「えー」と信じられないようだったが、ふと顔をあげて陽子を見あげた。
「それなら、パパも?」
「ええ。恥ずかしがり屋さんだけど、とってもロマンチストよ」
洋子は「とっても」を強調すると、紫苑が腕のなかで体をゆらす。
「どんなふうに? パパ、どんなふうにロマンチックなの?」
「それは、紫苑が結婚するときに教えてあげる」
「ずるいずるい、教えて」
やわらかな午後の陽だまり。
遠い記憶。
暗転。
燃えていた。
無常の風にあおられた炎が荒れ狂い、夜の静寂を恐怖に染めあげる。
「ママ! ママ!」
紫苑が廊下に飛び出したとき、すでに天井にまで火の手がまわっていた。
全身を殴りつける熱風に、舞い散る火の粉。
炎は紫苑の視界をうめて、ごうごうと怒りの叫びをまき散らす。
「ママ!」
夢中で部屋に飛び込むと、陽子はベッドから落ちて床に倒れていた。
「ママ、火事なの? なんで燃えてるの? はやく逃げなきゃ! ねえ、ママ!」
駆け寄った紫苑の腕を、咳こむ陽子がいままでにない力で引きよせた。
「紫苑、聞いて。もうすぐパパが来てくれるから、外に行って連れてきてちょうだい」
「パパが? ほんとに?」
「いま連絡がきたの。もうすぐ家の前だって。ママ、ひとりでは歩けないから、パパを呼んできて。紫苑、お願い!」
そのあいだにも煙が充満し、部屋のなかにまで炎が入り始めていた。
「パパが、外にいるの? ほんとに?」
陽子はいつものように、おだやかな笑顔をうかべて紫苑を押しかえした。
「紫苑、大好きよ。いつも嬉しそうにピアノを弾くあなたを見るのが、なによりの楽しみだった」
「ママ?」
「はやくいきなさい! パパを呼んできて!」
突然、見せたことのない陽子の激しい声色に、紫苑は慌てて立ちあがった。
「ママまってて。すぐパパをつれてくるから!」
炎をかいくぐり、紫苑は「パパ」と声の限りに叫びながら階段を駆けおりる。
「神様。どうかあの子の未来が、光に包まれた人生でありますように」
最後の別れを予感し、最愛なる娘の後ろ姿に陽子は祈った。
「あなた、紫苑をお願いします」
それは陽子の言葉であったか。
すでに心と言葉の境界がつかなくなっていた。
「ありがとう紫苑。あなたのやさしいピアノが、いつか誰かを」
大きな炸裂音がして、激しい振動とともに部屋のドアを破って炎が飛びこんだ。
陽子の姿が煙にまかれ、見えなくなる。
「パパ!」
裸足で表に飛びだした紫苑は、集まった人垣のなかから父親の姿をさがした。
「パパ、パパ!」
「紫苑ちゃん」
必死に叫ぶ紫苑を、近くの交番に努めている初老の警察官が抱きかかえた。
「パパは! ねえ、パパは!」
消防隊がけたたましく到着し、消火のために隊員たちが大声で駆けまわる。
「パパはどこ! はやくママを!」
「お父さんが、どこかにいるのかい?」
「家の前に来てるってママが。早くママを!」
警察官の腕のなかで、紫苑は必死に叫び、髪を振り乱す。
「紫苑!」
消防隊の後ろから、ジープを降りて駆け寄ってくる春日勇樹の姿があった。
「パパ!」
警察官の腕を振りほどき、紫苑は慌てて近づいた勇樹にしがみついた。
このとき、彼が紫苑の前に姿をあらわしたのは、まったくの偶然である。
近くを通りかかった際に、自分の家が火事であると知らせを受けて飛んできたのだ。
「助けてパパ! ママが死んじゃう! ママを助けて!」
のどが裂けるほどの金切声をあげて、紫苑はひたすら「ママ」と繰りかえす。
「陽子が、お母さんがまだ、なかにいるのか?」
紫苑をひきはがし、勢いを増して燃えあがる家のなかに飛びこもうとする勇樹を、消防隊員がとめた。
「危険です。おさがりください!」
「妻がまだなかにいるんだ!」
強引に燃え盛るなかへ飛び込もうとする勇樹の腕を、さきほどの警察官がひきとめる。
「陽子、まってろ!」
もみ合いとなり、数人がかりで勇樹を止める。
「離せ!」
「春日さん! ここは消防隊にまかせて、いまはお嬢さんを気遣ってあげてください!」
はっと振りかえると、紫苑は血がにじんだ裸足姿で、すすと涙に汚れた姿で慟哭をあげている。
「紫苑」
抱きしめると、紫苑はひたすら動物のような声をあげて泣き続けた。
「パパ、パパ、ママを助けて!」
まわりの人垣から、いっせいに悲鳴があがった。
炎に家が崩れたのである。
紫苑はひゅうっと喉をならして、眠りから叩き出された。
ベッドのなかで胎児のように膝を抱え、いやな汗で髪がはりついていた。
いまも生々しくよみがえる炎の光景。
何度、この悪夢を見たであろうか。
いつまで、この悪夢を見続けるのだろうか。
新しい家。
新しい家庭。
この生活が始まってから、どのくらいの年月が経ったであろう。
夜中に目を覚ますたび、冷たい天井が自分を拒絶して、世界中の孤独を背負わされた気持ちに絶望するのである。
息苦しさに窓をあけると、ひんやりとした風が汗ばんだ髪をなでた。
胸に手をあてると、紫苑は母親の瞬きがあるような気がして、星空に救いをもとめた。
そのとき、夜空に赤色の流星が尾をひいた。
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