後編

「それじゃ、先週の続き。主役とヒロインを決めるところから」

 七海が黒板にチョークで主役とヒロイン、という文字を書く。

 そして振り返り、教壇から俺たちを見下ろす。その表情はどこか緊張を含んでいるように見えた。

「決めるって言ったけど。この一週間、誰も私に立候補や推薦の話はしてこなかったよ。だから、もう確定だよね」

「そうそう、ナナミンと中池くんで決まり! ぶっちゃけもう皆、それで動いっちゃってるからねー!」

 大野がそう言った。周りのクラスメイトも、追従するように笑う。

「おめでと! ナナミン! 最高の演劇にしようね!」

 大原の一言で、クラスで拍手が湧き上がる。

 教室に充満する熱気。ここから先はクラスメイトが一丸となって目標に邁進するだろう。

 もとから結論が見えていた話だった。この流れにケチを付けようだなんて無粋なヤツはいないだろうと、皆確信している。

 だからこそ、俺は手を挙げ、そして声を上げる。

「すまん、ヒロイン役に推薦したいヤツがいるんだが」

 教壇にいる七海が驚いた様子で俺を見た。周りの生徒も、ぎょっとした表情で俺の顔を見る。

 拍手が鳴り止み、教室が静まり返る。視線が集まる俺を、七海が指す。

「一之瀬、そうなの。誰?」

 俺は立ち上がって、言った。

「原だ」

 教室がざわめく。俺の隣にいるクラスメイトが、明らかにヤバイ人を見るような目で俺を見上げていた。

 原にも視線が集まっているようだ。原は教科書で顔を隠し、プルプルと震えていた。きっと恥辱と屈辱に悶えているに違いない。

 すまん原。だけど一週、昼飯を奢ると約束したんだ。学食のスペシャルメニューだ。それでお前のプライドの対価としてくれ。

「……えーと。一之瀬、原って、ウチのクラスの男子の原くんのことだよね? あ、もしかして主役の推薦……」

「違う。さっき言ったように俺はヒロイン役に、原を推薦するんだ。すでに本人から了解はもらっている」

 七海が頭を指で押さえる。俺の妄言に頭が痛くてしょうがないんだろう。

「一之瀬……言ってる意味が分かる? 原くんは男子で、ヒロイン役は常識的に考えれば女子よね」

 七海が子供に道徳を説くように、ゆっくりと言った。俺は首を振る。

「七海。つまらん問答をするつもりない。俺の推薦を受け入れるのか、受け入れないのか。それを訊きたい」

 七海は俺の顔をじっと見た。俺からなにかを読み取ろうとしているように見えた。

 俺はあえて無表情で押し通る。七海はふぅ、と溜息を漏らすと、

「推薦理由、言える? いくらなんでも、理由もなく原くんをヒロインにすることはできないわ」

「当然だ。クラスの皆にもよく伝わるように、教壇から話したい。構わないか」

 七海が頷く。俺は歩き出す。

 机と机の間を歩く中、皆、俺を見ていた。

 唐突に意味不明な発言をした俺に対して、好奇心や不気味さを感じているのだろう。

 教壇につき、七海の横に立つ。それを見計らって、七海が皆に話しかけようとした。それをされる前に、俺は七海に小声で耳打ちする。

「七海。お前は自分の席に戻れ。お前が隣にいるのはやりづらい」

 七海が俺を見る。その瞳には、明確な呆れが宿っていた。

「あんた、どういうつもり? 一体なにがしたいの?」

「それはこれから分かる。いいから戻れ。時間も限られてる」

 七海は不承不承といった様子で教壇から降り、自分の席へと戻っていく。

「さて。皆、俺が唐突に原を推薦すると言い出し、驚いただろう。たぶん俺も、皆の立場だったら驚いて、正気かどうかまず疑う」

 クラスメイトはなにも言わず、俺を見ている。呆れ、驚き、興味。諸々の感情が浮かんでいる。

「が、俺は俺なりの明確な理由があって原を推薦した。その理由はなにか……単純だ。俺は七海より原のほうがヒロインに相応しいと思うから」

 教室がざわめく。一部から向けられる敵意の視線を自覚する。

「俺たちがやる演劇。ヒロインの設定は強大な王が支配する大国の姫、という設定だったな。ふむふむ、ソソられる設定だ。ところで、俺の中の姫のイメージ像は、胸が大きいんだ」

 うわっ。女子の中からドン引きする声が聞こえた。

「それに、お淑やかで、しかし知性溢れる才媛だ。だけど、世事には疎い。箱入りの姫。そんな感覚だな……そして、そのイメージ像から」

 俺は教卓に片手をつき、び、と座っている七海に指を差す。

「この女はかけ離れている! まず胸が大きくない! お淑やかどころかぎゃあぎゃあうるさい! 成績は良いようだが知性は感じない! 箱入りどころかネットスラングを使って人を小馬鹿にする! このどこに! 俺のイメージする愛らしく萌える姫の片鱗を見い出せと言うんだ!?」

 俺は身振り手振りを大仰に交えて、そう言い放った。発する声も、全力を振り絞っている。

 ……一之瀬って、こんなヤバくてキモいヤツだっけ。

 ……ナナ。あんなサイテーなヤツの言うこと、気にしちゃダメ。

 女子から生まれたドン引きのさざ波は、綺麗なウェーブを描いでクラス全体へと広がった。

 七海はなにも言わず、俺を見ていた。

「だったら! 原のほうが姫に相応しい。原はけっこうオタク趣味だから、おとなしくお淑やかだ。萌えるキャラについて語る瞬間は知性溢れている。そして、趣味以外のことはあまり興味を持てない箱入り感もある。まさに俺のイメージする姫だ。女顔なところもポイント高い。女装すれば映える。女装男子とか言うジャンルも今は人気らしいし」

 静まり返った教室の中、俺は最後に結ぶ。

「以上が、俺が原をヒロインに推薦する理由だ。要するに七海より原のほうが、女として見ればるかに魅力的に映るという、それだけの話だ。反論、異論。意見でも文句でもなんでも受け付ける」

 しん、と教室は静まり返っている。誰も声を上げようとしない。

 こち、こち、と黒板の上にある時計の秒針の音が聞こえる。

 隣のクラスから、どっと笑い声が響いた。

 ……足りなかったか?

 俺は教壇からクラスメイトを挑発的に睨みつけながら、心中で焦る。

 間違いなく、クラスメイトの中で、俺に対して思う感情があるはずだ。

 だけど、それがなぜか表出しない。

 俺はぎゅっと教卓に置いた手を握る。ここが瀬戸際だ。

 このまま終わってしまえば、俺は掛け値なしの狂ったアホだと思われて幕を下ろす。いいや、この期に及んでそんな保身に走るつもりはない。それはそれで構わない。

 俺がなにより恐ろしいのは、俺の本来の目的が果たせないこと――。

 す、と手が挙がった。男子生徒……中池だ。俺は、中池が救いの御手に思えた。

 だけど、もちろん表情は挑発的なままで。

「なんだ、中池」

 中池は立ち上がる。ふぅ、と溜息をつくと、

「ずいぶんな言いようだな、一之瀬。よくもまぁ、皆の前で友達のナナを中傷してくれた。お前がそんな酷い人間だったと知らなかった」

 そうだよ! サイテー!

 空気読めよこのバカ!

 一斉に。中池という存在がトリガーとなって。

 まるで水風船が破裂して閉じ込められた水が飛び散るように、俺への怒り、俺への不満が教室中から燃え上がった。

 バカだの間抜けだのキモいだの帰れだの。飛び交う怒号は笑えるほどに本能的で、感情的だ。

 俺はニヤニヤと笑いながら、中池に向かって言う。

「おいおい中池。中傷だって? 俺は事実を言ったまでだよ。不当に言葉の解釈をすり替えんで欲しいな」

 うるさい、キモオタ!

 そんな声が聞こえた。

「まぁまぁ、落ち着いてくれ、皆。俺が一之瀬と話すから」

 中池が振り返って、唇に手を当てる。皆、視線は鋭いままだが、大人しくなる。

 中池がほごん、と喉を鳴らすと、心地いい低音ボイスで流麗に喋り始める。

「一之瀬。俺には分かるんだ。お前、それは本音じゃないだろ? お前はさ、前まではナナと仲が良かった。一緒に飯食ったり、一緒に帰ったりしてたもんな。でも、なにがあったか知らないけど、お前はナナと喧嘩して、距離ができた。前みたいに話せなくなった……だからさ、嫉妬してるんだろ? ナナが皆に持て囃さてるのに、お前だけが蚊帳の外で」

 俺は中池の鋭い指摘に大いに揺さぶられる……ように最初は振る舞った。だけど、俺はすぐに笑う。

「ああ、そうだよ。俺、嫉妬してんだ。前から七海のこと好きだったからな。距離ができて寂しくてしょうがないんだ」

 中池が驚く。他のクラスメイトも、目を丸くして俺を見る。

「それが俺の本音だ、中池……だけど、中池、お前だって同じ穴のムジナだろ? ドヤ顔でボクが主役でナナたんがヒロインです~とか表明してるけど、要するにナナたんはボクのものですって駄々こねてるだけじゃねえか。気色わりいな、お前」

 中池が言葉に詰まる。彼の表情は今まで見たことがないものだった。

 温厚なイケメンが怒る表情は、こうも迫力があるものか。俺は内心ビビりつつも、

「大体、俺は前からお前のやり方が気に食わねえんだ。なにが仲間を信じる、だ? なにが力を合わせよう、だ? クセーんだよ! 誰も彼もおんなじ考えを強制して。そういうのは同調圧力って言うんだよ。洗脳と変わらねえんだ。そんなクセーもんはくだらねえ身内の友情ごっこで完結しとけ」 

 射殺すように睨みつける中池から俺は視線を外し、クラスメイトを見渡す。

「お前らにも俺は言いたいんだ。七海はそれなりに整ったツラをしてるが、もっと自分はイケてるって思う女子がいるだろ? 表では周りに合わせて七海を応援しても、どうせ腹の中じゃ自分のほうが美人なのに七海ばっかり持て囃されてって、嫉妬してるだろうな。野郎もそうだ。どうせ中池が主役張って、脇役だの演出だの脚本だのって花形は限られたヤツしかやらない。その他の十把一絡げのモブ野郎は裏方のつまんねー仕事ばっかだ。スポットライトが当たることなく、体のいい雑用係として使い捨てられて文化祭は終わる」

 俺は教卓を叩く。

「皆で力を合わせれば。皆でやり遂げよう。ああ、なんともご立派で、素晴らしい考えだ。だけど、皆なんて言葉は"皆"なんて言葉だけで終わるもんじゃない。一人ひとりは十七年間生きてきた人間なんだ。少なくとも、俺はそう考えてる。一部の偉そうな連中の一言で、まとめて定義されていいもんじゃねえ」

「ずいぶんとご高説打ったな、一之瀬。それで、お前は結局なにが言いたいんだ? お前の言葉をそのまま受け入れれば、文化祭の企画をすべて白紙に戻し、誰もチームプレーをしないで各々好き勝手やれ……そんなふうにしか取れない。お前は"皆"にそれを押し付けるつもりか」

 中池が俺の顔を睨みつけながらそう言った。

 俺はふ、と息を漏らし、両手を広げる。

「いや、そんなことはない。後出し悪いが、これはあくまで俺の個人的な考えだ。それを押し付けようなんてつもりはさらさらない。だけど」

 俺は手のひらにじっとりと掻いた汗を、握りつぶすようにぎゅっと掴んだ。 

「一人ひとりが、本音を隠さないことが必要だってことを、個人的考えだと完結したくない。それだけは、このクラスの皆と共有したい。そのために、俺は今日教壇に立った」

 中池が髪を掻き上げる。鋭い視線が俺を射抜く。中池は温厚な見た目だけど、目つきはけっこうキツイのだと俺は知った。

「……まるで特定の誰かへのメッセージだな、一之瀬。一人ひとりに本音をインタビューして回るなんて時間の無駄だ。お前が思い当たる相手を、今ここで言ったらどうだ」

 俺は一瞬、中池の言葉に強く惹かれる。

 言ってもいい。さっきから一度も顔を上げようとしない女子に、今すぐに本音を語ってくれ、と。

 だけど、それではきっと足りない。誰かから強制されて吐いた本音に、真実の濃度は薄い。

「……中池。お前は友達なら言葉を交わさずに済むと思うか?」

 俺の問いかけに、中池は首を傾げる。理解できない、というふうに。

「いきなり意味の分からないことを訊くな……まぁいいさ。済むと思うよ。言葉なんてなくたって、気持ちが伝わるのが本当の友達というものだ」 

 そうなのだろうか? そうなのだろう。

 言葉にしなくたって気持ちは通じる。そう思える瞬間は、人と触れ合えば確かに訪れる。

 だけど、本当にそうか? それは勝手にそう思っているだけではないのか。

 気付いてるか、中池。お前が大切な友達だと思うあいつは、さっきからずっと顔を上げない。なにかを堪えるようにじっと俯いている。  

「中池。お前はあまりに脳天気で、お花畑な人間だ。言葉を交わさずに他人と理解しあうことができるのは、超能力者ぐらいだ。お前は他人の言葉を妄想で拡大解釈して、都合よく納得してるだけだ」

 俺がそう言った瞬間、いいいいちいいいいのおおおせえええええ! と叫び声が聞こえた。

 そして、でかい物体が俺へと突進してくる。え、なに?

 俺はビビって間一髪で避けるが、その物体……男子生徒だ……に襟元を掴まれ、ガクガクと揺さぶられる。

「お前はさっきからナカやナナをバカにし過ぎじゃああああ! 誅をくれてやらんと我慢ならあああああん!」

 ぐわんぐわんと揺れる視界。よく見えなかったが野太い声と体付きから察するに、中池や七海と仲がいい柔道部の谷上だ。

 やめろ谷上! と中池の声がして、他の男子生徒が教壇に登ってくる。谷上から引き剥がそうとする他の男子生徒の手がからみ合って、もはやなにがなんだか俺には分からない。

 上下左右と揺れる世界に漂いながら、俺は思う。



  ◇ ◇ ◇


 

 言葉はナイフだ、と誰かが言った。全くそのとおりだ、と俺は思う。人を傷つけるのはいつだって言葉だ。

 言葉はギフトだ、と誰かが言った。そうじゃない、と俺は思う。だけど、そう思えるのは憧れる。

 言葉は物差しだ、と誰かが言った。本音はそうなんだ、と俺は思う。だけど、同時にそうじゃないんだ、と俺は思う。

 言葉ってなんだろう。人を傷つけ、人を助けて、人を見定めて。あやふやで、形がなくて、掴みどころがなくて。そのくせ大事なところでなくては困る。

 ……でも、共通するものがあるんだって、俺は思う。

 神様は人と人を繋ぐために、人に言葉が話せるギフトを与えた。

 自分一人に向ける言葉はあんまりないんだ。自分以外の他の誰かへと向けるから、言葉は言葉として成立するんだ。

 俺はそれを知らないふりにしていた。成長して失ったものなんだと思ってた。だけど、お前は、ずっとその言葉の価値を信じていた。

 だから、きっと答えは一つだ。言葉はきっと……。



  ◇ ◇ ◇


 

「言葉は! 人に自分の気持ちを知ってもらうためにあるんだよ! なんでもいい! 文句でも愚痴でも好きでも愛してるでも! なんでもいいから、言葉にしろ! 言葉にすれば――言葉にするから、人は人と気持ちを通じ合えるんだって! 今なら俺も信じてる! だから――」 

 首根っこを捕まれながら、その先を口にしようとした瞬間、

「いい加減にして!」

 そんな声が教室に響いた。

 皆、時が止まったように静止した。教壇でもみ合う男連中も、他のクラスメイトも、一斉にその声の主へと注目した。

 声の主……七海は、立ち上がって言った。

「なんなの!? あんたたちは! いきなりへんなこと言いだすバカがいると思ったら、そのバカと喧嘩し始めるバカもいて。挙句の果てに神聖な教壇の上でバカたちがバタバタともみ合って。すごく見苦しい!」

 七海はポロポロと泣いていた。泣きながら叫んでいた。

「どいつもこいつも当事者の私を無視して、勝手にどんどん話を進めてっ! 特に壇上の男連中、分かったようなこと言わないで!」

 俺を掴んでいた手は離れ、気まずそうに皆距離を置く。

 俺たちは教壇の上で、怒られて廊下に立たされた小学生のように並んだ。

 七海はふぅ、と盛大に息を吐いた。そして、くしゃ、と泣きながら笑う。

「……ごめん、分かってる。皆、なにを問題にしてるか。私が、自分の本音を隠してたから。周りに合わせて、自分の意見を口に出さなかったから、こんなことになった」

 七海がそこでぐす、と鼻をすする。

 大野が七海に近寄って、七海の背中を擦ろうとする。七海は大丈夫、とやんわりと大野の心遣いを断った。

「私は、演劇のヒロインは無理だって思ってた。昔、ちょっとした失敗があって。それを思い出すと怖かったの。でも……皆が、もう準備を進めてたから、ずっと言い出せなかった。断って大事になってしまうのが怖かった」

「ナナちゃん。そうだったの? 言ってくれれば……」

 大原が七海に向かって、心配気にそう言った。

 七海は笑いながら、こくりと頷いた。

「そうだね。ホントに、そうなんだ。言葉にしなきゃ……言葉にしなきゃいけなかった。だから……もう遅いかもしれないけど。私、これから本音を言う」

 七海は自分の胸に手を当てた。

「やっぱり、怖いよ。舞台に立ったときのこと想像すると、足が震えてくるもん。断るべきなんだって思う。でも……でもね」

 七海は教卓に立つ間抜けな俺たちを、端から端まで眺める。

 そして、吹き出した。

「なんだか……今なら、できそうな気がするの。だってさ、皆、すごい本音ぶつけあって、下手な青春映画よりよっぽど恥ずかしいことやってんだもん。今日のことを思い出せば、舞台に立つなんてすごく簡単なことに感じるよ」

 七海の視線が、俺へと止まったように見える。

 交わる視線の先、七海が笑った。俺も、気恥ずかしさをごまかして無理やり笑う。

「だから、やってみる。私、改めて立候補するよ。よろしくお願いします!」

 七海が頭を下げる。

 俺は最も早く、拍手をした。ぽつりぽつりと拍手が続き、最後にはクラスメイト全員が拍手をした。

 鳴り止まない拍手の只中、涙で頬を濡らしながら、それでも前を見定めて言葉を贈った七海は、俺が今まで見た中で一番格好いい姿だった。

 


  ◇ ◇ ◇



 その後の顛末について、特別言葉を尽くして伝えることはない。だから端的に。

 我がクラスの出し物は大盛況だった。中池はやっぱかっけーし、七海は素直に可愛かった。

 俺は、下手を打てば洒落にならない自体に巻き込みかねなかった主犯として、雑用係に任命された。

 残業上等、無休上等、無給上等。一つの仕事ではない、あちらこちらへと借り出される社畜ならぬ学畜となって、たらい回しにされた。

 それでも、なんやかんやと俺は楽しかった。なぜだろう。

 分かってる。皆の中で、ずっと笑ってるヤツがいたからだ。お為ごかしの微笑みじゃない、それは心からの笑顔だ。

 ……あいつが笑ってくれれば、それだけでやっていけるもんか。

 なんとまぁ、俺も単純な人間なんだと、今更気付いた。



  ◇ ◇ ◇


 

 陽がもう少しで沈む空の下。秋風が吹く。疲労困憊の上、肉体労働で火照った身体に冷やすのにちょうどいい。

 我が高校の校門。そこに据え付けられた、文化祭を歓迎するアーチを取り外している学生たちの姿が見える。

 彼らはどんな文化祭を迎えただろうか。仲間と笑い合いながら作業をするその横顔を見れば、おのずとその回答は導き出せる気がした。

 校庭から体育館へと向かう階段の端。そこに俺は座っていた。観客用のパイプ椅子をまとめて倉庫に運んだ帰りだ。

 昨日一昨日の喧騒の気配はもうない。文化祭の終わりを告げる学生集会も二時間前に終わった。

 ウチのクラスも出し物の片付けはほとんど終わり、居残っているのは俺のような暇人と、やる気のある有志のみだ。

 俺は足元の上履きへと吐息を当てる。

 祭りの只中の活気あふれる空間も嫌いではないが、こういう祭りのあとの空気感が好きだった。

 漂うのは心地よい疲労と、心地のよい達成感。そして幾ばくかの、くすぐったい寂しさ。こんな心持ちになるということは……やっぱり俺も、楽しかったのだろう。

「あ、一之瀬。こんなところにいた。探したわ」 

 俺の後頭部の方から、そんな声が聞こえた。

 振り返ってみると、制服姿の七海が腰に手を当てて階段の上から俺を見下ろしていた。

 俺は頭をガリガリと掻いて、

「……うるさいヤツに見つかった。はいはい、行きますよ。学畜に労働基準法は適応されないですからね」

 立ち上がろうとした。だけど、七海がとんとんと一段とばしで降りてきて、

「うるさいヤツってなによ。もう、クラスの片付けは終わったわ。それで、要件。中池くんが、成功を祝って残った人たちで教室で打ち上げやらないかって。一之瀬も来ない?」

 七海が俺の隣に着くと、体育座りで腰を下ろした。俺は少し考え、

「ああ、そうだな。行くよ。ただ、もうちょい休ませてくれ。正直、肩と腰がやべえんだよ。爺さんみたいな姿勢で打ち上げなんて様にならんだろ」

 七海は小さく笑って、

「あんたってヘンなところで見栄っ張りだよね。分かった。中池くんにはもう少し待ってもらおう」

 そう言って七海はスマホを取り出した。俺は慌てて七海に言った。

「別に待たなくていいっつーの。要件は分かったから、七海、お前は早く戻れ。花形の主演女優がいなけれりゃそれこそ打ち上げの空気がヤバイ」

 俺の言葉に、七海はなにも言わずにふるふると首を振る。

 俺はそれを受けて、ふう、と溜息をつく。

 秋風が再びさーっと吹く。俺の身体の強張りを緩める。七海の髪を揺らす。

 お互い、なにも喋らなかった。夕日の下で、ぼうっとしていた。

 七海に向かって喋りたいことはいっぱいあった。伝えたいこともいっぱいある気がする。

 でも、それは、散々あのときに交わしたのだ。だから今だけは……言葉がない沈黙に、身を任せたい。

 十分か。十五分か。陽が沈む。夕闇の、闇の部分が濃くなり始めたとき、七海が言った。

「……一之瀬。あのときの言葉。ありがとうね」

 俺は薄暗闇の中、ぽつりと返す。

「貰ってばかりじゃ俺も居心地が悪いんでな。返せるものがあるなら返したい。それだけだ」

 七海がふふ、と笑う。

「ねえ、一之瀬。あのとき言った言葉は、どこからどこまでが本音だったの?」

 俺は七海の言葉の意味を捉えようと、少し考えた。そして、言う。

「七海。俺のガキの頃からの流儀として、貰ったものがあるなら、すべて同等のものを返すと決めてる。あのとき言った俺の言葉は、全部、お前から受け取ったものに対する返礼を込めてる」

 なんだかずいぶん気取ったことを言ってしまって、俺は恥ずかしくなった。

 恥ずかしさを誤魔化すように、俺はあさっての方向を見ながら口早に続ける。

「だから、嘘なんて一つもない。全部、本音だ。俺のどんなセリフも」

 隣の七海がじっと俺を見ていた。そして、クス、と笑みをこぼすと、

「全部本音なの? そうなんだ。私、覚えてるよ。一之瀬が中池くんに言ったセリフも……」

 恥ずかしさも極まってきたので、俺はすっくと立ち上がる。

 七海が驚いた表情で俺を見上げる。

「うし、じゃあ打ち上げいくか! 肩も腰もだいぶ楽になってきた!」

 無駄にハイテンションに俺はそう言ってしまった。隣りに座っている七海は、どこかイタズラっぽい表情で、

「一之瀬って、ホント、言葉にするのが下手だよね。ぜったいモテないタイプ」

 そう言って、立ち上がって俺に並ぶ。

「うるせ」

 俺が憮然としながら階段を降り始めると、最後、笑み混じりで、七海がぽつりと言った。

「でもいいわ。私はしっかり、あなたに"言葉を贈ってもらった"から」



(了)

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