03.Countdown.

 ゼンからの使いで犬は仕入れ屋のスキーターという男の店の扉を開けていた。

『あら、よぉドギーちゃん。いつでもそんなに睨むなよ。お座り、待て!』

 ぼさぼさの髪にキャップをかぶり、金具だらけのだぼついた洋服で猫背をハイエナのように震わせ笑う店主はディスプレイに囲まれたカウンターから愚鈍に身体を上げた。

 ガラクタの山からカード型のキーを取り出し確認しろ、と犬側のディスプレイに次のクリーク相手の情報と今回の仕入れ分リストを表示させた。

『はぁ糞面倒くさい。お前ん所軍正規ルート使えるからって、優等生すぎなんだよ仕入れが。いつの時代もお役所仕事は糞作る事と何も変わらねぇ。』

『その正規ルートを使って軍事機密持ち出してる事バラすぞ。』

『正規ルートは利率悪いのにこの価格で引き受けてる俺の身になれクソが。あんまりトチ狂った事ばっかり言ってると契約切るよ。』

『よかった。そうしてくれるとありがたい、ってゼンも言っていた。』

『あのクマが。いつか敷物にしてやるって言っとけ。』

調子の良い軽口と同じようにキーボードを叩き、差し込んでいたキーを引き抜いた。


 ―OTHER SIDE ― 03.Countdown.


『大半は明日にゃ届くからいつものようにするが、大型銃器だけ直接現場に持ってくからな。運賃付けといたぜ、ケチんなよ。』

『あぁ。伝えておく。』

 スキーターが身を乗り出しキーを手渡す。その瞬間、目を丸くしくんくんと鼻を鳴らすような仕草をした。

『あれ、お前何か臭ぇ。』

『…お前に、言われたくない。』

 いや違くて、とスキーターは更に身を乗り出し犬の胸倉を掴み上げ首元に顔を埋めるようにして鼻を鳴らした。

『あれ、これまずいんじゃねぇのリョウ。薬はせめて俺ん所から仕入れろよ。頭破裂しても知らねぇよ。』

『薬?』

『だから、ドラッグのにおいだそれ。そんなみょうちきりんな甘い匂い、ヴァイスじゃあるまいし。』

 スキーターの軽口に思わぬ名を聞いた犬の動きが止まった。犬の微かな変化を卑しい目付きで見出し、舌打ちしながらスキーターはキーボードを叩く。

『…こっからは別料金だ―――その臭いはたぶん禁断の木の実フリュイデファンデュ。身体機能向上加え、快楽と痛覚麻痺に良く効くソルジャー向けドラッグとして出来た薬だが、中毒性が高く投与ナシでは三カ月以上はロクに持たない、希少性の高いソリッドドラッグだ。そしてその愛用者がマフィアプラナドのナンバー2、通称“ヴァイス”―――鬼頭きとう 彼杜かのとだ。ま、一般人に仕えるような代物じゃねぇわな。』

 スキーターの言葉で憶測に過ぎなかった思案が確証に変わる。犬は示されたカードに考えるように、目を閉じた。

『アンタならこんなモノ使わなくても十分だと思ってたがな。流石にこのレベルの仕入れはちと厳しいが、よければ次回からはドラッグの仕入れについても、ウチを御贔屓に。』

 歯の間から笑い声を漏らしスキーターは笑い、これは賄賂、と紙袋を手渡した。中には麻酔弾が入っていた。

『何の対価だ。』

『そういう鼻が利く所好きだぜ。ずばり言う、』

 スキーターはカウンターから身を乗り出し、人差し指で犬を思いきり指しながら顔を寄せた。

『お前ん家に女がいるって本当か!!』

『…は』

『いやね、あの大熊から注文ついでに散々色々愚痴られたわけ、最近ムスコのリョウ君が冷たくてパピー泣いちゃうーって。過保護も度が過ぎると虐待って本当だな。』

 犬は特に反応を見せない、という事はとスキーターは面白そうにニヤニヤと下卑た顔でカウンターに身体を乗り上げさらに犬に顔を近づけた。

『で、何なのそのキティちゃん。詳しく聞かせろ。』

『別に。拾った。』

『あぁ?なんっだよ、本当に猫かよクソが!』

『いや、本人がそう言ってる。』

『…は?…お前変な病気だけは貰うなよ。』

『何だそれ。』

 スキーターはカウンターの上で仰け反り上げ下品な笑い声で手を叩いた。

『まぁでもお前に女が出来ただけで、俺もう涙と鼻水出そうだなァ。あのお犬様がねぇ。何だ、やる事やってんじゃねぇかちゃんと!』

 言葉に合わせスキーターはカウンターの上で一回転をした。無雑作に置かれた紙や小物がガチャガチャと床へ落ちる。

『…いや、女じゃない。』

『は?』

 動きを止めたスキーターはまじまじと犬を見て、一度明後日の方向を眺め、もう一度犬を確認するように眺めた。

『…お前、変な病気だけは貰うなよ。』

『何だそれ。』

 犬は要領を得ないやり取りにもういいか、と短く告げ紙袋を手に店を出た。

『これ、知ったらあの熊のおっさんは、泣くな。』

 スキーターは黙って落ちた紙や小物を拾い上げた。




 仕事終わりの硝煙の匂いに少し鼻を鳴らし、犬はゼンに続き事務所へと入った。

『嘉縫の野郎、無茶しやがって…やっぱりプラナド相手のクリークは骨が折れるな。』

 ゼンは豪快に腕を回しながら銃器と自分の体をソファーへ投げ出した。

『ゼンさん、歳取ったんじゃ無いですか?』

 クスクスと笑いながらリサがゼンの横に座る。

『あ、リョウ君は何食べたいですか?』

 タオルを片手に奥の部屋へ戻ろうとする犬をリサが呼び止めた。

『今日は帰るから』

『ん?夜戦の後は大体泊まっていくだろう。』

 ゼンはビールを取り出しながら不思議そうに振り返った。

『家に、置いて来てる奴がいる。』

 その言葉に二人の動きがぴたりと止まる。

『リョウ、お前今何て…』

『だから今日は帰る。』

 犬はそのまま奥へ戻ろうとしたが、

『赤飯炊け!!』

 ゼンの吼える声が聞こえた。

『…で、コレがその赤飯、かぃ。』

 猫が呆れ顔で犬の持ち帰った、否持たされた赤飯を箸で突ついた。

『何なんだ一体。』

 犬は余り物で作ったおかずを出し、猫と共にテーブルへ付いた。

『…お前さ、俺の事何て言ってんの。』

『猫を拾った。』

 猫は少し考えるようにうーむと唸り声を上げ少しばつが悪そうに口を噤んだ。

『…それ俺、悪くないからな。』

『だから、何なんだ。』

『さぁ。俺からは教えてやんない。』

 そうにやにやとした顔つきで猫は赤飯を食べながら時代錯誤の親バカだと笑った。腑に落ちない顔をしながら犬も箸を手に食事を始めた。

『ま、二十過ぎたら祝いのお供はコレでしょ』

 猫はどこからか酒瓶を取り出した。

『…お前、外に出たのか。』

『いやんそんな怖い顔しないでよ、近所じゃん。俺だって子供じゃないんだから。』

 せめて満足に歩けるようになってから行け、と犬は赤飯を口に運んだ。

『まぁまぁコレ美味しいのよー、いっぺん呑んでみ。』

 猫はグラスに透明の液体を注ぎ入れ片方を犬に傾けた、犬の鼻がひくつく。

『…酒か。』

『え?飲まないのか?酒、』

『…あまり。』

『うわだっせー』

 その言葉に犬は苛と猫を睨み返した。

『はっ。悔しかったらコレ全部飲んでみ?』

 けらけらと笑いながら猫は自分に次いだ分を飲み干し、グラスを犬の目の前で挑発的に振った。犬はグラスを手に取り少し眺めた後、ぐぃと一気に中身を飲み干した。

『…ひゅー!』

『………っ。』

 その瞬間、確かに犬の顔が一瞬辛そうに目を閉じたのを猫は見逃さなかった。

『お客さん、良い呑みっぷりだ。』

 景気良く中身を注ぐ様子に犬は何か言いた気に手を止めていた。

『おら、飲めよ。夜はまだまだこれからだ。』

『…お前こそ、飲んだらどうだ。』

『モチロン。はい、かんぱーい。』

 カツン、透明な音が響く。ぐぃ、と猫は犬から目線を放さないようにコップの中身を煽る。怠惰な息を吐きながらグラスから唇を離し、促がすように眼を細め笑う。

『良い年こいた野郎だけでツラ突き合わせて飯食らうには、酒ぐらい必要なんだよ。いいだろ?たまにはこういうのも。』

 犬はグラスを手に、少し躊躇いながらも口をつけた。受け止め損ねた雫が端から唇を伝い落ち、喉を流れ鎖骨を濡らす。飲み干し顔を上げた犬の目がゆっくりと猫を捕らえた。

『…飲んだ。』

『あはは、イイカンジになってる。』

 茶化す猫のトーンに拗ねるように視線をそらし、お前のも残ってる、と呟く。はいはい、そう猫は難なく中身を空にする、少し悔しそうに眉を顰め腕を組む犬の仕種に思わず声を出して笑った。

『ははっ、ちょっと可愛いなお前。』

『…うるさい。』

『そして、ものすごくセクシーだ。』

 わざとらしくしなを作った指先で犬の輪郭をなで上げ掌を頬に寄せた。その動作を嫌がるように目を閉じた犬は、頬に手が触れても振りほどく事はしなかった。微かに頬が熱っぽい。

『…冷たいな、お前の手。』

 言葉を表すように犬は少しだけ頬に体重をかけた。その動作に猫は少し驚く。

『お前酔っ払いの典型例過ぎて、ハズい。』

『…そうか、恥ずかしいか。』

 うっすらと目を開き渋々、といった風に犬は体を起こし口を結んだ。

『って、お前そんな拗ねた顔すんなよ!』

 ムキになり両手で犬の頬を掴み上げる。犬は目線を逸らしたまま拗ねているが、振り解かない所を見ると嫌では無いようだ。

『ほら、気持ちいいんか?これがえぇんか?って。阿呆か俺は。』

 つい延ばした手に引っ込みがつかなくなってしまったこの事態に猫はあーあ、と声を出してため息をついた。

 犬は無防備に目を閉じ、更にうだうだと強請るように頬を押し付けてきた。

『お前本当に酔ってんな…』

 犬の目はどこを見るでもなく薄く開かれ、

『…酔ってない。』

『…それは酔ってる奴の台詞だ。』

 猫はその様子を見て思わず噴出し笑った。

『まさかこんなに弱いなんてな、軍時代に酒、無かったわけじゃ無いだろ。』

『いや、』

 犬が滲ませた声は迷うような、戸惑うような、実に人間らしい声だった。

『…会話すら、必要なかった。』

 己の喉から発せられる音も、それを受け取るための耳も、器官の一つでありそこに意味は無く、ただのプログラミングだった。

『なぁ、それって辛い?』

 猫は頭を傾け覗き込むように見上げた。

『…分からない。今だって、よく分からない。』

 それは幸せかどうかという意味なのか、猫は聞きかけて目を閉じた。暖められた空気は酔った二人には少し暑いぐらいだった、熱が作り出す空気に促され落着かない動悸で、何か大切な事を伝えたくなる。

『俺は…何で今、お前と話してるんだろうな。』

 不意に問う犬の声、その答えを求めるように猫に目線を合わせる。自分自身が今までに感じた事のない違和感は何という感情なのだろうか、猫なら知っているのかもしれない。ほんの些細な日常のちょっとした差異だったのに、出会った珍客は思いの外自分の領域にずけずけと入り込んで来る。そんな人間に犬は出会った事がなかった。

『そりゃ、美味いもんと酒があるからだ。』

 くっく、と肩を揺らし笑いながら猫が仰け反り、なーんて、と茶化した。

『…お前は、変な奴だな。』

『失敬な、どっこいどっこいだろ。』

『…でも、お前と話しているのは嫌じゃない。』

 そう、犬は笑ったような顔になった。その様子に思わず猫が驚き、

『…あんた、やっぱり酔ってるよ。』

 いつもは見せない犬の姿に、にやと笑い猫は空っぽになった瓶を振った。

『さ、酒もカラだしお前は限界だし、お開きだな。寝るぞー』

 頷き犬は立ち上がろう、としたもののそのまま目を閉じ椅子にもたれかかり動かなくなった。試しに目の前で手を何度か振るが反応が無い。

『なんつーか。お前意外とガキだな。』

 猫は食器を片付けコップに水を汲み、飲めと犬の前に置いたが反応が無い。

『…後で怒んなよ。…はぃ、あーん。』

 猫は腰に手を当てコップの中身を飲み、慣れた手つきで犬の口へ直接流し込んだ。思ったよりも素直に開かれた口を塞ぎ込み、犬の喉が跳ねたのを確認する。離そうとした瞬間、少しだけ舌が引き寄せられ驚き猫は目を見開いた。口を離すと犬が目を閉じたまま眉を寄せた表情になっていた。

『…寝ぼけてやがる。居候としては風邪引かれたら流石に肩身狭いの、ほら起きろ。』

 腕に肩を入れそのままリビング隣のベッドルームへと運ぶ、電気を付けようと手を離しスイッチに手を伸ばした途端、

『うわっ!!ちょっと!!』

 足の不自由さも手伝い傾いた犬の体を支えきれず、そのまま二人は床に倒れこんだ。

『っだー!この酔っ払い!!』

 完全に意識を失いかけている犬は手足を重力にまかせ動かなくなった。ベッドのすぐ脇に転がり落ちている犬に、下敷きになるように腕の中に入りこんでしまっている己の今の状況に猫は頭をかき呆れた。

 犬はしかめっ面でいつもは見ない寝息を立てている。試しに軽く抵抗してはみるものの途中で面倒になった猫は仕方なくベッドから毛布を引きずり下ろしそのまま床で寝る事にした。

『…何だこれ、無防備にも程がある。』

 犬の酔いで暖められた布団がいつもよりも暖かい、不本意ながら心地よく寝られそうな心地よい温度だった。

『まったく、平和ボケして都合よく色々忘れてしまいそうになる、な。』

 瞼を閉じ己を這う睡魔に心地よく身を任せ、猫は眠りに就いた。



『出かけたい…いい加減出かけたい…!!』

 膨れっ面であぐらをかきながら猫はベッドの上でバタバタと駄々を捏ねた。

『お前、体は。』

『もう歩ける、痛いのも平気!それよりも、野郎と二人きり、こんなせっまい部屋で特にする事もなく三ヶ月もじっとしてるなんて、気が狂いそうだ!!』

 実際には何度かじっとしていない事態になってはいるのだが。

『ともかくお出かけーしたーーーいっ!』

 猫の若干ヒステリックな喚き声に仕方なく犬は猫を伴い街へと出た。

『へっへーっおまたせっ!』

 服を買うと言い飛び出して行った猫は、人目を引くには十分すぎる格好で戻ってきた。真っ白なファーと耳付きのコートにカラフルなインナー、赤いスキニーデニムに黒いブーツ、更に両手には沢山の紙袋を抱え、その上女までもが寄り添っている。慣れた手つきで女に耳打ちすると、猫の頬にキスをして女達はどこかへ去っていった。

『…お前、とりあえずいくら使った。』

『分かんない。いや、抑えた方だと思う。』

 ケロッとした態度の猫に犬はいくつかの言葉を飲み込み、色々諦めたようにため息を吐き出した。

『…寄る所がある。お前はここで待っていろ。』

『あぃあぃさー』

 おどけながら敬礼をする猫に頷きすぐに犬は人ごみに紛れどこかへ行ってしまった。置いて行かれた猫は壁に背を付け溢れ返る人々の波を眺めながら、白い息を吐き出した。

『はっ。昼に外に出るなんて、本当久しぶりだな。』

 冷え澄んだ冬の空気を透かして届く光がまぶしい。冷えた肌に柔らかく当たる日の光は不思議と心地が良く新鮮な気持ちになった。猫は街の喧噪を遠くに眺めていた。

 約束していた期限まであと少し、今のところ状況も問題なく、怪我の回復状況も問題ないだろう。期限が来たらこうやって昼の光の元でのんびりとする事もないだろう。少しだけ惜しむように太陽へ目を細め手を翳した時、灰色のくすんだ這い寄るような視線と、貴方の声が聞こえた気がした。

『―――カノト。』

 その声に猫は反射的に竦み、飛び出した。

『ッ!!追いかけろ!!』

 誰かの叫び声と共に数人の男が猫を後を追う。細い路地裏の入り組んだ道を走り込み廃ビルに飛び込もうとした瞬間、猫はぐらりと眩暈を感じた。

『―っはぁ――っツ…確かに、そろそろ期限だな…。』

 呼吸を整えすぐ後ろの足音に慌てて塀を越える所へ、手が伸ばされる。

『汚ぇ手で触ってんじゃねぇよ。』

 腕を掴み上げ捻り床に叩き付ける、瞬間、容赦無く顔面に向かって思い切り蹴りを入れ込む。男の鼻頭が折れる音がした。

『クソが…おニューの洋服汚すんじゃねぇよ。』

 血の付着した靴底を床に擦りつけ男達に視線を戻す、怯んだ男たちに一歩歩踏み出そうとした瞬間、ぐらりと大きく視界が揺らぎ猫はよろめく。

 その一瞬の隙を突き、男は思い切り鉄パイプで猫を背後から殴打した。

コールド・ターキー禁断症状か。薬漬け猫ちゃんは家出もロクに出来ないようだな。』

 猫を押さえつけ追ってきていた集団の一人が猫へと近づいた。

『久しぶりだなカノト。上からの命令だ。殺さない程度に遊んでから連れて帰ってやる。』

『…そういう事はさぁ俺を一回でも殺してから言えよ。』

 瞬間、拳が振るわれる。口の中に血の味が溢れ猫自身のよく知る臭いと味に、忘れかけていた感覚がふと湧き上がる。

 あぁ、そうだ。俺の生き方から逃げる事なんて出来ない―――猫は目を細め鼻から伝う血を舌先で舐め取った。

『あーあ…後で怒られんの俺なんだからさぁ…痕に残るような傷付けんなよあんまり…。』

 唇の血を手の甲で拭い、ぞくと背中を撫でられるような妖艶な仕草で舐め取り、細めた目で男を挑発的に見上げた。男は卑しく笑い猫の顎を掴み上げる。

『…巣穴に帰る前に、この間みたいに楽しませてくれよ。』

 男は下卑た手付きで猫の頭を掴み上げ引き寄せた。

『今度は最後まで、喰えよ。』

 舌を出し笑う猫の言葉に、男は喉を鳴らした。

 途端、無言のまま押し付けられる舌先、血の味に混ざる他人の唾液の味に、猫は感情が徐々に遠退いて行く感覚を味わっていた。動物のように息を荒げる男に組み敷かれ逆さまに見える窓からきれいな空が広がっている。

 猫はゆっくりと男の腰に指先を這わせ―――

  ―――突然、男が壁まで吹き飛んだ。

『…悪いが、それは俺のクライアントだ。』

 無機質な犬の低音が乾いた室内に反響する。数人の男が一斉に犬へ向かうが、次の瞬間、犬の最低限の動作で全員床に沈んだ。

『な…っクソ…!!』

 男が身体を起こし猫に向かいナイフを出そうとした瞬間、リョウは銃を引き抜いた。

『お、お前は何なんだ!!』

 男の言葉に少し考えるように言葉を止め、

『…ただの、拾い主だ。』

 無遠慮に引かれた引き金は男の脳天に麻酔弾を撃ち込んだ。



『…何者だ。』

 無言のままの猫を見つめ犬は包帯の端を切った。犬の自宅に戻り猫の手当をする、その間猫はずっと無言で俯きソファーの上に座っていた。

『左手。』

 静かに出された左手の赤い傷は猫の肌が白い分余計に目立つ。

 ―――オイっお前一体突然!ちょっと待てリョウ!どっからどこに行くつもりだ!

 事務所でゼンに荷物を渡し話をしていた所、窓から走る猫が後ろ姿に、それを追う複数の影を確認した。事情は呑み込めないながらも咄嗟に3階の事務所から窓を開け飛び降り、叫ぶゼンを背に猫の後を追った。

『…なぁ、』

 猫は包帯を巻く犬の手を掴み寄せた。

『飼ってくれ。』

 弱弱しく犬の手首に指先を這わせそのまま頬に寄せ、縋るように傾ぐ。

『アンタになら、何されても良いから…』

 そう媚びる様な角度で猫は犬を見上げ、口角を歪ませ笑ったような顔を作った。

 猫の額には汗がしっとりと滲み、微かに震えているように見えた。

『くだらない。』

 犬は手を振り解きソファから立ち上がろうとした。

『…優しいね。』

 瞬間、犬はソファーに押し倒された。足元に救急道具が散らばり何かの薬便が割れる音がした。相手の吐息が伝わるほどの静かな部屋の中で猫は喉を鳴らし、犬を見下ろした。

『いい加減にしろ…そろそろ尻尾を出せよクソ犬。テメェはどこの番犬だ…。』

 左手のほどけかけた包帯が犬の頬に触れる。歪んだままの笑顔で猫は媚びるように目を細め笑い、喉をゴロゴロと鳴らした。

『何が、狙いだ。お前の考えてる事が分からなくて、気持ち悪い。』

 猫は顔を近づけ、前髪が触れる程頬を寄せ少し冷えた鼻を押し付けた。

『俺を助けた理由は、何だ。軍に売り渡されるのも、殺されるのも、ゴメンだ。そうなら、お前を殺す。』

 思い出した猫の生き方。血と体温と汗の臭い。見上げた先の無機質な天井を見て、猫の理を思い出す。押し倒された逆さまの世界が、様々な絶望を思い出してくれた。

 猫は瓶の破片へと手を伸ばした。

『なぁ、俺アンタの事結構気に入っているんだ。俺を買いなよ。その方が分かりやすくてよっぽどいい。』

 妖艶な角度で猫は犬へと顔を近づけ口を開いた。

『お前、嫌じゃないのか。』

 犬の無感情のままの目に、動きを止め、猫は卑しく唇を歪ませて笑った。

『…あぁ、ゲロ吐きそうだ。』

 煙草の煙を口渡されるのも、内臓かき回されるのも、毎夜、終わりのないように寝ては覚めては夜に溺れ、軋む体は拒めば拒む程、魅力的に濡れる。

『でも、どんな事にも対価が必要だ。』

 裏の無い表は存在しない。優しさに裏切られるなら絶対的な絶望で支配して欲しい。

『裏切られる事には慣れてるけど、あんまり好きじゃないからさ。だったら分かりやすい方が良い。』

 組み敷く犬を慣れた目つき見下ろし笑う。

『…さぁ、どうする?』

 その言葉を犬の唇に押し込め、猫は鋭利な欠片へ指を這わした。

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