OTHER SIDE. 

益田 彩人

01.Nondescript sky.

 いつもと何ら変わらない、色の少ない単調な朝の空だった。

 モルタル塗りの無機質なこのアパートの向かいに能天気な水色で転がるポリバケツにゴミを捨てて部屋に戻るだけのほんの些細な日課で、生ゴミの日である今日も決まり事のようにその箱を開けた。しかし今日はいつもと違いゴミ箱の中にはあまり見かけない先客が居た。

 確かに生ゴミだった。

 最初は動物か何かかと思ったが、それはどうやら人間のようで、人間も分別は生ゴミの日なのかと思った。しかしこれでは自分のゴミが捨てられない。腐りかけの左手の生モノと、腐り始めた目の前の生物ナマモノを眺めて、仕方がないからまだ腐っていない方を持ち帰る事にした。

 これで潔く左手の生ゴミは捨てられ、右手には拾った生物を持ち、家に戻った。

 それ以外は何ら変わらない、ただの日常だった。



 ―OTHER SIDE ― 01. Nondescript sky.


 

『あーあ…死んだと思ったのに…』

 そんな間抜けな言葉が思わず第一声だった。色素の薄い眼をうっすらと開きながら、寝惚けた掠れ声で枕元にいた見知らぬ眼鏡の仏頂面に尋ねる。

『…これ何本折れてる…?』

『右腕と背骨の骨折、右膝のひび肋骨が2本ひびが1本、その他も打撲や傷等。』

 男は新聞から顔も上げず、気づかう様子の微塵もない淡白な答えが返ってくる。

『なにそれサイテー…どうりで動かないはずだ…』

 まるで他人事のようにアンタ巻いたの?上手いね、と左腕を持ち上げた。

『今何時、』

『夕方六時。』

 質問に対する必要最低限の言葉のみが返され会話が途切れたその部屋には、ブラインドの隙間から差し込む柔らかな光と暖かな空気が作り出す優しい静寂が広がる。目を閉じると目蓋を透かす真っ赤な光が眩しかった。

『…あのまま大人しく死なせてくれれば良かったのにクソお節介、なんて言ったら、アンタ怒る方?』

『いや。』

 ゴミ箱はすぐ家の前だ、と男は表情を変えずに窓の外を視線で示した。

『…アンタそれ怒るよりも性質悪ぃわ。』

 くっく、と喉の奥から笑い声をあげ折れていない方の腕を持ち上げ目を覆う。

『…それ、飲んでるの…コーヒー?』

『飲みたいのか。』

『…いらない、そんな苦いモノ飲めねぇよ。甘くてあったかい白いのが良い…。』

 まどろむように呟き目を閉じる。この部屋は人間固有の匂いがあまりしない、微かに香る馴染みの無いコーヒーの香りに少し落ち着かない気持ちになった。

『もう少し質問して良い?』

 沈黙が流れる。それはNOという意味なのか単に答えるのが面倒なのか、分からないのでそのまま続けた。

『ここどこ』

『D-84地区。』

 相変わらずの応答にも慣れてくる。あぁ遠くはないのか、ともう一度欠伸をする。

『何月生まれ?血液型は?星座は?』

『3月、A型、知らない。』

 冗談半分の質問も同じ単調さであっさり返され、その反応に少し意地になった。

『ご年齢は?ご趣味は…彼女居る?』

 男は流石に眉間に皴を寄せ、やっとこちらに無表情の顔を向けた。

『…怒った?』

 いや、言葉とは正反対の反応で男はコーヒーの残るカップを持ち立ち上がった。

『ねぇ、アンタ、名前は?』

 その問いに目線だけをこちらに向ける。

『…サガミ リョウ。』

『じゃあリョウ。』

 真っ白に色の抜けた柔らかい癖のある髪と色素の薄い瞳を向け、漆黒の髪と同じ艶やかな黒い瞳に見つめ返され、

『どうやら、まったく動けないようなんで、しばらくこの家に置いて欲しい。三ヶ月経ったら出て行く。』

 なんて怪し過ぎ?そう聞く声も慣れたように喉を鳴らす。

『まぁ出て行けと言われてもこれ、一人じゃ動けないんで…』

 五つ星のスイートルームにお姫様抱っこで運んでくれ、と腕を差し出す。しかし何も反応を示さず男は無関心に部屋を出て行った。

『…あーあ交渉決裂、何されるんだろう俺。』

 思考の上手く纏まらぬ考えを止め感覚の麻痺した身体を見下ろした。まだ生きているらしい身体をぎこちなく起こすと鈍い痛みが柔らかく全身を這い、思わず目を閉じついに己の命運も尽きたかと溜息を吐いた。

『おい、』

 不意にかけられた声に慌てて目を上げると、目の前に赤いカップが差し出された。

『これなら飲めるだろう。』

 差し出されたカップは先ほど持っていたのとは違う赤い小さなカップだった。

『…はぁ。どうも…』

 男の突然の行動に唖然と目を丸くしながらもぎこちなくカップを受け取った。カップの中は甘い薫りの漂う白い暖かい液体、手先から伝わる暖かさにそっと唇を付ける、喉を伝って落ちる暖かさが甘味と共に痛む体に吸収されていくのが分かった。

『あ、砂糖入ってる。』

『違うのか?ホットミルク。』

『…いや、正解。』

 甘さと暖かさを受け取った体からは微かに痛みが和らいだかのように思えた。

『ここに居たいなら居ればいい、出て行きたいなら出て行けばいい。自由にしろ。』

 俺にはあまり関係ない、男はよく分からない返事をした。すぐ隣に近づいていた男の無表情を改めて観察するが、何を考えているのかまったく分からない。

『お前、何て呼べばいい。』

『名前?…あんた犬っぽいから、俺、猫でいいよネコ。』

 男は少し妙な表情をしたが分かった、と短く答え暫く安静にしていろ、と部屋から出ていった。

『…ははっ猫だって。』

 ブラインドの向こう側で輝くオレンジ色の淡い夕日を眺める。眩暈のする世界から離れる為に猫はもう一度目を閉じた。



 夜の帳を引くように抗う事の出来ない腐食、その痛みに落下するような絶望感と震える程の期待が腹の底で唸る。単調な足音が近づき、扉の前で止まる。ドアノブをひねる音、あぁ。また―――

『…ん?』

 開いた瞼は部屋に反射した夕日の眩しさに慌てて閉じられた。ゆっくりと見慣れない天井を確認する。玄関から足音と共にコーヒーの香りが届きやっと状況を思い出す。

『猫、起きたのか。』

 犬は一言声をかけ猫の横を過ぎ、部屋続きのリビングへと移って行った。

『あぁ…お帰り?あれ夢じゃなかったんだな…』

『…三日間起きなかったから、流石に死ぬかと思ったが…』

 独り言のようにつぶやく不吉な声がキッチンの方から聞こえてくる。

『げ。三日間も寝てたのか』

 道理で体が妙に痛いはずだぜ、と猫はまるで猫のように伸びをした。

『…節々がこんなに痛…ってうわーお!最高!オムライス大好き!』

 耳をピンと立て犬の運んできたオムライスに猫は手を伸ばすが、片手では受け取れず、諦めたように猫は口を開け犬に笑いかけた。

『なんだ。』

『だから、あーん。』

 オムライスを指差し、自分の口を指差す。そのジェスチャーを理解したのか犬は素直にスプーンに乗せたオムライスを猫の口元へと運んだ。

『んー………何コレ。超美味い!市販じゃねぇ!何?アンタ作ったの!?』

『あぁ、昨日の分だが。』

 ケチャップを口の端に付けたまま猫はキラキラと犬を見上げ、

『…お母さん…』

 その反応に犬は皴を眉間に寄せ自分のコーヒーと猫のミルクをサイドテーブルに置いた。もう一口、口を開ける猫へ先程と同じ律儀さできちんと食べさせてくれるものの、その優しさの意図が分からない程犬は無表情だった。その反応に探りを入れるように猫はわざとらしい声を出した。

『超美味いよ、コレ。何?軍はそういう事も教えてくれんの?』

 その言葉に犬は初めて少し反応を見せた、鋭く睨んだ瞳に猫は更に言葉を続ける。

『素人はそんなスマートな筋肉付けない。何?ドコ付き?足音的には特隊かなー』

『…元だ。』

 へぇ、と猫はスプーンを口にくわえたまま後ろに寄り掛かった。

『あぁ、K9ケーナインか。』

 その言葉に犬は少しだけ眉を寄せた。


 隣国との戦争終焉後、平和が訪れるよりも前に軍事政権の圧政に対して内戦が勃発した。結果は政府が勝利を収めたがこの反乱を受け政府は軍を一部解体し軍事力を弱めた。

 そしてそれまで軍に所属していた隊員達は現在その能力や戦闘力を生かし特殊業を営む 傭兵K9として多くが働いている。

『あぁ、強いのか。』

 さあな、話を無理やり終えるように犬は猫から目を離した。

『じゃあさ…。』

 猫は手を伸ばし犬の頬を掴むように引き寄せ耳打ちをするように首筋に頬を添えた。

『今自由に出来るお金は手元にないのですが、アンタを雇いたい。』

 なんてねあんた高そうだから無理かな、猫は悪戯に笑いおどけた。

『…警護は担当していない』

『わーぉ良いよ別に、全部殺してくれ。』

 犬は冷めた目を閉じ鼻を鳴らした。

『…断る。』



『お前最近変じゃあないか。』

 犬の所属するK9チーム〝ケンネル〟を仕切る熊のような男が犬を覗き込みながら聞いた。

『明らかに寝不足の顔をしてるし…おまけに、何か甘い匂いするしな…お前まさか…。』

 熊はオーバーな動作で口に手を当て、〝お〟の形で止まった。

『…猫を拾った。』

『ねこぉ?』

 熊は大笑いしそりゃ未来から来たか、と茶化した。

『ダメですよゼンさん、そんな野暮な事聞くなんて。それじゃあオジサンですよ。』

 ケンネルのもう一人の隊員である小動物のような小柄な女性がお茶を出しながらめ、とゼンを嗜めた。

『リョウ君だってもう良い歳なんですから、大切な人ぐらい、』

 リサはやらんぞ!とゼンの雄叫びが聞こえた。その様子を全く気にせず犬は自分の匂いを嗅ぎ、お茶を運んできたリサに礼を言いお茶を受け取った。

『ゼン…そんな事あるわけ無いだろう。』

 熊のような大男ゼンと、その腕に収まるリスのような小柄なリサを見返す。この二人はK9の中でもお墨付きの“美女と野獣”だ。リサは軍人にもましてあの熊男の嫁にも見えないが、戦場でのリサはスピードと抜群のセンスでK9の中でも優秀な成績を残している兵士だ。

『…ともかく今日もご苦労だったな。もう上がっていいぞ。』

 その言葉と菓子を受け取り犬はケンネルの事務所を後にした。

 K9の仕事内容は多岐に渡り、捜査、捕獲など軍部の仕事を委託したものから、物資運搬や土木まで力や技術を生かした多くの仕事がある。犬の所属するチームケンネルは主に〝 試合クリーク 〟に借り出される戦闘部隊だった。

 この国で今最も大きな金が動くビジネスとなったマネーゲーム、クリーク。企業や軍同士が土地や金品を賭け自分の持ち駒K9を戦わせ、その勝敗に他の企業や国が賭け金をやり取りする。戦争が集結し持て余された戦力は娯楽としての価値を付与され有効活用される事となった。

 犬の所属するケンネルは軍の最高指令、 嘉縫かぬい大佐の持ち駒の一つ、同じ元軍勤めのゼンにこのチームに引き取られた。

『じゃさー何で軍辞めたの。やってる事一緒じゃんよ別に。』

 猫は然程興味なさそうに犬のお土産のチョコレートを頬張りながら言った。

『…死んだからだ。』

『え?何?女が絡んでたとか、そういうクッサイ話でもするつもり。』

 その言葉に口を噤む犬の新しい反応に

『あれ?もしかして禁句ワード…?』

 焦る猫に無反応に犬はベッドサイドへ料理を運んだ。

『あんた…本当に料理上手いんだな…。』

 溜息が出る程美味しそうな夕飯が並ぶ。丁寧な彩りの魚の煮付けに湯気の立つ味噌汁、ほうれん草の胡麻和えまでついている。猫は自分用であろう握り飯を掴み口に運んだ。

『美味ーい。アンタ良い主夫になるよ。』

 猫はニヤニヤとからかうような目線で犬へと身を乗り出した。無反応という反応を返されるが、懲りずに口を開けおかずの煮物を催促した。運ばれた人参はダシ味のよく効いた甘すぎない煮物で猫は満足げにおいしーと叫んだが、応対しない犬の様子に猫は口を尖らせた。

 せっかく美味いモノ食べてるのに、と腑に落ちない気持ちでおにぎりをもう一口食べると中からシャケとおかかの具が出てきた。こういう意味不明なウィットはあるのに、と猫は不可解な目で犬を眺めた。

『ごちそーさまでした。』

 ぺろりと平らげられた食器を下げに消えた犬は暫くして救急箱と洗面器持ってベッドサイドに戻ってきた。

『少し、我慢しろ。』

 そう突然、犬は猫の頬へ手を伸ばし顔を寄せた。

 犬の不意の行動を見送っていた猫も、その指先が頬に伸びた時、

『いっ…いたい…痛い!痛いです先生!!』

 剥がされる絆創膏の痛みに我に返った。やめろっー!そう叫んだ瞬間力任せに剥がされる。きいきいと叫び声を上げながらその手を阻止しようと猫はもがくが難なく押さえつけられる。

『このままでいい!触んな!めちゃ痛い!』

『腐らせる気か。』

 消毒液を仕込みませた綿が患部に触れる、低いうめき声を挙げ猫が硬直するがそれでも容赦なく処置は進められる。

『いっ…っ……んったい…』

『動くな、大人しくしろ。』

 傷口の処置が終わると濡れたタオルで顔を丁寧に拭かれる、最初は嫌がり顔を背けていたが犬があまりにも真剣に手を進めるため猫は少し抵抗を弱める。

『右手。』

 恐る恐る差し出した手の包帯を丁寧に外され処置が進められる。皮膚に吸い込まれる暖かい水分が気持ちよかった。

 きっと、こうして誰かにされた事があるのだろう。慣れてはいないが遣り方は知っているそんな手つきだった。

『あの…くすぐったいんですけど。』

 犬は冷静な声で大人しくしろ、と言い捨てシャツのボタンへ指をかけた。思わず短い感嘆詞が口から漏れ慌てて上体を起こす。

『何だ。』

『あ、いや…自分で…。』

『出来もしない事を言うな。』

 白いボタンが丁寧にひとつ一つ外されていく犬の指先を見つめながら猫は少し居心地が悪そうに目をそらした。恥ずかしいような、そう思う自分が浅ましいような、とにかく止めて欲しかった。抵抗しようと思っても身体のだるさについ無抵抗になりかける。

『身体起こせ。』

 そう背に手を回され硬直する事も出来ずゆっくりと犬の肩に自分の体重を預ける。ワイシャツを脱がされるがギブスがある為半分だけ脱がされた格好にされる。

『…何か、卑猥だ。』

 腹部の血の染み付いた包帯も丁寧に消毒液を染み込ませ、剥がされる。露わになる身体にはまだ痛々しく膿んだ傷や浅黒い打撲が残っていた。

『あーあ…痛そう…。可愛そう俺。』

 再び消毒液が腹部に触れた。いっ、激痛に咄嗟に犬の身体にしがみ付き言葉を失う、その反射的な己の反応に猫は赤面した。

『うっ……情けない。っア…やめっ………ぅ』

 表情とは正反対の優しい手付きで巻かれていく包帯を見下ろしながら成すがままにされている自分が気に食わないと反抗的な顔つきで猫は犬を睨んだが、なんだ他に痛い所でもあるのか、と真意がまったく伝わっていない返答が返され、猫はふて寝するように顔を反らした。

『薬飲んでおけ。化膿止めだ。』

 サイドテーブルに薬と水が置かれ、犬は道具を箱にしまい立ち上がろうとした。

『なぁ。』

 そう、猫の手が犬の服を掴んでいた。

『…ありがと。』

 猫は逸らした目を拗ねるように向けた。

『あぁ。』

 無表情に犬が少し頷く。その純粋な反応のむず痒さにあぁ畜生っ!、と叫び猫は布団を被った。犬にはやはりその行動の意図が分からなかった。



 何もない、変わるはずのない生活が、変わっていく違和感を犬も覚え始めていたその頃。

『暇ぁ、何かさぁ、面白い事ないの?』

 夕食後、台所で皿を洗う犬に猫がもたれ掛かった。猫の身体も回復を見せ歩行もだいぶ問題なくなってきていた。

『何だ。散歩でも必要か。』

 一人でそこらへんでも歩いてこい、手を振り犬は猫を追い払った。

『俺をペットか何かと間違えてねぇ…?』

『猫なんだろお前。』

 馬鹿野郎―と叫び犬の耳をひっぱる。

『じゃあ何がしたい。』

 洗い物を終えた犬は猫を払いのけながら居間のソファーへと移る、その横に猫も座り込んだ。

『俺さぁ、あんまり同年代の奴等と遊んだ事ねぇの、だから遊んでみたくて。』

 人生ゲーム?大富豪?と猫は身を揺らした。

『俺も知らない。』

 はぃ?と猫は目を見開きオーバーに仰け反るポーズを取りながら、

『…お前友達いねぇんでやんの。』

『お前に言われる筋合いは無い。』

 会話終了、とでも言うように犬は新聞を手に取り広げ猫を遮った。

『あ、じゃあ前話てた女の話しろよ。』

『…そんな話はない。』

 えぇーっと不満の声を上げ猫は新聞と犬の間に滑り込んだ。流石の犬も思わずぎょっとした表情で動きを止めた。

『なぁ、お前が亡くした愛しの君は、どんな奴だったの?美人?ロリ系?あ。軍部だと、ムキムキ系か。』

『明日は燃えるゴミの日だな。』

 はーいすいませんっ調子に乗りましたー、と茶化すが、犬は黙ったままだった。

『あらやだ、古傷が疼くの?リョウ君。』

『別に。』

 なんだよその反応、猫は執拗く犬の膝の上で暴れた。二度目は通用しなかったらしく無関心にその目は新聞へと向けられている。

『…アンタね。折角行きずりの人間が同棲してんだから少しはコミュニケーションとりましょうよ。』

 それとも、そう猫はわざらしく甘えるように首に手を回し、

『スキンシップの方がお好み?』

 わざと顔色を伺うように覗き込む猫を犬は新聞が読めない事に怪訝そうにしながら除けた。

『けーっ最悪、洒落も通じねぇのかよ。』

 猫はふくれっ面で頭を抱えた。

『人生死んでないなら笑わにゃ損ソン、軍部で教わらなかったのカナー?このメガネ野郎。』

 手探りで犬の眼鏡を奪い、その眼鏡を自分にかけレンズ越しに犬を眺める。

『返せ。』

 犬は思ったより意地に眼鏡を取り上げた。

『それ…度が入ってねぇよ、何でそんなモノ掛けてる。』

 猫は探りをいれるように犬へと目を細めた。

『…目が悪いからだ。』

 これ以上何も喋らない、と拒絶するような声色を含んだ返答を理解し、あっそ、と猫は仰け反り頬を膨らませた。

『いい加減どけ。』

『うるせぇ。こちとら重病人だ。』

 そのまま猫は寝る姿勢を取った。犬は重いと睨み肩を揺さぶるが、猫はガンとして動こうとしない。観念した犬は新聞を放り投げ、身動きの取れない体勢のままソファに身体を深く預けた。

 膝の上あたりが猫の体温で暖かくなってくる、こういう不思議な温度を自分は何度か知っている。

 しばらくの沈黙が流れると猫はどうやら本当に寝てしまったらしく、わざとらしい鼾は静かな寝息に変わっていた。仕方なく猫をソファへと退かし自分はベッドへと向う。最近慣れないソファーで寝ていたせいで少し寝不足気味だったのだ。

 久々のベッドに横になり布団をかぶった瞬間、ふと妙に甘い香りが鼻を掠めた。

『…これか。』

 ゼンが言っていた甘い匂い、おかげでやはり犬は寝不足だった。

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