第2話 新たなるシメイ。

 青年は夢を見ていた。

 まだ幼かった頃の幸せな夢だ。


「んっ……ここは……?」


 青年がぼんやりと目を覚ますと、昨夜までの暗鬱たる森の景色が一変し、奇妙な景色が広がっていた。


 隙間なく大地を埋め尽くす新緑の芝は青年の膝ほどの高さもあり、木漏れ日を浴びて楽しげに揺れている。


 その隙間からは緑色の逞しい茎がニョキニョキと天に伸びていて、見上げるほどの高さの位置に黄色い巨大な花を咲かせている。


(タンポポだ……)

 

 その大きさにこそ大差があれど、それはタンポポの花だった。

 見渡せばチューリップやコスモスの花も咲いている。そのどれもが目を見張る大きさだった。


 そして、青年が昨夜から背を預けていた木は、まるで壁のように巨大で、青々とした若葉を称えながら雲の上まで届くほどに高くそびえ立っている。


 青年はその木を見上げてマンガや小説で見た世界樹を連想する。


 しかし、青年の知識と一つ大きく違っていたのは、その木が唯一の存在ではなく、見渡せばいくつもの巨大樹が都会のビル郡のようにあちらこちらにそびえ立っている事だった。


(まさか、天国じゃないよな……)


 森の中だというのに不思議とじめじめした感じもなく、不快な小虫や蟻などの姿も見当たらない。

 少し育ちすぎのようにも見える植物たちからは、神々しいまでの息吹が感じられる。


「じー……」


 青年は再びそっと目を閉じた。


 昨夜まで感じていた疲れや痛みも今はなく、あるのは自身の存在が薄れていくような奇妙な寂寥感だけである。


(このままきっと、消えていくんだ……)


 そして、この美しい森の生命の糧となっていくのだろう。青年にとっては喜ばしい結末である。


「じぃぃぃーっ……」


 しかし、それを邪魔する者がいた。

 その存在は、草むらにじっと身を潜めて、声の表す通りに青年の様子をじぃーっと伺っている。


「じぃぃーっ! じぃぃぃぃー……あ、あのー、そんな所でお昼寝してるとお風邪をひいてしまうのですよ?」


「……放っておいてくれよ……」


「あ、起きていらしたですね!? こんにちはですよっ! 本日もとても良いお日柄なのですね!」


 声の主は草むらからガバッと立ち上がると青年におじぎをした。


「はぁ……これはどうも。ご丁寧に……」


 青年も一応おじぎを返した。相手は恐らく妖怪と呼ばれる類の存在だろう。

 可愛らしい少女のような姿をしているが、白目の部分が全くない、大きくて真っ黒な瞳がその事を物語っている。


 ならばなぜ青年が妖精や天使ではなく妖怪と思ったかと言うと、その身なりが少しばかりみすぼらしかったからである。

 なにせ初夏だというのに藁で出来た蓑を頭からすっぽりと被っていて、まるで一昔前の雪国の子供のような姿である。


「初めましてですよ! ミノスケはミノスケなのですよ! ところでこの辺ではお見かけしないお顔ですが、もしや人間さんではないのですか!?」


「え、まあ……そうだけど……」


(なんかヘンなのに捕まったな……)


「おおー、それは遠路はるばるさんですよ! ようこそお越し下さいましたです! ちょっと触ってみても良いですか?」


「は……?」


 ミノスケはガサガサと草むらから這い出てくると、青年の膝にぽんっと触れて飛び退いた。


「おおー、これは確かに人間さんぽいですよ!」


「なんだそれ……」


 青年が呆れて苦笑すると、ミノスケもにっこりと微笑んだ。一辺の悪意も感じられないとても無邪気な笑顔である。


(悪いやつじゃないみたいだ……)

 

 青年がぼんやりと見ていると、ミノスケの顔がかくんと斜めに傾いた。


「人間さん? ミノスケもお名前を教えてほしいのですよ?」


「名前、か……もうないよ。捨てちゃったんだ何もかも……」


 人の世の暮らしに疲れた青年は、全てのしがらみを捨て、誰もいない場所でひっそりと無縁仏になろうと決めていた。


 青年はこれまでその心の内を誰にも話す事ができずに生きてきたが、翳りのないミノスケの瞳に見つめられていると、不思議と全てを話していた。 


 しかし、当のミノスケは意味が分からないとばかりに首を傾げたままだった。傾げすぎて片足立ちになってしまっている。


「……むうう。ミノスケにはちょっとよく分からないのです。──ハッ! もしや人間さんは旅人さんなのですか?」


「いや、違うけど……」


「そうですか……やっぱり違うのですか……」


 ミノスケはがっくりと項垂れて足元の芝をほじくり返している。


「あ、あー。でもなんかカッコいいな旅人って。今度からそう名乗ってみようかな……」


(どちらかと言えば世捨て人だけど……)


 青年が取り繕うとミノスケはまた顔をあげて表情を輝かせた。


「そ、そうなのです! この際細かい事は良いのですよ! もういっそ人間さんは旅人さんになってしまうべきなのです! むっ……? という事はです! つまりミノスケが名付け親さんなのですね!?」


「は……?」


「人間さんは旅人さんになるのですね!? ミノスケはこのお耳でしっかと聞いたのですよ!」


 ミノスケは黒い瞳をキラキラ輝かさせながら青年に詰め寄った。


「ああ、うん……じゃあ、もうそれでいいよ……」


「はわわわっ!! 大変、大変なのですよ! 人間さんの旅人さんの誕生ですっ! ミノスケが名付け親さんなのですよっ!!」


 ミノスケはぴょんぴょんと嬉しそうに飛び跳ねると、ぽてっとその場に倒れ込んだ。


「あ、おい……」


「むっ。ミノスケのミノスケパワーが半減なのです。ですが嬉しさ百倍パワーアップの巻なのですよ! ふふふっ!」


(さっぱり意味が分からない……)


 再びはしゃぎ出すミノスケを見て、なぜか旅人と名付けられてしまった青年は首を捻る。


 体の奥から仄かに暖かな力が湧き出るのを感じながら。


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