第6話 エモンの運命

 深夜の埠頭は、静けさに包まれていた。

 聞こえるのは、満ちた海の波が、ちゃぷ、ちゃぷと、岸壁に緩やかに打ちつける音だけ。昼間の喧騒とは対照的だ。月明かりはなく、空にまたたく南国の星のきらめきが、静謐な印象をさらに強める。

 ここは軍関連の物資を多く扱う港だ。関係ない者は近寄らない。下手に解放軍に絡まれたら厄介だから、周辺の町でも、夜になると人通りは途絶えるのが普通だった。

 そんな港のコンテナ置き場に、あるはずのない人影があった。

 黒の防弾スーツを身にまとい、小振りな自動小銃を抱えている。黒の手袋、黒のブーツ。完全に闇にまぎれるいでたちだ。

 暗視ゴーグルは一昔前の物と違って、薄いバイザー型。それは素顔を隠すのにも役立っていた。解放軍の警備要員ではない。スーツのデザインは違うし、部隊を示す部隊章もない。そして、人目を気にするように、物陰を伝うようにして移動している。

 怪しげなその一団は、よく見れば、おなじみの顔ぶれだった。

 前方にアキと、エモン。続いて周囲の様子をうかがっているのは、タカラ、ハシシ、コレシゲと、解體屋の常連達だった。銃を構え、周囲を警戒する様子はさまになっていて、経験値の高さを物語っている。

 そう、彼らはプロだった。

「情報通り。人払いされてる。定時の巡回時刻だが、その様子はないな」

 アキが、バイザーに触れ、時刻を表示してつぶやく。

 周りはそれに、ハンドサインで答える。

 エモン、アキ、そして常連の三人は、内地から送られてきた工作員だった。儲からない定食屋とそこの常連、という表の顔を隠れ蓑にして、こうした活動を続けている。夜、必ず常連貸し切りにしてしまうのも、アリバイ作りのためだった。

 そして今夜の作戦は、大陸から来た重要人物、リン・モウルエの捕獲。上海の政商を表の顔にしながら、日本侵略工作の中心人物でもある。

 古来より大陸には、三戦、という概念がある。戦いを武力衝突だけと捕らえず、世論戦、心理戦、法律戦を含めて考える。工作を仕掛け、相手社会に浸透し、内側から崩して、戦う前に勝つ。

 日本がオキナワを失ったのは、この戦いで後手を踏んだからだ。そして、中華連邦の次の手は内地にまで及んでいる。しかし日本も、分かっていて二度も三度も引っかかるわけにはいかない。そして、受身のままでいるわけにもいかない。

 かくして、オキナワは、その戦いの最前線となっていた。

 リンのような重要人物は当然周囲の警備も固く、なかなか接触するチャンスはなかったのだが、今夜、この埠頭に現れるとの情報をつかんだ。この機会に捕らえ、彼の知る計画を根こそぎ引き出す。それが今晩の任務だった。

「どうした。『名無しの衛門』ともあろう者が、ぶるってるのかい?」

 ずっと押し黙っている隣のエモンに、アキは小声でささやいた。

 エモンはその問いに不満げに返す。

「……あんな奴ら、簡単にひねれたのに」

 アキは眉をひそめた。エモンがさっきの解體屋での一幕のことを言っているのは、すぐに分かった。ため息をつく。

「もう、仕方ないだろ。あそこでほんとにあの人数をひねってみろ。うちらが怪しまれるのは必至じゃないか。はやっていない定食屋という、使い勝手のいい拠点も放棄しなくちゃいけなくなる」

「それはどうにでもなるだろ」

「上にどう報告するつもりだい」

「知ったこっちゃない。俺は公安四課の人間じゃない」

 むすっとしたまま答えるエモン。言外に、この仕事が第一だということに不満を表している。

「直属じゃなくても、チームの一員、私の配下だからね。きちんと働いてもらうよ」

「分かってる」

 エモンは銃を担ぎ直した。動作は小さく、音もしない。こういう仕事に慣れた人間の動きだった。

 モモがエモンに物騒な雰囲気を嗅ぎつけたのは、正しかったのだ。

 エモンは、本人の言うとおり、少し複雑な事情を抱えていた。

 エモンは隠密戦のプロ。

 そして遺伝子強化人間だった。

 家系はいわゆる忍者の家系。古来の技術を絶やさずに、さらに時代に合わせて改良、研鑽を重ねてきた。

 このご時世に忍者なんてと思われるかもしれない。それはその通り。

 だが、どの時代でも、情報戦、隠密戦は存在する。彼らはそのプロフェッショナルとして、姿形を変え、需要に応えてきた。戦後の平和な一時期に、家系断絶の危機もあった。ただ、紛争が増え、世界がきな臭くなってきて、また諜報、工作のスペシャリストが求められるようになったのだ。

 ただ、その裏の世界で、脅威となったのが、中華連邦の遺伝子強化人間だった。早い段階から人間の遺伝子操作に手をつけるなど、西側諸国の倫理とは無縁な強みを生かし、世界をリードしていた。

 エモンの一族は、それに対抗すべく、遺伝子強化の技術に手を染めた。人間の知覚、運動能力を限界まで高める。それはある意味、古来から、一族が行ってきたことだ。

 ただ、向こう見ずな人体実験には、やはり副作用があった。知覚能力を高める過程で、いくつかの感覚はおかしくなっていった。

 特に味覚は、すっかり馬鹿になってしまったのだ。

 味覚は複雑な感覚だ。単に舌の味蕾みらいで味の分子を感じているだけでなく、嗅覚や痛覚とも統合され、さらに記憶によっても感じ方が変わる。

 そのバランスを崩し、一部ものすごく鋭敏に研ぎ澄まされた知覚は、もはや通常の人の感覚を再現できなかった。この味が、普通の人にはどう感じるのか、まったく分からなくなってしまった。

 いつも相手の味覚がおかしいとうそぶいているエモンだが、自分の体に起きたことに対しての自覚はちゃんとある。

 自分が今感じている味を、通常の味覚にとらえ直す。たいがいまったくうまくいかない。だが、それでもあきらめない。エモンにとって料理とは、失われたものを取り戻す挑戦だった。

 と同時に、家系のために押し付けられた、望まぬ人生への反抗でもあったのだ。

 そんなエモンに、アキが小声で付け加えた。

「あんたが、あの子にこだわってるのは分かるけど、悪いけど私は、この仕事にこだわってるからね」

 その声は、冷たく響く。重苦しい決意が、まとわりついている。

 アキの事情はエモンも知っている。進駐してきた解放軍に両親を殺され、彼女自身も陵辱されたと聞く。侵略して民族浄化は彼の国のお家芸だ。それはこのオキナワで、着々と進んでいる。

 その悲劇を内地にまで広げるわけにはいかない。その思いが彼女を駆り立てている。

 今度はエモンが一つ、ため息をついた。

「いいさ。この仕事を終えてから、探しにいく。車のナンバーは隠されてたけど、まあ、すぐ分かるだろ」

「ほんとにご執心だね」

 アキの声には、先ほどの冷たさは消え、若干の、からかうような響きがあった。エモンは鷹揚にうなずいてみせる。

「料理には食べる人間が必要なんだ。食べる人がいなかったら、料理は完成しないからな。あいつには見込みがある」

 それまで黙って聞いていた周囲が、ここでさすがに突っ込みを入れた。

「それじゃあ、お前はいいけど、あの子は結局拷問じゃないか」

「それは助けたと言えるのか?」

 苦笑しながら、タカラがぽんと、エモンの肩をたたいた。

「まあ、暇があったら手伝ってやるよ」

 エモンが感謝のハンドサインを送る。

 その時、アキが一言つぶやいた。

「来たよ」

 冗談めかして少し緩んでいた雰囲気が、一瞬にして引き締まる。おしゃべりに気をとられて、周囲の警戒をおこたるような素人ではない。バイザーに映る視野の端に熱源が現れたことに、全員が瞬時に気づいていた。

 光の当たらぬコンテナの影に、五人は身を潜める。

 倉庫の前に車が止まる。大型の高級車。細かいところを見れば、それが防弾の装甲車両に改造されていることが分かる。その分エンジンもパワーアップしなければいけないし、かなりの資金と手間がかかっている。

 乗っているのは、大物だ。

 後部座席に人影が一人。赤外線画像では、顔立ちはよく分からない。だが、これがリン・モウルエであることは、ほぼ確実だ。

 そして、車には他に運転手が乗るだけだった。普段なら同乗している警護の姿はない。情報通りだ。

 これだけ無防備なのは、本当に珍しい。いったい何のためにここにくるのか、その理由はつかめていなかった。

 その時、反対側から、別の車がやってきた。

「おい、あれ」

 ハシシが、エモンの肩をたたく。

 見覚えのある、黒塗りのワゴン。

 サイドの扉が開き、出てきたのは、これも見覚えのある、かっぷくのいい男。

 そして。

 小さな少女。


 モモだ。


 それですべてに合点がいった。ここは人身売買の現場。不法で、そして高価な商品を、手渡しする場面。売り手が、大物を相手に自ら出向いた人身売買組織の長、チャン・ジュン。そして買い手が、やはり自ら出向いたリン・モウルエだ。

 リンが車から降りて、チャンとモモを出迎える。資料画像で見た姿では、抜け目のない鋭い眼光を持った、厳しい顔つきをしていた。だが今は、目元口元に、隠しきれない好色の色が現れ、だらしなく下がっている。

「なるほど、お供をつけないのは、こういうわけ……。帰りの車からお楽しみってわけか」

 アキは声ににじむ侮蔑の感情を、隠そうともしなかった。

 日本女は従順で人気だ。そして、人ならざる立場の、幼い少女となればなおさらだ。

 それを蹂躙できる喜びに耐えられず、一刻も早くそうしたくて、警備もつけずにやってきたというわけだ。

 エモンは、それに対して何も答えなかった。

 うれしさを隠せない様子で、ぶるりと一つ、身震いした。

 そしてふらりと、コンテナの影から出た。

「ちょっと! 作戦は」

 アキの声も聞こえない。

 いや、聞こえていたが、意識には上らない。

 彼は公安四課の人間ではない。協力者だが、直属ではない。

 彼の名は加藤かとう宗右衛門そうえもん正成まさしげ。通称『名無しの衛門』。

 古くから伝わる、隠密の家系の、最終兵器。

 その名を知られず、幾多の敵を闇から闇へと葬った、解體術の使い手。

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