ぶらんにゅーわーるど ~ 現代白魔女四畳半 ~

雪車町地蔵@カクヨムコン9特別賞受賞

はじまりの魔法

少年は歩き出す

 記憶のなかで、セーセーとくまぜみが鳴いている。


  白と黒で塗り分けられた世界に、一匹のセミの声が響いている。

 懸命な、張り上げるような命の叫び。

 その声は出会うための呼び声だ。異性とむつぎ、子孫を残すための願いだ。

 だけれどそれは、叶わない。

 なぜなら世界は――いままさに滅びゆこうとしているのだから。


 空をたゆたう雲。

 喧噪けんそうの絶えた街並み。

 潮騒しおさいの香りがしない海。


 そこにいるはずの、鳥も、獣も、人間も。

 何もかもが、闇黒にむしばまれて、残っているすべても漂白されていく。

 この星の端々、その四方八方から迫る闇黒が、人々をもろともに呑み込んで、もはや世界に響く命の声は、あとわずかにすぎなかった。

 出会いなんて、望めるわけもなかったんだ。


 僕は、そんな絶望のなかで泣いていた。


 この世の終わりを見詰めながら、丘の上の大きな、天をくような木の下で、木陰の中にうずくまり、顔を覆って涙をこぼしていた。

 その大樹すら、いまにも闇に飲まれてしまいそうで。

 怖くて、怖くって、恐怖にくじけてしまった僕は、たった一匹のセミの声にかき消されるような、小さな泣き声を上げることしかできなかった。

 太陽は黒く、降り注ぐ日差しもまた暗い。

 何もかも、一切合財いっさいがっさいが影のなかにある。

 陽だまりすらも、闇と同じ色だった。


 どうして、泣いていたのだろう?


 はっきりとは思いだせない。

 ……いや、思い出さないように努めている。

 ただひとつ言えるのは、僕は酷く恐れていたということ。

 怯える僕は、小さな、小学生にもなっていなかったような僕は。


 計り知れない罪を、犯してしまっていたということだ。


 僕が泣き続ける間にも、世界はどんどん二色に塗り分けられ、そして闇黒の中に消えていく。

 丘のすそ野まで、その暗黒が迫ったとき、僕の前に一つの影が立った。

 〝影法師かげほうし〟。

 影でありながら、それは明確な輪郭を結ぶ。

 闇の中でなお燦然さんぜんとある。

 

 そこにいたのは、白い、真っ白い――純白の、影法師だった。



『むむー……そんなに泣くなよ少年くん。君は別に、悪いことなんてしていない。君は悪くない。自分とちがうものを追いだそうとする。それは、ひとの世の常でしかないんだからさ』



 白い影は、そんなことを口にする。

 だけれど、その難解な言葉は、幼い僕には理解できない。

 ただでさえ恐怖で麻痺した思考回路は、そのとらえどころがなさすぎる言葉をうまく掴みきれないでいた。

 何を言われているのかは解らなかった。

 ……ただ、それが真っ直ぐな言葉なのだということは、どうしてだか解った。

 その白い影法師は嘘をついていない。ただひたすらに、心から僕をさとしてくれているのだと、何故だか直感で理解できたのだ。



常世界人理Usual Anchor Law――すべて人間がこの法理ほうりの中で生きている。君たちが日常と呼ぶものの正体がそれだよ。少年くんはね、たまたまそこから一歩、滑り落ちてしまっただけなんだ』



 ――風。

 

 一陣いちじんの風が吹く。

 木陰が揺れ、一条の光が差し込む。

 闇の中に、光が射し込む。

 ベールのような薄明光線。

 闇の中にあらわれる、かすかな光のグラデーション。

 それが、白い影をほんの少しだけ照らし出した。

 その口元が、優しく微笑む桜色の口唇が、僕の目に、記憶に、鮮烈に刻み込まれてゆく。



『君は悪くなかった。世界も、君の友達だって悪者じゃなかった。ただ、ほんの少し……そうだね、ほんの少しきみの――〝運〟が悪かった』



 影は。

 特徴的なとんがり帽子に、全身を包み込む白いマントを身にまとった影は、泣きじゃくる僕の、その両手を取って、こう言った。



『だから――あたしが君をあるべき世界に送り届けてあげよう。少年くんに、踏みとどまる機会を上げよう』



 いなを告げる君にこそ――人理じんりは誰よりも相応しいのだから。



 その言葉を最後に、白い影は僕から離れる。

 遠くへ。

 遠くへと消えていく。

 白黒の二色に分かたれた、陽炎のように不確かな世界へほどけていく。

 僕の元に残ったのは、一つの記号。



 〝L〟或いは〝く〟の一文字が、輝くような筆跡で、僕の右手の平に刻まれていた。



 それが何を意味するのか尋ねようと顔を上げたとき。

 もうそこに、白い影は存在していなかった。

 雲かかすみのように、文字通り消え去っていたからだ。



『精一杯、気張きばるんだよ少年くん』



 そんな言葉が、僕の頬を撫でていった。

 暑い風が吹き抜ける。

 僕は、もう泣いてはいなかった。



 だって、目に映る世界は――













 白黒なんかじゃない、みずみずしい色彩に満ちた、眩い世界だったのだから。












 これが、僕――行火否人がいまの世界で歩き出した、最初の日の記憶。

 ただの人間である僕が生きられる、そんな世界の幕開けの物語。

 ――その、はずだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る