第6話 恋する月長石の強かな戦略2
西日が辺りを照らして、長い影を生み出している。複数のビニール袋を提げて、長月光は鉄筋コンクリートでできた古いマンションの階段を上る。二階の一番端の扉の前に着くと、光はスマートフォンを取り出してメモ書きを確認した。
――この部屋で間違いなさそうですわね。
ネームプレートはかかっていないが、他の部屋もそうであるので自然なのだろう。郵便受けにも名前はどこにもなく、こういうものだと受け入れるのに困ることもなかった。
光はインターフォンを押さずに、扉の前で電話を掛ける。無視されるのではないかと思ったが、相手はすぐに電話に出た。
「……もしもし?」
だるそうな、低めの男性の声。彼のテンションはいつもこんな感じだ。
「こんばんは。長月です」
「何の用だ?」
おれには用事はないと言いたげな様子で問われる。
「風邪でずっとお休みしているとお聞きしましたので、様子を窺いに。今、あなたの部屋の前にいますのよ?」
「……マジ?」
「本当ですよ。あなたのことですから、病院にも行かず、ろくな食事もできずに伏せっていると思いましたの。夕食の材料、用意してきましたから、ドアを開けていただけませんか?」
提げているビニール袋の中身は、食材はもちろん、調味料や調理器具も含んでいる。男の独り暮らしというものがイメージできなかった光ではあったが、彼がどんな人間であるのかを考えてみれば必要な物はおのずとわかる。ずぼらで大雑把な彼のことだ、調味料も調理器具も家に揃っていない可能性は容易に想像できた。
「いや、んなことをいきなり言われてもだな……」
簡単に部屋に入れてはくれないようだ。渋られて、光は早々に切り札を使うことにする。
「あら、わたくしは構いませんのよ? ここにあなたがいることをご家族にお伝えしても。体調を崩して数日間も伏せっているのですもの、連絡して差し上げた方がよろしいのかもしれませんね」
「あんた……」
ごそごそと動き出す音がスピーカーから漏れている。まもなく、ゆっくりとドアが開いた。
「おれの事情を調べた上で、ウチにくるなよ」
告げて、通話を切られる。壁とドアの隙間から見えたのは、一九〇センチを超える巨躯。長袖のティーシャツにハーフパンツを合わせた部屋着は黒で統一されている。
厄介な物を見つけたように眉根を寄せて見下ろしてくる彼の名前は黒曜将人。光の小学校時代の同級生だ。最近になって光たちが通う高校に転入してきた少年で、本日の用事の相手である。
「うふふ。調べたわけではありませんのよ、将人くん。たまたま知り得ただけですわ」
スマートフォンをしまうと、光は意識的に微笑んだ。
知ったのは本当に偶然だった。月曜日から学校に現れない将人を心配し、昨晩電話をしてみたのである。調子の悪い本人に直接訊くのは躊躇われたため、現在でもやり取りのある歳の離れた彼の兄に。将人の両親が現在も海外にいることは知っている。なので、てっきり彼の兄のところにいるのだと考えていたが、どうも話が通じない。光は機転をきかせて電話を切り、将人の今の居場所を調べ上げたのだ。
わかったことといえば、将人は家出をしているという事実で、それを周囲に隠しているらしいということ。理由まではわからなかったが、何かしらの事情があってそうしているのは間違いなさそうだ。
「タチがわりぃぞ」
はぁ、とため息をついて将人は頭を掻く。
「ってか、紅はいないんだな」
視線が光の背後に向けられている。想いを寄せている火群紅の姿を彼が期待していることは、言われなくてもすぐに気付いていた。
「将人くんの家に連れて行くわけがないではありませんか。あなたは紅ちゃんを襲った前科があるのですし」
できるだけさわやかに非難してやる。そこには色々と複雑な感情があるのだが、光は彼に気取られたくなかった。
「あんたはそういうの、気にしないのか?」
疑うような視線が向けられる。女性に暴力を振るう男であることを言っているのだろう。
光は返答に躊躇した。
「気にしていないわけではありませんが……。そうですね、将人くん個人を心配する気持ちの方が勝っただけですわ」
「そういう、誰にでも献身的に振る舞えるところ、変わってないんだな。やっぱ、あんた、看護士になんの?」
看護士への憧れは小学生の頃から持っている。両親が病院で働いているため、自然とそうなるものだと思っていた。
――わたくしの小さな頃の夢を覚えているの?
光は意外だった。将人が自身のことを覚えてくれていたとは思っていなかったからだ。だから、すぐに反応できなかった。
「ん? 違うのか? まぁ、あれからだいぶ経つし、別の興味が湧いていたとしても不思議じゃねぇけど」
「えぇ……わたくしにも色々事情がありまして。――で、中には入れていただけませんの?」
彼の背後に目を向けると、思ったよりも片付いているように見えた。
「へいへい。入れてはやるが、それなりに覚悟しろよ? 一応、独り暮らしの男の部屋なんだから」
言って、将人はドアを大きく開いて光が通れるようにする。
「あらあら、病人が何を言っているのかしら?」
「警告くらいしておかないと、世間知らずのお嬢さんには通じないかと思って」
くすくすと笑って言うと、将人は小さく肩を竦めてそう答えた。
「お邪魔します」
中に入ろうとした光の手から、将人はさらりとビニール袋を奪う。何も言わずにそういう気遣いができるところに、光はいつも感心する。雑だったり、強引だったりするのだが、それでも素直に彼の優しさを認めることができた。
――一言声を掛けていただければ、より良いでしょうに。不器用なところは昔と変わりませんのね。
脱いだローファーを玄関に揃えて並べながら、思わず小さく笑う。
そして改めて、キッチンの状態を見た。あまり使われていないらしいキッチンはおおよそ想像通りの状態である。まずは何から始めようかと光は思案したのだった。
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