第8話 恋する月長石の強かな戦略4

 食器や土鍋を片付け終えた頃、将人はなかなか本題を言い出さない光に問い質すことにした。

「なぁ、長月。あんたがここに来た本題は何だ?」

 土鍋を乾かすために、キッチンの隅にチラシを敷いていた光に問う。彼女は作業を終えると、将人に向き直った。

「あなたを心配して来たのは事実ですのよ」

 そう告げて、上品に微笑んでくる。そのまま光は続ける。

「本当に独り暮らしをしているのか、確認したかったのです」

「確認をして、どうするつもりだったんだ?」

 ちゃんと独り暮らしができているのかを確認したかったわけではあるまい。他に意図はあるはずだ。

 光はにこやかに答えた。

「わたくしのお願いをきいていただけるのではないかと思いまして。あなたがここにいることをご家族に知られるわけにいかないのであれば、嫌とは言えないかと」

「おれを強請ゆするつもりなのか」

 始終にこやかなのがかえって不気味だ。

 ――何を要求するつもりだ?

 光が将人の弱みを握ることで得られるメリットがどこにあるのかわからない。彼女が将人を敵に回したくない気持ちは多少理解できるが、有益になるとは思えなかった。

「端的に言えば、そうなりますね」

「ふぅん」

 あっさりと認める光に近付いて、彼女の行き場を奪う。将人は光の背後にある壁に両手を置いて、じっと見下ろした。

「どんな願いを頼むつもりなんだかは知らんが、おれがおとなしく頷くとでも思ったのか? おれのテリトリーにあんたはいるんだ。おれが何をする人間か、あんたはわかっていたよな?」

 脅しているつもりだが、光の見つめ返してくる瞳には揺らぎがない。覚悟を決めている目だ。

「わたくしを抱きたいのなら、強引にそうすればいいではありませんか。但し、そのときはしかるべき場所に駆け込むつもりですけど。都合が悪くなるのは将人くんの方ですよね?」

 その台詞を言わせたのは自分だ。だが、将人は胸がチクリと痛むのを感じた。

「……そういう身体の張り方をするなよ」

 光の顔に掛かっていたおかっぱ髪の先を払って、頬に触れる。その拍子に彼女がぴくりと動いたので、警戒されていることはわかった。

 ――恐怖で震えることはないみたいだな。

 あくまでも警戒であって、拒絶ではない。それが将人には少々不思議に感じられた。

「長月。あんたは自分を大事にしろ。あんたに冒険は似合わない。それに、おれを信用するな。大怪我しても知らんぞ」

 親指で頬を撫でてやると、光はくすぐったそうに目を細めてから唇を動かした。

「どうしてわたくしの身を案じてくださいますの?」

 ――どうして?

 光の問いを心の中で繰り返す。素直に思ったままを口にした。

「幼なじみで、近い将来に親戚になる相手だからだ。それをさっ引いても、世話を焼いてくれる人間を無視することができないってだけだと思う」

「そう……中身は変わっていませんのね」

 将人が頬に触れている右手に、光は自分の左手を重ねる。

 彼女の指先はひんやりとしていて、綺麗な造形は繊細なガラス細工を連想させた。乱暴に扱ったら、すぐに壊れてなくなってしまいそうな――。

「ここにいるのは、わたくしが知っている将人くんですわ」

 そんな台詞を告げて優しく微笑まれてしまうと毒気が抜ける。将人は小さくため息をついた。

「ったく、あんたが相手だとやりにくいな。少しは恐がれよ。宝杖学院の連中も避けて通るくらいなんだ。この距離に追い詰めているのにそんな調子じゃ、こっちのペースが乱れる」

「そもそも、わたくしは将人くんを避けるようなことはしていませんわ」

「へいへい。確かにおっしゃる通り。――で、お願いってのは何だ? 耳くらいは貸してやる」

 聞かずにうやむやにすることも考えたが、それでは喉に引っかかった小骨みたいで気持ちが悪い。どんな無理難題だとしても、話くらいは聞いておこうと将人は思った。聞き入れるかどうかは、内容次第だ。

 光は重ねていた手を離すと、真面目な表情を浮かべた。様子を窺うような間があって、やがて喋り出す。

「……わたくしがお願いしたいのは、紅ちゃんを泣かせるような真似はしないで欲しいということです」

 意外な台詞に、将人は一瞬言葉を詰まらせた。

「えっ? ……紅のために、こんなことをしたのか?」

「紅ちゃんのためだけではありませんわ。わたくしはあなたの恋路を邪魔するつもりはないのですから。ただ、紅ちゃんの近くにいたいと願っているのでしたら、彼女を泣かせないで欲しいのです。そのくらいなら、将人くんもできるでしょう? 守っていただけるのであれば、あなたの家族への連絡はしませんし、出来る限りの協力はいたしますわ」

 必死さの感じられる訴えに、将人は戸惑う。すぐに返答できない。

「……わたくしを信用できませんか?」

「いや、そういうわけじゃねぇよ。だが、協力って。あんたにメリットがないのに、なんで?」

 台詞には動揺が表れてしまっている。光が落ち着いた様子だというのに、情けない。

「わたくしのメリットなど関係ありませんわ。あなたはわたくしのお願いをきいてくださらないのでしょうか?」

 返事に迷う。彼女の真意がわからないからだ。どうして自ら進んで厄介ごとを引き受けようとするのだろう。

 ――やっぱりわからん。

 また熱が出てきそうだ。将人は覆うようにしていた手をどけて、光から離れた。

「……あぁ、くそっ。もう、あんたの好きにしろよ。紅を泣かせなきゃ良いんだろ? 少なくとも、あんたがいる前ではそうならないように努力してやる。――だから、あんたは帰れ」

 シッシッと手を振って、光を追い立てる。あまり遅くなるのは彼女にとって良いことではないはずだ。なので、この流れで追い出してしまおうと思った。光から逃げようとしていることは自分でもよくわかるが、今の将人には他に方法が思い浮かばない。

「約束ですからね。破ったら、容赦しませんから」

「へいへい。胸に刻んでおきましたよ、光サン」

 光から視線を逸らしたままで答えると、彼女は背伸びをしてまで視界に入ってきた。二〇センチ以上の身長差は背伸び程度では埋まらないのだが、距離を少し取ることで補ったらしい。

「こういうお返事は、しっかり顔を見て言うものですのよ?」

「……めんどくせぇ」

 ぼそりと呟くと、光はくすくすと楽しげに笑った。

「もう帰りますね。明日はちゃんと登校してください。わたくしはあなたと同じ学校に通えることを嬉しく思っているのですから」

 そう告げた顔は、スクールバッグを拾うために背を向けられてしまったがために見えない。だから、彼女が何を考えてそんなことを言ったのか余計にわからなかった。

 ――聞き間違えるにしても、何をどう聞き違えたらそうなるのかがさっぱりだしな……。

「では、失礼します」

 悩んでいる間に、光はローファーを履き終えていた。玄関で彼女はわずかに頭を下げる。

「あぁ、気を付けて。明日、学校でな」

「はい」

 そう返事をする彼女はとても嬉しそうに見えた。

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