02.True appearance.

 帰宅した犬は部屋の中から猫と自分のコートが1着なくなっている事に気づいた。鍵がかかっていたので外に出た形跡はない、そういえば、と犬はベッドルームの奥にある梯子に手をかける。昨日猫がこの屋上へ出る梯子へ興味を示していたはずだった。

『…案外早く気づいてくれて、安心した。思ったよりまだ寒くて。』

 案の定、屋上のフェンスにもたれかかる猫の後ろ姿は振り向きざまににこりと笑った。

『ここ、すっごぃ良い眺めだ。』

 見れば確かに街の日暮れが濃淡に広がる空が猫の肩越しに見渡せた。他に遮る建物もなく冷え澄んだ空が透明色に伸びている。はっきりとした発色を誇る青空と、染み渡るように迫る夜空の狭間に燃える、地平線が迫る真っ赤な空に、この世界は色の侵食を許してしまう。何もかもが分け隔てなく赤く染まっていた。

『煙草、ちょーだい。』

 猫の方へ歩きながら犬は自分の分を抜き、煙草の箱を猫の方に投げる。先に火を付けた犬から慣れた仕草で火を奪い、猫はフェンスにもたれかかったまま笑いかけた。犬の瞳も夕日に照らされ少しだけ赤味がかって見える。

『…俺の事、何も聞かないんだなアンタ。』

『興味が無い。』

 偽善者かよ、と猫は苦笑いをした。

『お前が、何を考えてるのか、分からない。』

『お互い様だろう。』

 犬の冷静な返答に猫は頷くように煙を吐き出した。ゆっくりとフェンスに指先を絡ませ仰け反るように身体を外へと押し出す。

 眼下に逆さまに広がるオレンジ色の街並みは、どの色も普段は輝かない色に塗り替えられ、世界が一つに見えていた。

『あぁ、そうだな。ありがと。』

『別に。』

 犬は本当に興味無いように煙を噴かした。

『ちぇー可愛くねぇ奴。唯一、どうせならもっと可愛い子ちゃんに拾われればよかったと思うよ。』

 その文句に犬は煙草を踏み消し、先に戻る、と階段へ向った。

『あ、おい、何の為にお前来たん―――――』

 ―――その瞬間、猫の声が途切れた。

 異変に気づき犬が振り向くのと同時に銃弾が足元を掠める、

『動くな。ノワール、G14―3で待つ。』

 そう武装した数名が銃口をこちらに向け、気絶している猫が抱えられている様子が目に映った。

 瞬間、牽制用の銃弾を二、三撃ち後退しながら犬は放たれる弾丸を避け滑り込むように下の階へ下りそのまま玄関を蹴破った。すでにヘリの立ち去る音だけが木霊している。

 “―――ノワール”

 己の身体の中で真っ暗闇の空洞が広がり己を飲み込もうと広がり始める。

 犬は日の暮れはじめ暗くなりかけた空を眺めながら急速に冷えていく思考を感じていた。犬は頭痛に似た眩暈を感じ眼鏡を外す。フレームの無くなった視界にフラッシュバックする残像、何かが膨らむ音が身体の中ではち切れそうに広がり、その奥底から灰色の声が聞こえた。

 “―――ノワール。私に従え。”

 その言葉に従うように犬はゆっくりと一歩後ろに下がり、鉄の冷えた扉を閉めた。


 ―OTHER SIDE ― 02.True appearance.


 鼻を突く火薬の香りが吐き気と頭痛を引き寄せ、鮮明になっていく意識がそれを加速させる。まだ少しぼやける視界で無骨な鉄パイプのベッドと繋がれた拘束具を見上げ猫は軽く舌打ちをした。

『気がついたか。』

『まぁな…気絶する程気分サイテーだけど』

 先ほどの武装集団と同じ装備の男が猫へと近づきすぐ傍の椅子へ乱暴に座った。

『で、何の用よ。俺アンタ等の事知らなーい』

『お前に用は無い。俺達の狙いはあの男だ』

 その返答に猫は怪訝そうな顔で男を品定めするように眺め悪態を吐いた。

『あぁーいよいよ見付かっちゃったかなと思ったけれど、その線じゃないって事は…もしかして反乱軍アッフェの生き残りとか何とか?』

 その言葉に男は不審そうに猫を眺め、構えていた銃を突き出し声を落とした。

『お前の事なんか知るか。』

『け。これだからクソ軍部なんかに負けんだよクズが。おばーかさーん。』

 瞬間、銃身が猫に振り下ろされる。

『…クソが…殺されたいのか。』

『あら。図星だった?ゴメンね。』

 猫はにやついた顔で血反吐を吐き出した。

『…でもアイツはもう退役してんだろ?尚更関係ないじゃん。』

『あの男は…第十三部隊の生き残りだ。』

 その言葉に猫は馬鹿にしたように笑った。

『ジョーダン、十三部隊は解体、つまり全員死んで…―――』

『―――そうだ。四年前のあの時一人残らず殺された。』

 数年前、戦争に勝利し急速に地位を確立させ軍事政権を推し進めた軍部に対する反感の高まりは限界だった。旧政権を中心とした軍部反対派は四年前、軍部内からも反対派を味方に取り込み反旗を翻した。

『軍の中にもその時代の圧政を厭う人間は多かった。もう少しで俺たちアッフェ軍は勝つ所だった』

『けれど、国の隠し玉使われた瞬間に全滅ー、って聞いたけど。』

 あぁ全滅だった、そう男は苦々しく顔を顰めた。 反乱軍は予想以上に人数を集め、軍の拠点地の四分の一まで攻めり、誰もが反乱軍の勝利を確信していたその時だった。存在しないと言われていた当時の特殊部隊大佐の宇都木うづき上官率いる“第十三部隊”が出撃した瞬間、この戦いは終わった。それまで半数以上を残していた反乱軍は一夜のうちに全滅した。

『後退する暇も無かった。たった20人あまりの部隊に5000人以上の軍勢が圧倒され、戦いは軍の勝利で終わった。』

『だけどその事が他から糾弾されて、隠し玉は全員処理されたって…。』

『表向きは、な。』

 男は思わせぶりに言葉を濁した。

『その部隊に居たのがアイツだとでも言うのかよ?まっさかー。』

 確かに朴念仁人間だけどそんな風には、と猫が茶化したが、

『それもあの男が来れば分かる。』

 男の鬼気迫る様子に猫も口を噤んだ。

『俺達だって過ぎた事で今更手を汚したくない。しかしあれは次の戦争の火種になる。隣国の奴等が力を取り戻して来た今、いつまた戦争が起こるか…』

 男はモニターの方へ振り向き猫から目を離した。猫はその隙に手首を見上げた、普段なら簡単に脱出出来るような代物だが

『……っ。』

 折れた腕では思うように力が入らない。

『…なぁ俺怪我人なんだよ、手錠だけでも外してくんない?この体位辛くて』

『…手当てだけしてやる。』

 そう男が猫へ近づき覆い被さるように足首の拘束具を外し―――

 ―――その瞬間、猫は男の銃を蹴り上げその銃を手へと握った。

『…逃げ出すつもりか。』

『悪いけど、俺も素人じゃ無いんで、お姫サマみたいに助けを待つつもりはねぇの。』

『逃げ出すなら殺すぞ。』

『死なねぇんだよ、俺は。』

 猫がトリガーを引こうとするのと同時に、男がナイフを猫に突き出した。

『―――第一ゲート!破られました!!』

その瞬間、モニターの方から声が上がり緊迫が走った。

『…少し大人しくしていてもらおう。』

 一瞬の隙に男の拳が猫のみぞおちを抉る、鈍い痛みと嫌な音が響いた。

『大人しくしていた方が、お前のためだ。ここで、見ていろ。』

 男はそう言い残しモニターへと走った。

『ぼ…防壁も次々に突破してきます。』

『第二班、第三ゲートの方から回り込んで目標を押さえろ。』

 緊迫した空気が部屋全体に伝わる。慌しく音声が入るスピーカーからは時折銃撃音と嫌な悲鳴が聞こえている。武装した男達はこれから訪れるであろう恐怖に息を呑んだ。

『目標、第一波を突破。恐らく…全滅。』

『残りの者はここで待機、…来るぞ!』

 瞬間、ドアが勢いよく開き一人の男の影が揺らめいた。その瞬間放たれる一斉砲撃、容赦の無い弾丸の嵐は男の形がなくなるまで撃ち続けられる。煙が上がり男の影が崩れた。

 静まり返る空間に一筋の安堵が広がり、誰かが口を開こうとしたその瞬間、

 ―――第一線の兵が力なくその場に倒れた。

『ここ…か。』

 ゆっくりと、黒の恐怖が部屋へと忍び込み、月光の元にその姿を晒した。

『…嘘だろ…リョウ。』

 猫は全身の毛が逆立つ程圧倒的な恐怖に息を呑んだ。麗しい程赤を含んだ黒衣の獣の虚空な眼が月明かりに照らし出される。

 戦況は一瞬にして混乱し誰もが突き動かされるようにその恐怖に向かって引き金を引いた。煙が上がり犬の姿を揺らぎ隠す、次の瞬間、兵の喉笛は引き裂かれた。降り注ぐ血の雨に混乱する銃弾達は互いに粉砕しあい空白の響きを作り出す。血溜りの中を駆ける犬は銃撃の咆哮を響かせ、兵達はひれ伏すようにその身体を地面へと落とした。

 観劇のように迫力のあるハイライトから徐々に音を失っていく多重奏は、静かな終幕へと確実に向かう。力なく一人の兵が膝を付いた所でこの舞台は奏者を失い、あっけなく幕を下ろし、後には重厚な赤いカーテンだけが残った。

『動くなぁぁぁああ!』

 男の声と銃口が犬を捕らえる。鮮血の滴り落ちる顔を犬はぎこちなくこちらへ向けた。

『やはりお前は、生かしておけない。』

 歯を食いしばり恐怖に向かい男は叫んだ。

『お前のせいで、みんな死ぬんだ…こいつのように!!』

 そう男は突然猫に銃を向ける。男の緊張が指先に伝わりトリガーが引かれる――

―瞬間、男はトリガーを引く為の指を失った。

 悲鳴を上げる男の膝、腕と静かに銃弾が食い込む。硝煙の昇る銃を握ったまま犬は跪く男の方へと赤い足跡を残しながら近づいた。倒れた男は恐怖で震え出しながらも懸命に身体を起こそうと息を吐き出すが、必死の抵抗もこの獣の前では惨めな程無力だった。仕留めた獲物を捕食する程の怠惰さで犬は男の前に立った。

『…黒の神チェルノボーグ

 男の絶え絶えの言葉を無表情に見下ろしながら犬は弾を装填し直した。

『…お前は…生きていてはいけない。』

 その言葉に犬は動きを止めた。顔に滴る鮮血が音もなく伝い落ち床に血痕を付ける。

『…そうか。』

 瞬間、犬は躊躇いもなく男の脳天へと引き金を引いた。破裂する血飛沫の軌道を追う犬の瞳はそのまま猫の瞳と交わる。その眼に囚われ全身の血が沸き立つような畏怖すべき虚無を感じる。

『…俺はただ、ノワールを消しにきた。』

 一切の感情もない声、硝煙の残る銃口は猫の高さへと引き上げられる。

『そしてお前も、』

 額へ照準を合わせようとする銃口の先を眺め猫は犬の瞳を見返した。その瞳は猫の知らない空洞のような深い黒を湛えている。

『…リョウ。』

 その言葉を掻き消すように最後の銃声が観客のいなくなった舞台に鳴り響いた。


 白く降り積もる雪の夜道に身体を引きずりながら、猫は荒い呼吸に一息を置いた。

『…はぁ…まずったわ…。』

 腹部の傷口が開いたのだろう、裸足のままの足先に血が伝いうっすらと積もった雪の上に花びらのような紅い雫を落としている。

『…あの男が、第十三番部隊の…』

 ―――銃声が響く瞬間、猫は咄嗟に身を屈め紙一重で銃弾を避けた。パイプへと被弾し壊れた部分から手錠を外し、すぐさま足元に転がっていたナイフを犬の胸へと突き上げる。ナイフは避けられ僅かに肩を掠めただけであったがそのまま力ずくで押し倒し、犬の手からこぼれた拳銃を蹴り上げた。途端、腹部を思い切り掴み上げられる。歯を食いしばるも僅かに悲鳴が漏れてしまう、苦い痛烈な痛みに思わずバランスを崩し倒れ込みながら猫はその手に思い切り歯を立て噛み付き、その一瞬の隙に折るつもりで首元に蹴りを振り上げた。普通の人間なら気絶する程の正確さだったが犬は僅かに急所をずらし僅かにふら付いただけに留まった。すかさず身を翻し猫はその場から逃げ出した、一目散に後ろを振り返る余裕もなく―――

『…まさか…あの男以外にも生き残ってる奴がいるなんてな…。』

 猫は揺れる視界を持ち上げた。黒い夜空から降り注ぐやわらかな雪の自由落下は骨の芯まで染みる冷たさも嘘のように優しい光景だった。先ほど見た惨劇も、この身体の痛みもまるで嘘のように、世界は美しい。

 途端、全身の力が抜け猫は転ぶように足を縺れさせ力なくその場に倒れこんだ。

『おぉっと…。あはは。歩く事も出来ないでやんの俺…。』

 口から吐き出されている血が綺麗に雪と交ざり痕を残す。凛とした寒さが身を貫く。もう微塵も動かせなくなった指先を眺め猫は軽く笑った。いつ死んでも良いと投げていた命だったが、まさかこんな所であっけなく終わるとは思わなかった。その方が猫らしいか、猫は頬に溶け込む雪の温度を感じた。

『…にゃぁ。なん…っ…て…』

 白くにごり始めた風景から、猫は潔く瞼を下ろし闇の中へと潜った。急速に自分から遠退いていく感覚はすでに冷たさも感じる事は無かった。

 静かだった。自分の鼓動がこれで止んだら本当にとても静かな夜だろう。

その無音の中を近づく一つの足音。俺の体に手を伸ばす貴方の手が。

 あぁ…また―――――――



 体中を包み込む暖かさが肌に染みる。人肌程度の微熱が身体中を包み込み息を漏らすほどの安堵を感じる。優しく前髪を分ける暖かい手の感触。少しだけ光を取り込み始めた視界に映る瞳は、漆黒の無感情な瞳でもなく、冷えた灰色の瞳でも無く、俺の姿をまっすぐに映す―――

『……クラウズ…』

 水音がする、ぼんやりと霞んだ視界と、途切れとぎれの思考が徐々に連結し始める

『猫、』

 ピントの合った視界に犬の覗き込む顔が逆さまに見えた。

『…あーあ…また、死んだと思ったのに…』

 不思議なデジャヴ感に苦笑し起き上がろうと―――

『――ってえぇぇえ。…何、何なのコレ』

 自分の体が湯船の中だと言う事に気づき猫は奇妙な悲鳴を上げた。

『溺れる!助けろオイ、何すんだ!』

『…冷たくなっていたから』

 犬は少し声を落として淡々と答えた。確かに体は温かくなっているが、

『…あー、色々ツッコみたいんだけど、とりあえず…服ごとほおり込むか?』

 猫は呆れ顔で濡れたワイシャツを眺めまだ麻痺している指先でボタンをぎこちなく外し、脱いだ服を犬に渡した。

『いやーん、見ないでエッチー』

『……………。』

『…黙らないでくれない…?コッチが恥ずかしいから。』

 猫は呆れ顔を湯船に付けた。冷えていた鼻が急に温められた事でびりりと痛んむ。『…猫、』

 何か言い出そうとする犬の言葉を遮るように猫は湯船から身を乗り出した。

『あのさ、何で俺の事また助けてるの?』

 犬は目を伏せて動きを止めた。

『だから、黙るなって言ってるだろ。』

 猫は犬に向かってお湯をかけた。

『やーい』

『………。』

『何だよ…』

 黙ったままの犬を見て猫はため息を吐き、犬の頭に手を伸ばし黒髪を優しく撫でた。見た目通り質の固い髪に水滴が伝い猫の頬に落ちてくる。

『…悪い』

 犬は少し曇る眼鏡の奥でその目を伏せた。

『…べつに。またこうやって助けてもらってしまった訳だし…いやぁ本当、チビるぐらいビビった。』

『殺すつもりだった。』

 その答えに、じゃあ何で、と繰り返そうとした猫は呆れ顔でその言葉を止めた。

『…あぁ、死なねぇんだよ、俺。』

 猫は濡れたままの腕を伸ばし犬の首元に手を回し引き寄せた。左肩から血の匂いがする、最後にナイフを突き立てた時の傷だろう。

『お前これ痛くないの?』

『あぁ』

『…あっそ。ちょっとムカつくな。』

 猫は濡れたままの手で、こっちは?と噛み付いた左手の甲を引き寄せた。歯形が軽い傷になっている。猫は思わずもう一度その手を口に含んだ。今度は優しくその傷口を治すように舌で撫でた。口の中に唾液と血の味が広がる。

『…いやん傷物にしちゃったね。責任取ろうか?』

『いや。』

『お前、本当にムカつくな。ちょっとは、違う顔も見せてくれよ!』

 ぐいと力任せに犬を引っ張り、互いに衣服を着たままバスタブに無理矢理引きずり込む。頭から犬の体が水浸しになるのを見て猫はゲラゲラと笑ったが、思ったより反応しない犬の姿に猫は真剣な眼差しで溜息を吐いた。

『つまんねー野郎だ。俺とお前、どっちが死にかけだか分かったもんじゃねぇ。』

 その言葉に、犬は髪をかき上げ改めて猫へと向き直った。

『…俺は、死んでいる。』

 そう、犬は濡れた眼鏡を外し顔を拭った。

『俺が所属していた旧軍部は、第十三部隊だ。』

 ―――この命は、兵器として作り出された命だった。兵器としての役目を果たすためあらゆる訓練をほどこされ、人間としての感情を捨てる事だけが求められた。

『第十三部隊は、その時の最高司令、 宇都木うづき大佐付きの極秘部隊だった。俺はそのNo.06隊員、コードネームは――― #000000ノワール 。』

 水面下であらゆる特殊訓練を施されその存在が隠されていた最高峰の特殊部隊。そこで生まれそこで育ち、戦う為に生きて来た。

『反乱軍が立ち上がった事を知ったのは、俺達に出撃命令が出た時だった。』

 戦う為だけに生かされてきた者と、戦う事を放棄するべく立ち上がった者との戦い。奴等をねじ伏せるのは簡単な事だった。

『そして任務終了後、俺達はある日突然、自害を命じられた。全員、死んだ。』

 兵器として生きた命はその役目を必要としなくなった途端、破棄された。

『俺は別部隊の 嘉縫かぬい大佐に秘密裏に命を救われ、その当時大佐の部下だったゼンに引き取られ生き残った。他は全員、死んだ。』

 ゼンが手を引かなければあのまま俺も何の躊躇いもなく死んでいたのだろうと思う。

『俺は、生きていない。あの時、死んだんだ。』

 望むことは何もなく、日々をただ繰り返し過ごす事が、今ある唯一の命令だった。

『…明日、お前をゼンの家へ預けに行く。』

 犬は話終えるとバスタブから上がり、タオルを猫の頭へ置きドアの方へ歩き出そうとした。

『じゃあ俺も死んでるのかよ。』

 猫は犬の手を無理やり掴み、タオルの下からにやりと笑った。

『あれ可笑しいな、確かに見えるし触れるし、何ならもっとスゴい事も出来るだろうけど、これでもお前は死んでるって言うのか。』

『…何を―――』

『―――過去に捕らわれてんのは俺も一緒だから何も言わない。苦しめ。でも今の今も放棄する必要はないんでねえの?』

『俺は、』

『じゃあこうしよう。俺が死んだら、あんたの勝ち。好きに過去に囚われて潔く死んでろ。俺が勝ったら、そのクソつまらなそうな仏頂面を止めて、俺と友達になって。どう?』

 俺様意外としぶといの、と猫は笑った。

 猫の不可解な言動に犬は何かを考えるように静かに見下ろし、その瞳を受け取った猫は目を細め、

『…俺もさ、友達っていねぇの。』

 猫はバスタブの縁に顔を置き、少し大人しいトーンで呟いた。

『あんたもしぶとそうだけど、なかなか俺も負けないから。』

『…変な、勝負だな。』

 そう、犬の目が少しだけ穏やかに傾く。

『お。何だ、笑うじゃん。』

 からかうように意地悪く鳴く猫を見て、犬はまた眉間に皺を戻した。

『あぁ、そっちの顔も嫌いじゃ無いぜ。』

 猫はその顔に向かってタオルを投げつけた。



 静まり返った夜の帳の元で、瞼の裏側から月の光を静かに愛でていた。今日はあの人は帰ってこない、なのに足音が近づいて来る。

『…迎えに上がりました。カノト。』

 同時に、冷たい銃口が頭上に向けられる。

『…お前にしてはちょっこーっと遅かったんじゃねぇの、ユウジ。』

 猫は鼻で笑い返し、うつ伏せのまま闇夜から首を擡げた鳥のように空虚な目をした男へ視線を合わせた。

『ビーコンもない貴方を見つけただけでも感謝して欲しい。』

『それがお前の仕事だろ。』

 男は突きつけていた銃を仕舞い、煙草を箱から一本抜き出し猫の口に運んだ。

『で、あの人は何だって?』

 猫は煙草を受け取らず少し真面目な声色で男を見つめ続けたままそう訊ねた。

『必ず戻るだろう、好きにさせろ、と。』

 苦々しく目を閉じいじけた様に顔を塞ぎこみながら色気がねぇなぁと笑う。

『貴方を思ってこその言葉でしょう。』

『け。お前今度の査定楽しみにしてろよ。』

 舌を出した顔を向け猫は煙草を咥えた。

『行きましょう、カノト。』

 その言葉に猫はうっすらと目を細める。

『…この家に居る男、誰だと思う?』

 男は不思議そうに部屋を軽く見渡し、知りませんと淡白に答えた。

『お前そこまで知ってたらストーカーの才能認定してやる。第十三部隊、その生き残りだ。』

 その言葉に何かを理解したように猫へ目線を戻し、男は微笑んだ。

『…貴方も忠実な奴隷だ。』

『あらやだ、そんな汚い言葉使いやがって。素敵なペットちゃんだろ。』

 少し見習え、そう猫は男に煙草を吹かした。

『どうせ戻った所でどっちも役立たねぇし、たっぷりの有給休暇を申請します。三カ月経ったら戻る。』

 男は頷き部屋を出ようと背を向けた。

『ユウジ。』

 静かに振り返り男は猫の言葉を待つ。

『俺をやったのはサイトウの奴等だ。全員見張っとけ。あぁ殺すなよ。』

 猫は男に向かって、淫靡に微笑んだ。

『俺が殺してやる。』

 男の足音が間も無く消えるのを確認し猫は倒れ込むようにベッドへ身を沈めた。

『…友達は、いないんだけどさ。』

 呟くように猫は鳴き、夜闇の月の光を味わう為にもう一度瞳を閉じた。

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