第2話 バビロンシステム

 朝日奈が率いる不良集団「バビロン」は毎日のように昼休みになるとグラウンドのど真ん中を陣取りサイファーを続けていた。ボール遊びをするヤツらの邪魔になって仕方がない、本当に迷惑な連中なのだ。あいつら、よく毎日飽きずに続けられるよな… そんな事を考えながら教室の窓からじっと彼らの姿を眺めていた。相変わらず映斗はクラスの誰ともつるまず静かに昼休みを読書に費やした。まあ、読書と言っても少年エースを読んでいるだけなんだけれども。

 映斗は誰よりも平穏を愛している平和主義者なのだ。誰にも迷惑をかける事なんてない、ましてや喧嘩なんてもっての外。そんなものは低俗な不良どもの蛮行に過ぎない。


 その日の授業が終わり、「帰宅部」らしく俯きながら映斗が校門を出ようとすると、とんとんと背中を叩く者がいる。振り向くとそこに理奈がいて、背中には重たそうなギター・ケースを担いでいた。


「あれ? 理奈じゃん、今日、放課後の部活はなかったの?」

「うん、ドラムの佐野君が風邪で休んじゃってさ、ほら、リズム隊がいないと練習出来ないでしょ」

「あ、そうなんだ…」

「ねぇ、映斗! 今日、暇?」

「まあ、暇っちゃ暇だけど…」


 理奈は唐突に映斗の腕を掴んだ。その力は女子のものとは思えぬほどの荒々しさであった。理奈の腕っぷしも強くなったものである。


「え? なんだよ、ちょっ」

「いいから来い!」


 腕を引っ張られるがまま駅前のハンバーガーショップ「RGTOバーガー」の店内に入る。訳の分からぬまま、とりあえず映斗はハンバーガーとコーラのセットを注文した。理奈も同じものを注文した。


「ねぇ、映斗… お願いがあるんだけど」

「何? お願いって。やだよ」

「ちょっと、まだなんにも話してないでしょ。そんな事言わないで聞いてよ、ほら、朝日奈たちのグループ、いるでしょ」

「え? ああ、う、うん」

「あいつらさ、最近ね、音楽室を支配してね、ろくにバンドの練習も出来ないのよ、それで困っていてね…」

「へぇ、そうなんだ… そりゃ大変だな。音楽室は軽音部の部室じゃないのかよ」


 先程、理奈は映斗に嘘をついていた。ドラムの佐野は風邪をひいていたわけではなかったのである。実は音楽室を朝日奈率いる「バビロン」に占拠され軽音楽部のメンバーは練習する機会を失っていたのであるが、そんな事を映斗は露ほども知らない。理奈はぐいっと身を乗り出して突っかかってきて、その勢いに圧倒された映斗は思わずたじろいでしまった。


「それでさ、映斗にお願いなんだけど、あいつらに文句言って、部室を取り返して欲しいのよ!」

「ええっ!? なんで俺なんだよ!」

「だって映斗、男子でしょ!? ガツンと言ってやってよ、あいつらにさ!」

「嫌だよ、あんなヤンキー… 相手は3年だろ? 他のヤツに頼めよ」

「こんな事頼めるの、映斗ぐらいだからさ。とにかくさ、明日の放課後、部室見に来て欲しいんだよね」

「ええっ!? 明日!? ホント急だな」

「絶対、来てよ、お願いだから」


 突拍子もない言い草ではあるが、理奈の勢いも凄まじいものがある。小学校時代からの幼馴染だ、袖にするわけにもいかないだろう。


「え、あ、う、うん… わ、わかったよ、行けばいいんだろ」

「絶対だからね!」

「う、うん…」


 理奈に押し切られ二つ返事で用件を引き受けたものの、上の空で聞いていた映斗の心にはぽっかりと空洞が空いていて、そこからびゅーびゅーと隙間風が吹き込んでいる。眼は凛として真っすぐに理奈の瞳を見つめていたのであったが、実際には映斗の眼には何も映っていなかった。

 厄介だな。それだけが映斗の頭の中で蠢いていた。誰しもそうなのだが、面倒な事には出来る限り関わりたくない、それが人間の深層心理なのだ。しかし、次の日、映斗はもっと厄介な事実に直面する事になるのである。





 次の日、約束通り放課後になると、映斗は理奈と一緒に音楽室に向かった。音楽室の前には佐野、小林、青木といった軽音楽部のメンバー3人が血まみれになって織り重なり合うようにして倒れていた。それは見るに耐えない惨憺たる光景だった。映斗は駆け寄りドラム担当である1年生の佐野を抱き起こすと、眼の周りに痣が出来ていて明らかに殴られた形跡がある。唇の端は切れていてそこから血が溢れだしていた。


「おい、一体何があったんだ! 佐野!」

「ああ… 映斗か、やられた… あれを見ろよ…」


 佐野が示した人差し指の先には「ヒップホップ研究会」の貼り紙があった。朝日奈の連中が勝手に貼りつけたのである。


「今日さ、朝日奈たちがいきなりやって来て俺らを殴りつけて部室を占領しやがったんだよ。軽音部の俺らから金を巻き上げてさ」

「なんだって!? それじゃ完全に奴隷制度バビロンシステムじゃねぇかよ!」

「そうだよ、部室は完全にバビロンに制圧されたんだよ!」

「何がヒップホップ研究会だ、ふざけやがって!」


 映斗が勇んで部室に乗り込もうとすると、理奈が腕をぐいっと掴んで引き留めた。理奈は首を横に振った。


「ダメよ、映斗。相手は15人もいるの。明らかに分が悪いわ。部室は完全にバビロンの支配下にあるのよ。今、行っちゃ危険だよ、返り討ちに合ってしまうわ!」

「だけど… こんな状況、黙って見過ごせるのかよ! 怪我人だって出ているんだぞ!」

「うん、わかってる。でもこれは仕方がないの…」

「理奈…」


 理奈は悔しそうに顔を歪めていた。幼馴染である理奈のこんなにも悲しい表情を見るのは滅多になく、映斗には耐えられなかったのであるが、これは決して恋愛感情などという思春期特有の腑抜けたスウィートな妄想によって引き起こす衝動ではなく、本来から備えている彼の正義感からふつふつと自然に湧き起こる純粋な衝動であった。そういう事にしておいてあげよう。


「わかった。理奈、状況は大体把握した。ちょっと作戦を練ろう」

「えっ? 作戦って?」

「バビロンから部室を奪還するんだよ! システムをダウンさせるんだ! システム・オブ・ア・ダウンだ!」

「システム・オブ・ア・ダウン?」

「ああ、そうだ! とりあえず理奈、ちょっと付き合ってくれ」


 理奈と一緒に駅前の「RGTOバーガー」の店内に入った映斗はテーブルに着くや否や口を開いた。


「俺は決めた。バビロンから部室を奪還する」


 そもそも軽音楽部でもない映斗は何をこんなにも執念に燃えているのだろう、それは本人にもわからなかった。しかし映斗は正義感だけは誰にも負けない青年だったのである。それくらい称えないと報われないではないか。


「でも、どうやって!? 相手は凶暴なヤツらが15人もいるんだよ。歯向かったら何をされるかわからないわよ」

「うん、それは俺もわかっているよ」

「じゃあどうやって!?」

「とりあえず、明日の放課後、リーダーの朝日奈を呼び出そう」

「でも… 朝日奈はそんな話し合いが通じるような相手じゃないわ」

「うん、それは俺だってわかっているよ、だけど俺にはひとつだけ良いアイデアがあるんだ」

「え? アイデアって?」

「ここからは俺がひとりでなんとかするから! この件は俺に任せろ!」

「う、うん… 本当に大丈夫?」

「ああ…」


 健気でか弱い女子の… いやいや理奈はそのような類ではないが、一応女子の手前でカッコつけて言ってはみたものの、実際には映斗の頭の中はアイデアなど皆無であり空っぽの抜け殻になっていた。だけど一度吐いてしまった唾を飲み込む事は出来ないのである。翌日、映斗は体育館の裏に朝日奈を呼び出す事にした。玄関の靴箱に「明日の放課後、体育館の裏で待っている」との手紙を放り込んだ。





 放課後、体育館の裏で朝日奈がやって来るのを映斗は待ち伏せした。すると、朝日奈ではない人物が体育館の陰からにょこっと現れた。ツインテールを振り乱し、笑顔を振り撒きながら近付いてくる。理奈だ。


「心配だから、来ちゃった」

「ったく… 大丈夫だって言ってるのにさ」

「一応さ、相手も相手だしさ、何があるかわかんないじゃん…」


 それから待つ事15分、約束通り朝日奈はひとりで体育館の裏に現れた。映斗が朝日奈と対峙するのは初めてだったのだが、チリチリに当てられたパーマ、鼻に嵌め込まれたピアス、耳にも幾つものピアス、レーザーポインターのような鋭い眼光、その威圧的な佇まいに飲み込まれそうだった。まさに「蛇に睨まれた蛙」といった状態である。だが、このまま竦んでいてはいけない、翻って映斗は声を振り絞った。


「急に呼び出して悪いな、朝日奈。俺の名前は鏡映斗だ!」

「誰だよお前! どこの馬の骨だか知らねぇが、このアサシン様をこんなところに呼び出した上にタメ口をきくなんざ、大した度胸じゃねぇか。ボンボクラッ! スクール・カーストに反してるんじゃねぇのか? はぁ? ? 俺は別にお前なんかに?」

「俺がお前に話があるから呼び出したんだ! 音楽室の件だが、あそこは軽音楽部の部室だ! 勝手に『ヒップホップ研究会』なんざ看板を掲げてもらっちゃ困る。速やかに撤退してくれないかな? 軽音楽部が練習出来なくて困っているんだ」


 鬼のような形相で捲し立てる映斗の背中に隠れるように理奈は縮こまっていた。理奈はマンゴープリンのようにぶるぶると小刻みに震えている。


「ふっ、馬鹿馬鹿しい。音楽室はすでにバビロンが支配した。つまり俺らバビロンが支配者だ、ハッハッハッ!」


 映斗はグッと拳に力を込めた。こんな不良どもにデカい顔されて易々と音楽室を乗っ取られてたまるもんか。ここでもまた、単なる帰宅部のくせに正義感に燃える映斗だったのであった。


「おいっ! お前らバビロンがだって? こっちにはがいるんだ! ! 勝負しろ!」

「おやおや、暴力で解決しようと思っているのかい? 下級生が上級生に対して暴力を振るう、それこそスクール・カーストに反しているのではないのかね、ハッハッハッ、面白い、受けて立ってやろうじゃないか。ただし条件を付けてやる。この俺とラップ・バトルで勝負しろ!」

「なんだと!? ラップ・バトルだと!?」

「そうだ、その通りだ。お前がこのアサシンにラップ・バトルで勝ったら音楽室は軽音楽部に返してやる」

「何っ!? それは本当だろうな?」

「ああ、約束してやる、フッハッハッ。ただし決戦は1ヵ月後だ! 1ヵ月後の金曜日、校舎の屋上で俺とラップで勝負するんだ。鏡映斗よ、それまでにフリースタイルのスキルを精々磨いてこい!」

「面白いじゃねぇか! やってやる! ラップ・バトルで白黒つけてやろうじゃねぇか!」


 近代史で周知の通りベルリンの壁やら天安門事件やら革命には必ずと言っていいほど血生臭さが付いて回るものであるのだが、血も流さない改革、すなわちラップ・バトルは健全・明朗・快活な競技なのである。時は平成、すっかり平和な時代になったものである。昔の不良漫画のように暴力で押さえつけるようなバトルだけではない、口喧嘩だって十分バトルとして成立するのである。それがラップ・バトル。映斗の耳元で理奈が小声で囁いた。


「ねぇ… 映斗、そんな事言って大丈夫なの?」

「大丈夫だよ、理奈。1ヵ月で練習して必ずアサシンを倒すよ」


 朝日奈は踵を返してその場を立ち去った。その背中には悍ましい龍の紋章が輝いている。映斗はそのうねる龍の残像を眼にしっかりと焼き付けたのであった。だからと言って映斗に何か勝算があるわけでもなく、頭の中では逡巡していた。ただ荒涼だけが頭の中を駆け巡っていたのだけれど、もう後戻りは出来ない、1ヵ月以内にフリースタイル・ラップを修得しなければならない。

 その時、頭の中で閃いたのは今井源一郎だった。ここはひとつ借りを作る形にはなってしまうが、源一郎に頭を下げてでもフリースタイルを教えて貰うしか方法はない。本音を言ってしまえば、そんな事はしたくはないけれど、ここはプライドもへったくれもない、理奈と軽音楽部の命運が映斗の双肩にかかっているのである。


「理奈! 駅前のロータリーに行くぞ!」

「え? ちょっ映斗、急にどうしたの? 駅前のロータリーに何があるの?」

「いいからっ!」


 映斗は理奈の手を引っ張りながら駅前まで走っていった。そこには源一郎と吉田がいつものように2人でサイファーをやっている姿があった。相変わらず源一郎は弛んだ腹でどうにもだらしがない。何を喰ったらこんなにも太るのであろうか。それでも映斗は恥を忍んで巨漢を揺らしながらラップに熱中している源一郎に頼み込むしかない。


「おーい、ゲンちゃん!」

「ああ、映斗か、また理奈と一緒にいるのかよ、お前ら中学の頃から仲いいよな、付き合っちゃえばいいんじゃないの?」

「違うんだ、ゲンちゃん。今日はそんな話じゃないんだ」

「へぇ、どうしたんだ、映斗?」


 映斗は精一杯の声で張り叫んだ。胃袋が捻じれるくらいの勢いで声を振り絞り懇願したのである。


「ゲンちゃん、お願いだ! 俺にフリースタイルを教えてくれ!」


 源一郎は舌なめずりをしながら、にやりと口元を緩めた。不敵な笑みを浮かべる男である。


「へぇ、意外だな。一体どういう風の吹き回しなんだい?」


 映斗は源一郎にすべての事情を話した。音楽室がバビロンシステムの支配下にある現状、軽音楽部がヒップホップ研究会に乗っ取られて練習が出来なくて理奈が困っている事、1ヵ月後にアサシンとラップ・バトルで決闘する約束をした事。


「なるほどな、そんな事情があったんだな」

「頼む! お願いだ! 俺にフリースタイルを教えてくれ! なんでもするから、この通りだ、お願いだ!」


 映斗は源一郎に対して深々と頭を下げた。こうでもしないと源一郎の心は梃でも動かない、この男はそういうヤツだ。源一郎は腕組みをしながら映斗を睥睨する。


「そうか、なんでもするんだな。じゃあ、俺の靴を舐めろ!」


 頭を下げた映斗の視線の先に源一郎の靴があった。なんという非道な男なのだ、源一郎は。「源一郎ガム停学事件」の頃から一向に更生していないではないか。それどころか県内最悪のノトーリアス学園に入ったせいか、益々、腐った性根が研磨され冷淡に尖ってしまっているではないか。しかし、映斗には手段を選んでいる猶予などない。


「わかったよ、靴を舐めればいいんだな」


 すると源一郎が白い歯を見せながら笑みを零した。


「ハッハッハッ、冗談に決まってんだろう。いいよ、映斗がやる気になってくれて俺は嬉しいよ、これから毎日、一緒にサイファーやろうぜ!」

「ありがとう、ゲンちゃん!」

「その代わり、練習は厳しいぞ! ラップはレベル・ミュージック(反逆の音楽)なんだ! 映斗には反逆心があるか?」

「ああ、俺にはある。どうしても戦わなくてはならない理由がある。それが俺の反逆心だ!」

「よし、その覚悟があるんだったら俺もひと肌脱いでやろうかな、ハッハッ、なんてね」

 

 理奈も一緒に喜んでくれた。満面の笑みを浮かべている。


「ねぇ、映斗、私も一緒にフリースタイルの練習するから、がんばろっ!」

「うん! ありがとう、理奈!」


 その日を境に映斗と理奈はフリースタイルの猛特訓に励んだのであった。しかし源一郎のフリースタイルの特訓は鬼教官とも呼ぶべき、忌むべき厳しいものであったのはその時は知る由もなかったのである。

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