第一の魔法

魔法なんてない日常と、天体観測と

「決めたわ。私、行火君と自殺する! 心中する! 学校の屋上から飛び降りて、可逆的逃避行リバーシブル・フライアウェイ! 未来に向かって脳味噌完全覚醒アッタマ・アウェイキングするのよ!」


 県立翠城すいじょう学園高等部、夕焼けせまる放課後の中庭で。

 壊れたゼンマイ仕掛けのオモチャみたいに、ピコーン! と立ち上がり、可哀想なことを口走ったのは残念ながら僕のクラスメートだった。

 もっと具体的にいえば、ショートカット眼鏡の似合う、クラス委員長。

 数少ない僕の友人、叢雲むらくも香澄かすみだった。

 左手でサンドウィッチを握りつぶしつつ、グルグルと目の中にらせんを描き、彼女はエキサイト翻訳的な意味不明の文言を吐き出し続ける。


「そうよ私は愛に生きるの! 愛に生き、愛に死ぬ。ああ、行火君、どうしてあなたは行火君なの! あなたが行火君でなかったら、この地獄の道連れになんてしなかったのに!」

「……うん。僕だろうが僕じゃなかろうが、死出の道連れにするのは――勘弁してほしいかな」

「なんでよ!? 童貞だから!?」


 童貞なら、あの世でいくらでも奪ってあげるから一緒に死にましょうよ!

 なんて、そんな芝居がかかったことを芝居がかった動作で口にする香澄ちゃん。

 はたから見てもやけっぱちになっているのがよくわかるし、付き合いがそれなりに長い僕なら、彼女が困惑を隠せないでいるのは手に取るように理解できる。

 仲のいい友達によくあるツーカーだ。

 フーフーと真っ赤な顔で息切れを起こしている彼女に、僕は使い捨てのナプキンを手渡す。

 サンドウィッチの具が卵だったので、彼女の左手は大変なことになっていた。


「ごめんね、香澄ちゃん」


 心からそう思い、頭を下げると、彼女は途端に言葉に詰まって「うぐぅ……」と、うめいてしまった。


「左手、本当にごめん」

「……ずるいわ、行火君は。自分が悪くなくっても謝るんだもの」


 ぺたりとベンチに腰を下ろし、むすぅっと頬を膨らませた香澄ちゃんは、、逆の手の汚れをぬぐう。

 右手だけじゃない。

 彼女の身体には、あちこちすり傷や切り傷があって、絆創膏に包帯にと、何だかその言動以上に可哀想なありさまだった。

 無数の傷。

 それは、この数日間、彼女に降りかかり続けている〝不運〟によるものだけれど――具体的にいうと〝鉢植え〟が落ちてくる、〝カラス〟に襲われる、〝マンホール〟が抜ける、などだ――しかし、その右手の傷に限っては、彼女が悪いわけではなかった。

 彼女が、僕をかばってついたものだった。

 僕の身代わりに、傷ついたものだった。


「かばってって……私は当然のことを、当然のようにしただけよ」


 平然と香澄ちゃんは言ってのけるけど、僕はそう思わない。

 つい数刻前の出来事なのだ、そんなこと言えるわけもない。

 不運が起きたのは掃除の時間だった。

 当番だった僕は、教室の黒板を磨いていた。いまどき黒板なんて珍しいものだけれど、翠城学園では採用されている。

 そこを黒板消しクリーナーで綺麗にしていたとき、『ピシリ』という音を、僕は聴いた。

 〝聴いた〟と理解したときには、もう既にそれが起きていた。

 黒板に、ひびが走る。

 分厚いまないたをし折るような凄まじい音と、それに反するリノリウムを割るような気軽さで、黒板が、その半面が、僕へと倒れ掛かってきたのである。

 つまり――

 日常生活ではありえない出来事に、僕の思考が、肉体が硬直フリーズする。

 傾斜する黒板。

 覚悟に眼を閉じる僕。

 その僕は――次の瞬間突き飛ばされていた。


「……へ?」


 と、自分でも間抜けだと思う声をあげ、目を開く。

 僕は無傷だった。

 尻餅をついただけだった。

 でも、僕の目の前で彼女は――

 叢雲香澄は、僕を突き飛ばし、倒れてきた黒板を右手全体で支えてみせていた。だけれど、その端正な顔を苦痛にゆがみ。

 ガシャンと音を立てて、黒板が完全に崩れ落ちる。


「っは!」


 と、息を吐いて、香澄ちゃんがその場に崩れ落ちた。

 駆け寄って見遣ると、彼女の右手は、酷い内出血を起こしていた。


 ……そういうことが、ほんの少し前にあったんだ。

 香澄ちゃんはすぐに保健室で治療を受けたけど、これから病院に行くことになっている。そのぐらいひどい傷だった。


「びょ――病院っていっても、私、今日、別の用事で行く予定だったし、やっぱり行火君が気に病むことじゃないわ! だって私は、やりたいようにやりたいことをやっただけなんだもの。それに――」


 それに、同級生をかばう委員長って、すごくカッコイクない?

 そう言って、叢雲香澄は勝気に笑ってみせる。

 この数日、彼女のすべては、まさにその〝カックイイ〟に根差すものだった。僕を助けたのと同じように、たくさんの人を助けてみせて、結果その身体に傷を増やしていたのだ。

 まるで正義の味方みたいにカックイイ彼女だけれど、物語のヒーローじみた〝ちから〟なんてない。

 ただ、精神が高潔だけの女の子だ。

 僕は、そんな彼女が心配で仕方がなかった。


「……ごめん」

「謝んな、バーカ」


 微笑みと共に額を小突かれる。

 僕は額を擦り、その熱をしっかりと感じてから、そっと彼女の右手に触れた。


「ん……なによ。痛くない訳じゃないのよ?」

「おまじない」

「??」

「痛いの痛いのとんでけー、みたいな」

「なにそれ!」


 バッカみたい! そう言って彼女はケラケラと笑う。

 僕もつられて笑顔になりながら

 多分、これで大丈夫だろう。


「……あ! また来たのね、この子は」

 

 こっそり一息ついていると、彼女が唐突に声を上げた。

 香澄ちゃんの視線をたどると、何処から入ってきたのか、斜陽の中庭に、一匹の黒猫がたたずんでこちらを見詰めているのだった。

 おーいと香澄ちゃんが手を振ると、その猫は悠然とした足取りで僕たちへと近づいてくる。

 額のところの毛だけが白い、鉤尻尾かぎしっぽの黒猫だった。


「この子、最近よく見るのよねー。誰かが餌でもあげているのかしら?」


 どーなのー? と猫なで声で尋ねながら、香澄ちゃんは黒猫の顎の下をこしょこしょと撫でる。

 黒猫はすました表情で「なーご」と鳴くだけで、特に抵抗しようとはしない。

 叢雲香澄は笑顔を絶やさない少女だ。

 その日も、僕と別れるまで、病院に向かうまでずっと、彼女は笑顔のままだった。

 笑顔は、人を元気にする。

 例えその笑顔が、僕にとってつらいものだったとしても――



 ◎◎



 夜。

 とっぷりと日が落ちてから、僕は自転車をこいで自宅から少し遠い丘へと向かう。

 その丘は、黒々と茂る森へと続く場所にあった。

 てっぺんには大きな樹木がそびえ、こずえを星空一杯に広げている。

 そこに寝そべって、横になり、星空を観察するのが、僕のストレス解消法の一つだった。


「ストレスというか……心のもやもやか……」


 ぶつぶつと独白しつつ、初夏の生温い夜気の中を駆け抜けたことで湿り気を帯びたシャツを、パタパタとゆする。

 首にかけたタオルで顔をぬぐい、それから、安物の双眼鏡を取り出して、予定通りゴロンと丘の上に寝転がった。

 僕は、天秤座てんびんざが好きだ。

 誕生星座ということもあるけれど、二つの重さを計るというところがとても気に入っている。

 17歳にもなって、何をロマンチストなと思われるかもしれないが、誠実であることを僕はこれ以上なく大事にしているのだ。

 なにより……天秤座には一等星がない。人目をくほど、まばゆく輝く星がない。市街地ではネオンの光にすら負けて見えなくなってしまう。そんな、どこか宇宙の暗闇に負けてしまいそうなところに親近感がわいて、僕は何度もその星座を探してしまう。

 僕の人生に似ていると、そう思うから。


「そうは言っても、この時期なら見つけるのはそこまで難しくはない」


 まずは星の大海原おおうなばらを見渡して、さそり座の一等星、真紅の心臓アンタレスを見つけ出す。

 その反対側に、ひときわまぶしく輝いているのがおとめ座のスピカ。

 その二つの一等星に挟まれ、いまにも消え失せそうな『尸\』っぽい形をした星の群れが――おめでとう天秤座だ。

 いつになく済み切った夜空。

 今日なら、きっとよく見えるだろうと、僕は天秤座を見つけるべく、本格的に双眼鏡を構えた。

 ――構えた瞬間だった。


 双眼鏡の視界を、何かがよぎった。


「え?」


 無意識にピントを合わせ……驚きの声をあげる。

 脳はまだ、〝それ〟を理解しない。

 〝それ〟は月影を横切る。

 特徴的なとんがり帽子、風になびくのはマントと長い髪。

 そして。

 そしてその足元には――


「ル――ルンバ?」


 そう。〝それ〟は、あの全自動掃除機ルンバとも思わしき円盤に、片足を乗っけて空を飛んでいる。


 姿


「――――」


 僕が唖然あぜんとしているあいだに、その謎の飛行物体は森の奥へとゆっくりと降下し、姿を消した。

 魔女。

 どう見ても魔女。


 だけれどそんなもの、


 見間違い。

 幻覚。

 疲労から来る勘違い。

 いくつものことを考えて、いくつものことを思って。

 だけれど、頭が状況を理解した時には、僕はもう荷物を引っ掴んで立ち上がっていた。

 駆け出す。

 森の奥へ向かって。



 亡くしたものを、もう一度取り戻したいと願うように。

 たれたキズナえにしを、いま辿るように。


 僕は、走る――

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