フリースタイルの鏡

川上 神楽

第1話 西海岸から愛を込めて

 この町の海は麗らかな蒼さが眼に染みる。押し寄せる波の音がアルペジオのように心地よく鼓膜の奥に浸透していき、ひやりとした湿り気を帯びた潮風が鼻孔の粘膜を柔らかく刺激する。遠浅の海は夏になると海水浴に訪れる観光客で賑わい、グラスビーズを敷き詰めたような美々しい白浜が広がっていた。

 その海岸沿いに聳える県立西海岸ウェッサイ高校に通う1年生の鏡映斗かがみえいとはクラスの中でも真面目な青年だ。勉強の成績も優秀、律儀で正義感に溢れる青年だが、大体においてそういう青年はコミュニケーションを取るのが苦手な方であり、漏れなく映斗も例外ではない。あまり友人が多い方ではなかったのである。

 「真面目くん」なんて皮肉ったあだ名を付けられるほど寡黙な映斗だが、当の本人はそんな事もあまり気にせず休み時間になればいつものように教室の隅っこで、ひとり静かに趣味の読書に耽る毎日を過ごしていた。

 そんな映斗にも唯一、心を許している存在がいる… それは幼馴染の風間里奈かざまりなである。生徒数の少ない小さな田舎町とはいえ、理奈とは小中高と通じてなぜかずっと同じクラス。特にお互い恋愛対象といった思春期特有の呪縛に惑わされて足を取られつまずいてしまう事はなかったとはいえ、それは切れない糸で結ばれた腐れ縁みたいなものだ。だけど映斗と理奈はまったく対称的な性格なのである。

 寡黙な映斗とは違い、理奈は軽音楽部に所属していて、明朗活発、社交的な性格で溌剌としていて、クラスの人気者だった。得意のエレキギターの腕もなかなかのもので、肩筋まで伸びたツインテールを靡かせながら激しくフェンダーのストラトキャスターを掻き鳴らす姿が映斗には眩しく見えた。俺も理奈みたいにカッコ良くギターが弾けるようになったらいいのになぁ…。 

 決して言葉では伝えられないけれど、心の中ではずっと密かにそう思っていたのである。小学校の頃は理奈の胸はぺったんこだった。ぺったんこの頃からの長い付き合い。いつの間にか理奈の胸は風船のように膨らみ今でははち切れんばかりに胸が膨らんでいる。映斗の頭の中の妄想も膨らんでいく。小学生の頃は一緒に手を繋いで学校に通っていたものだ。だけどいつの間にか異性として意識するようになって… いかん。これは一般的に恋愛感情なんて呼ばれるいわゆる盲目的でメルヘンな妄想なんかじゃないぞ、と映斗は心の中で自分自身に言い聞かせていたのだけれど。いかんせん高校生ともなると不埒な妄想が時折脳裏に過ぎり、理性的な人格の形成を妨げる。ああ、もどかしい。

 

 昼休みになると廊下を駆ける靴音が響き渡り、一斉にがやがやと騒がしくなる。昼食を済ませると一斉にクラスのみんながグラウンドへと駆けていきバレーボールで遊んだり、サッカーをしたり、みんな楽しそうに過ごす。その一方、グラウンドの中央では黒山の人だかりが出来ていて、輪になってラップの練習をしている連中もいる。校内を跋扈する不良集団バッドボーイ15人のグループ「バビロン」だ。

 どいつもこいつも悪そうな面構えだがその中でもひと際目立つ、背中に龍の刺繍を誂えた制服を着ている飛び抜けて悪そうな青年がいる。それが、この不良集団を束ねているリーダー格、3年生の朝日奈神あさひなしんであり、彼は自らの名前を略して「アサシン」と名乗り、不良集団「バビロン」を代表レペゼンしていたのである。

 朝日奈は学校中の3年生から1年生に至るまでの不良どもを掻き集めて統括し毎日のようにラップの練習に明け暮れていた。学校に無断でステレオを持ち込み、大音量で流れる音楽のビートに合わせて躍動感の溢れる言葉が躍る。


「HEY YO言いたい事は、フリースタイルは、お前はかかってる、鐘が鳴るのさ…」


 あまりの大音量のせいで昼休みの校内放送のJポップのメロディも掻き消されてしまう。全く以って迷惑な連中なのである。そんなグラウンドの喧騒を映斗は3階の教室の窓からぼんやりと眺めていたのだ。


「ねぇ、何見てんの?」


 女子高生が持つ食虫植物のような甘い香りに誘われた翅虫のように振り返るとツインテールが立っていた。まあ大体においてヒロインはツインテールが定番なのだけど、この物語もまた例外ではない。


「なんだよ、理奈か、ほら、なんか騒がしいな、って思ってね…」

「ああ、あれね、サイファーやってるのよ。今ね、人気あるみたいだよ、フリースタイル・ラップ。即興であんな風にラップで会話するんだよ」

「あんな不良どもがのさばっているんだな」

「そうね… 朝日奈たちのグループだよね。なんか街のバッドボーイをレペゼンとかなんとか言いながら校内を肩で風を切るように悠遊と闊歩しているの」

「なんだよそれ、どうしようもねぇな。それじゃ学校の風紀が乱れるじゃないか」

 

 映斗が律儀で正義感に溢れる青年である事は先述の通りだ。だからと言って1年生の映斗が3年生の朝日奈に何か文句を言えるような立場でもなければ、そんな勇気すら微塵もない。下から上に従う定め、それがスクール・カーストというヤツなのである。学校のみんながスクール・カーストに縛られて高校生活を送っていた。


 下校の時間になると、いわゆる「帰宅部」の映斗はいつものように鞄を肩に担いで忙しなく駅に向かったのだが、駅前のロータリーに差し掛かると、2人でサイファーをやっている高校生に遭遇した。こんな人通りの多い駅前でもこんな事をやっている連中がいるのかよ、あの2人の制服から察するに、あれはノトーリアス学園の連中だろうな…。

 ノトーリアス学園は県内東地区イーサイに位置する高台の場所にあり、県内随一の不良の巣窟とも呼べる底辺の高校だったのだ。東地区は県内でも特に貧しい暮らしをしている人々の居住区で在り、県内屈指のスラム地区でもあるのだ。そんな連中には出来るだけ関わりたくないな… そう思いながらイリオモテヤマネコのように気配を消した映斗が通り過ぎようとすると、声を掛けてくるひとりの巨漢がいた。まったくだらしのない図体で腹の弛んだ贅肉は制服のズボンのベルトの上に乗っかている。体重は優に100kgを超えるのではないだろうか。何を喰ったらそこまでだらしなくなるというのだ、まったく。でもそんな肥えた高校生はこの町にはそうそういない、その巨漢に映斗は見覚えがあった。


「お~い、久しぶりだな、映斗じゃないか」

 

 その声の主はノトーリアス学園きっての不良である今井源一郎いまいゲンイチロウその男であった。映斗と今井は中学校時代、同じ学校に通っていたのである。しかし今井のそのしゃがれた声がまとわり付いて、映斗の脳裏にカレーうどんの汁のように染み付いた、忘れたくてもなかなか忘れられない中学時代の嫌な過去を呼び起こさせた。

 それはある日の国語の授業での出来事。源一郎は普段から授業中でもガムをくちゃくちゃと噛んでいるような、どうしようもないクズ野郎なのだが、ちょうどその前の席に座っていた映斗に、「黒板が見えない」という理由だけで背後から髪の毛にガムをペッと吐き付けたのだ。源一郎とはそのような非道徳的な男であり、映斗の髪の毛に絡みついたガムが取れなくなってしまう。映斗がその事を先生に告げ口すると大問題となり源一郎は一週間の停学処分を喰らってしまう事になる。これが言わずと知れた「源一郎ガム停学事件」の真相なのである。

 しかし、転んでもただでは起き上がらぬ源一郎の事、停学が明けると映斗に対する嫌がらせは日々エスカレートしていったのである。時には背中に拳骨を入れられる、時には太腿を膝蹴りされる、時には髪の毛を引っ張られる、そんな理不尽な事があってたまるか、そう思いながら過ごした中学時代の想い出は映斗にとっては黒歴史だったのだ。一番会いたくないと思っていた存在であるのだけれど、声を掛けられてしまったからには仕方がない。映斗は精一杯の笑顔ではにかんだ。


「なんだよ、久しぶりだな、ゲンちゃんじゃんか」

「おうっ、久しぶり! 映斗だよな」

「ああ、久しぶりだな、こんなとこで何やってんだ?」

「これな、サイファーやってんだよ、ああ、こいつは吉田っていうんだけどさ、2人でサイファーやっててもつまんないしさ、やっぱ人数が多い方が楽しいだろう? だからさ、映斗も一緒にやらないかな? なんてね、ハハッ」

「なるほどな、俺も知ってるよ、うちの学校でもやってるヤツいてるからさ。でも… 俺、ヒップホップとかあまり詳しくないし、それに… 音痴だし、あんまり人前で歌った事もないからな… 自信ないんだよね」

「大丈夫だよ、映斗。俺らだって高校に入ってからフリースタイル始めたんだからさ、みんな初心者だよ」

「ふ~ん、そうなんだ。あ、でもワリぃ、今日は用事があるんだよね、また今度にしてくれよな」


 そう言うと映斗は足早に駅の改札へと向かった。出来るだけ視線を合わせずに自然体を装って。そういう事に関してはお手のもんである。


「え、あ、ちょっ映斗!」


 まあ、別に大して用事なんかないのだけれど、そう言って去るのが無難だろう。とにかく映斗は今井源一郎とはあまり関わりたくないのである。映斗は逃げるように走り去り、電車に飛び乗った。


「ただいま、母さん!」

「おかえり、映斗」 

 家に帰ると母の鏡美奈代かがみみなよが夕御飯の支度をしている。こんがりと焦げた魚の匂いに猫のように映斗は鼻をひくつかせる。食卓の横にあるテレビでは夕方のニュース番組が放送されていた。毎日のように各局で似たようなニュースが公共の電波から伝播していく。


 ――今、中高生の間でフリー・スタイルラップが爆発的に流行しています。放課後になると駅前や公園でラップの練習をする学生が多く、いまや中高生の間では「即興でラップが出来るのが当たり前」になってきていて、それはもはや社会現象とも言えよう―― 


 そんなセンセーショナルな内容のニュース番組だった。美奈代はそれを横眼でちらりと見ながら映斗に尋ねる。


「ねぇ、こんなの今、流行っているの?」

「うん、そうみたいだね、母さん。うちの高校でも流行っているみたいだしね…」

「映斗もやってみたら? ラップ…」

「ええ? 俺、そんなの全然、興味ないからなぁ、別に流行りに乗っかるつもりなんてサラサラねぇし。こんなのきっと不良がやるんだよ。あ、でもさ、今日ね、駅前で今井に会ったんだよね、ほら、中学ん時、同じクラスのゲンちゃんだよ」

「ああ、あの不良の今井君ね、あんなやんちゃそうな子がラップをやってるのかしら?」

「うん、そうみたいだね」

「よく昔『今井君に虐められた』って言って泣いて帰ってきてたよね… 映斗…」

「うっるせぇよ! 母さん」


 一番触れてはいけない映斗の黒歴史に美奈代は、ずかずか土足で踏み込んでくる。デリカシーというものがない、まあ、母親なんて大体そんなものかも知れないな。確かに映斗と今井は犬猿の仲であった。傷口に塩を塗り込むような美奈代の一言が気に障る。なんで源一郎が西海岸の駅前でラップしてんだよ、ふざけやがって、ああ、イライラする。

 しかし、映斗も眼の前にある焼き魚が誘う匂いの誘惑に抗う事は出来ない、ぐうっと腹の虫が鳴いた。空腹には逆らえない。

 もやもやとした気持ちを抱えながら映斗は一気に白飯を掻き込んだのであった。

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