三人

絆アップル

某人

 北に住んでいた某人はいつも百パーセント己の為に絵を描き句を詠んでいた為に、己の為に描くのも詠むのもできなくなるのは当然のことだった。

 某人の句や絵にはいつもひっそりとある人の為にわざわざ付け加えている決まりのような色があり、それが例えこの世が三度引っ繰り返ってある人御本人のお目に触れるような奇跡が起こるとも起こるまいとも某人にそれを辞めることは出来なかった。 古本屋で百円か二百円かである人の書いた小説のペーパーバックを買って夏中それを読む内に某人の句は絵は色を帯び始め、とどまるところを知らなくなった。四年ぐらい前の話である。

 ところがある日何気なく気まぐれに初めて手に取ったその作家の小説以外の本――エッセイだった――を読んだときに作家には夫人が居ることを知り、某人はあっさりと何も詠めなくなってしまったのである。某人とてその作家に出会う前から季節の事物や花や虫や光を追うことはすきであり、それを紙に描いたり墨でしたためたりするのはすきであったのだが、けれどぱったりと出来なくなってしまった。絵筆を手に握っても筆を手に握っても浮かぶのは見たこともない作家の顔と夫人の顔ばかり。


 某人の家から南に百米ばかり歩いたところに遊具と砂のある公園がある。夏になるとよく男が夜更けからベンチで寝泊まりしていた公園でありそれを知っていたので某人はずっと此処を避けていたのだが、こんな昼日中なら大丈夫だろうと思ってふらりと立ち寄った。子どもの姿もなく人ひとりもいなくおかしいな、と考えてから今日が水曜日だと思い当たり某人はそっとベンチに座った。男がいつも寝ていた場所に座りこんでみると、思っていたほど特別な感情は湧かず、ぼんやりと砂場を眺めるうちに雲がいくつも過ぎ去った。某人は男のことを詠んでみようと思った。最初の言葉を選ぶのだが暫く考えても何も浮かんでこない。某人が目を閉じると浮かぶのは冬景色だけであった。

 男は冬になると片道四百円ばかり行った先の駅の改札を抜けて何本も広がる地下道の端で寝ているのであり、傍らには家出をした高校生の女がいたりずっと帰る家のない初老の男がいたりする。高校生の女は円筒形のスナック菓子の空き缶を自分の寝ている横へ立てて自分の場所を主張して寝ていた。男は女からやや離れた場所で眠り朝まで何もしない。そうして諦めて切符を買って家に帰り、夏がくると公園で寝る。

 男は何不自由ない暮らしを送っていて仕事をしていなかった。


 某人はあの公園を含めてこの街の何もかもが嫌いであった。生まれ育ったこの街はどこを歩いても某人の記憶に何かしらを呼び起こさせそれがちくちくと胸に刺さるのであった。気晴らしの為の散歩が気晴らしにならず、溜息を吐くことも忘れ虚ろに歩いていると川べりに辿り着く。彼岸花の真っ赤な群れが憮然と咲き誇っていて、ふと句を詠みたくなった。散文でもいい、作家の女がなんだ、私は元来歌人であるぞ。

 それでも恒久的に流れている水を眺めている内にたちまち悲しくなってきてまた虚ろな歩みに戻って家に帰った。

 某人は家も嫌いだし部屋も嫌いだったのに引っ越すことができなくてそのことでよく笑っていた。道の途中にある店で牛乳を買い、飲みながら歩いていると腹が痛くなってきて、わざわざ用意して持ってきた小銭がポケットの中で歩く度に鳴る。腹の痛みよりもその音がよっぽど気になって藤棚を睨みつけながら歩くと向こう側から自転車でやってきた知らない老人と目が合って気まずくなった。だからと言ってどこか別の街がすきなのかと聞かれれば某人には答えがなかった。


 ある時いつもと違った方へ散歩に出ようと思った某人は西へ向かった。西には男の家があり、歩くだけで男の手の指の数や匂いを思い出してしまうので某人は避け続けていた。男と別れてから某人の行動範囲は近所なら極めて狭くなり遠方なら広くなった。この街を歩くときはいつも緊張する。けれどその日は珍しく気分もよく近場の西方へ歩きだしてしまった。すっかり油断して駅へ着き、階段を上がって南口から北口へ渡るとロータリーに男が立っていた。目が合ったような合わなかったような気がした。胃から何かがせり上がり、心臓が破裂しそうな程痛み激しく速く鼓動を打った。熊から逃げるようにそっとそろりとそろりと脇を抜けると努めて静かにロータリーを抜けて角を曲がった某人は一目散に走り出した。

 何年も走っていなかった体が信じられない程よく動いて走りに走った。できるだけ速くできるだけ遠くへ体が心を急き立てているのか心が体を急き立てているのか分からないまま走りに走った。長くはもたず二百米ばかり走ったところでそれ以上は苦しくなって歩きながら後ろを振り返ると誰もいなかった。それでも安堵はできずそこから家へ帰る十数分ばかりずっと落ち着かなかった。歩きながら果たしてあれは男だったのだろうかと何度も思った。見間違いではないだろうかと。しかし自分があの男を見間違えるとも思えなかった。そして男が其処へ立っていた理由も分からなかった。夏の夜に公園で出くわすよりずっと恐ろしい気がした。

 さて家へ帰ってくるといつもと同じ二十年間変わらぬ匂いがしてうんざりしながら部屋へ上がり、汗をかいた服を着替えるとやっと安堵して心がいくらか落ち着いた。ベッドの上に寝転がり宮に並べてある作家の本の背を指でなぞった。捨てることはできなかった。今日なら何か描けるのかも知れない。何か詠めるのかもしれない。そう思うとうとうとと眠くなってきた。今日ならば今日ならばと思いながら枕代わりの座布団に顔をうずめる。足の痛みが頭痛に変わりやがて全身がけだるくなった。それでも某人は深く眠ることはできず、眠ったか眠らないか、空が白み始めた頃にベランダへ出た。

 細い煙草に火を点けて深く吸うとこれは全くの偶然で気にすることはなかったのだが男の精液と全く同じ匂いがした。あまりに同じなので初めてこの銘柄を吸ったときは驚いたが某人はすぐにこの味を受け入れた。こういうこともあるのだ、と平凡な感想を持った。走りに走った私とこうして吸っている私とは同じ生き物でだから、男のことも嫌いになれなかったし夫人のことも作家のことも嫌いになれなかった。その三人を嫌ってしまうと某人は生きている人間を全員嫌ってしまうような気がして勿体なくてできなかった。

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三人 絆アップル @yajo_gekihan

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