中編

「はーい! 多数決の結果、私たちのクラスの文化祭の出し物は、演劇に決まりました! 皆、がんばろ!」

 教卓に手をついて、七海が笑顔満面、大きな声でそう言った。

 よっしゃ! 皆で盛り上げよーね! と教室の方々からクラスメイトのハイテンションな声が続く。

 しばらくガヤに教室が包まれたが、七海がパンパン、と手を叩く。

「皆、盛り上がっちゃうのは分かるけど、静かに静かに。他のクラスも文化祭の話し合いをしてるからね」

 皆が教壇の七海へと視線を向け、声が静まる。

 七海がどっからか持ってきた指し棒を持ちながら、黒板にほうに振り向く。チョークでマルが付けられた演劇、という文字をこんこんと叩き、

「それで、次は具体的な準備を考えなきゃね。まずは……脚本かな。どうしようか。昔の有名な作品を演じるのもいいし……」

 はいはーい! と女子の声が聞こえた。視線を向けると、メガネを掛けた女子が手を挙げている。

 はい江森さん、と七海がその女子を指す。

「私は、オリジナルが良いと思います! 誰かが演じたことあるものなんてつまらないよ。せっかくなんだから、世界でひとつしかない話を、皆でやろ!」

 そりゃいいな、と誰かが言った。俺は視線を巡らすと、他のクラスメイトもうんうんと頷いている。

 教壇の七海が唇に指先を当て、

「そうね、もちろんそれもいいと私は思う。でも……いきなりオリジナルの脚本を皆で考えるのはちょっと大変そう。簡単でもいいから、脚本を書ける人がいればいいんだけど」

 はいはーい! と再び女子の声が聞こえた。視線を向けると、やっぱり江森だった。

「私、書けるよー! ネットでオリジナルの小説、発表してるもん。けっこうアクセス数稼いでるし、応援メールとかももらってるんだよー!」

 俺は心中で驚く。江森がよく本を読んでいるのは見たことがあるが、小説を書いているということは知らなかった。

 よくもまぁ、好き好んで小説なんか書こうと思う。俺では原稿用紙一枚を埋めるのだって、苦労させられるというのに。

 七海は江森を見て、微笑む。

「そうなんだ。じゃあ、江森さんに脚本を書いてもらうってことでいいかな?」

 いいよいいよーとクラスの方々から聞こえる。江森が席を立ち上がって、皆を見渡しながら、声を上げる。

「でもでも、ジャンルとか、簡単な舞台設定とか、キャラの性格とかは皆で決めよ! ベースは皆で作るのがきっと大事!」

 再び教室が喧騒に包まれる。どの声も楽しげだ。

「そうね。簡単な設定ぐらいなら、今からでも決められるかも。皆、もし思い付きそうだったら、どんどん案や意見を出して。私が書き出すから」

 あちらこちらから声とともに手が挙がる。七海が端の生徒から案を聞き出す。

 俺は教室に充満するエネルギーに少しあてられながら、こっそりあくびをした。

 なんだか皆すごいやる気だ。

 このクラスはもともと活きのいいヤツが集まっている印象だったが、文化祭という明確な目的ができれば、こうもエネルギーが集まるものか。

 教壇の七海が、楽しそうに自分の構想をしゃべる生徒に、うんうん、と耳を傾け、さっと要点をまとめて、黒板にチョークで書く。

 七海は文化祭の実行委員になった。自分から立候補したのだ。

 マジメなヤツだし、頭の回転も早い。人に慕われリーダーシップもある。適任なのは違いないだろう。

 黒板にはジャンルや設定、世界観が書き出される。

 姫だの貴族だの学生だのロボットだの。

 中世だの現代だのSFだの。

 青春物語だの悲愛物語だのタイムリープものだの。

 俺程度の発想力では、どのネタを拾うにしたって、それを脚本としてまとめることなんてできない。

 ましてや、その脚本を学生レベルの演劇として成立させるなんて、もってのほかだ。

 七海も皆の意見が出終わったあとに、俺と同じ考えを持ったのか、

「皆面白そうな案、ありがとう。でも、これを全部まとめるのは、ちょっと難しそうだよね……どうしよっか」

 七海はうーん、と呟きながら、腕を組んで黒板の文字列を見ると、

「……脚本を書くのは江森さんだよね。あんまり江森さんに負担を掛けるのはダメだから……江森さん。この中から、江森さんが大得意ってジャンルはある?」

 江森がはい! と立ち上がると、

「もち! 私は中世ヨーロッパ風の恋愛ファンタジーを武器にしてるからね! イケメンの騎士と深窓の姫が主役の、陰謀と愛憎と戦争! 騎士と姫の身分違いの恋!」

 江森がぐっと両手を握って熱弁する。

「……あ、そ、そうなんだ。面白そうね。じゃ、じゃあ聞く限りだと、昔の世界観で、恋愛物語が得意ってことなのかな」

 七海が若干引きながらそう言った。

「そうよ、ナナちゃん! その設定なら、めっちゃ切なくてめっちゃキュンキュンしちゃう話を書いてみせる!」

 江森がこくこく頷きながらそう言った。

「た、頼もしいな、江森さん……皆、私としては、脚本を引き受けてくれた江森さんの得意なフィールドで勝負したいって思う。皆はどう思うかな?」

 皆、近くの席の生徒と話し合う。がやがやと皆の声が聞こえる中、

「ナナ、俺、それで構わないぜ。江森に任せたほうが絶対に良いもんができる。どんなときだって仲間を信じるってのが俺の信条だ」

 人声の中でもよく通る、低音ボイスが聞こえた。

 中池だ。このクラスの中でもよく目立つ、引き締まった体に、整った顔。バスケ部の期待の星でもあるらしい。

 要するにイケメンだ。そして、七海の友達でもある。ここ最近は、一緒にいる場面をよく見かける。

 中池なら発言の影響力も大きい。皆、こぞって教室の中央にいる中池に視線を向け、うんうんと頷く。

「ありがと、中池くん。他の皆もどう思う? それでいいかな?」

 いいよー! と誰かの声が聞こえ、それでいこ! と声が続く。

「分かった。じゃあ江森さん、どの役柄なら書きやすい?」

 七海の言葉に、江森がメガネを煌めかせながら黒板へと視線を向け、

「ふむふむ……貴族の青年、とな。大国の姫、とな。正直、めっちゃ大好物!」

 七海は教壇から頷き、

「そっか。その設定なら、任せていい?」

 江森が嬉しそうに声を上げる。

「はい! 任された! 皆期待してね!」

 江森がそう言い終わったあと、教室が拍手に包まれる。

 教壇の七海は頬に手を当て、しばらく黙考すると、

「脚本は決まったね。次は……配役を決める? 今日はもう残り時間が少ないけど、主役ぐらいなら決められるかな? ……でも、脚本ができあがったあとの方がベストかも。どう、江森さん」

「私、登場人物の顔をイメージしてから話を作るタイプ! だから、私は配役を決めてもらってから書きたいなー!」

「分かった」

 七海は頷き、自分が書いた黒板の文字へと視線を集中させる。

「……主人公は貴族の青年で、ヒロインはお姫さま。難しそうだね……まずは、立候補かな。誰か、やりたい人はいる?」

 こしょこしょと話し声はするものの、誰も手を挙げない。

 いくらが活気があるクラスとは言え、率先して主役に名乗りを上げるほど豪胆なヤツはいないようだ。

 だが、すっと手が挙がる。

「ナナ。俺、主役がやりたい」

 中池が相変わらずの低音ボイスでそう言った。

 おお、と、どよめき声が教室を覆った。俺は感心する。さすがは期待の星、こういうときでも行動力があるらしい。

「中池くん、やってくれるの? ありがとう……他にはいないかな」

 七海が教壇から教室を見渡し、そう言った。

 誰も立候補はしない。そうだろうと俺は思う。中池と表立って勝負できるヤツはそうそういない。

「ただ、ナナ。条件付きなんだ」

 中池の言葉に、七海が首を傾げる。

「条件? あ、もしかして部活があるから」

 中池が首を振る。

「違う。部活と文化祭の両立ぐらいいくらでもやってやるさ。それよりも……俺は、ある人がヒロインなら、主人公をやりたいんだ」

 七海が中池の言葉の意味を図れないのか、不思議そうに、

「ある人? ヒロイン役を指名するってこと?」

 中池が重々しく頷く。

「そうだ」

 七海がそう、と独りごち、再度中池に訊ねる。

「それが良いかどうかは別にして、指名したい人が誰か、まずは訊くよ。中池くんは誰がヒロインをやってほしいの?」

 中池が右手を挙げる。そして、その手のひらの行き先は、

「ナナ。お前だよ。お前がヒロインをやってくれるなら、俺は主人公をやりたい」

 教壇にいる七海だった。

 クラスが大きくどよめく。愛の告白か!? きゃー! なんて黄色い声が聞こえた。

「……中池くん。嬉しいけど、私、文化祭の実行委員なの。演劇と実行委員を両立するのは、ちょっと難しいかも」

 七海が戸惑った声で言った。

 中池が首を振り、

「大丈夫だ、ナナ。演劇は朝から晩まで、四六時中やるものでもないだろう? お前が出番のときだけ、舞台に立ってくれればいい。それまでは、皆に任せよう。なぁ皆! ナナのこと、全力でバックアップできるよな!」

 クラスを見渡しながら、中池が大きな声でそう言った。皆、頷く。

「ほら、皆頷いてるぜ。ナナ、皆で力を合わせて協力すれば、どんな苦難だって乗り越えられる。俺はそう信じてる」

 盛大な拍手。俺は鳴り響く拍手の中で、ぼけっと思う。

 俺が気付いてないだけで、すでに演劇は始まってるのか?

「……ごめん、そう言ってもらえるのは、嬉しい。でも、私、自信ない。どっちも、中途半端なことになって、皆に迷惑を掛けちゃうかも」

 七海が心細そうにそう言った。

「ナナミン、大丈夫だよ。私も、ナナミンを推薦したい。だって、お姫さま役、すごく似合うもん。私、ナナミンが着る衣装なら作りたい」

「そうだよそうだよ、私も絶対に似合うと思う! ナナミンが舞台に立ってるところ、私見たい! 頑張って手伝うから!」

 二人の女子生徒がそう言った。

 俺は声の主へと視線を向ける。大野と大原。こいつらは背格好が似ていて、姉妹のように仲が良く、いつもセットで一緒にいる。

 そして、中池と同じく、七海の友達だ。

 二人の言葉を受け、教壇の七海が胸の前で両手を組んでぎゅっと握る。

「ありがと、二人とも。でも……私は……ごめん、ちょっと時間をくれない? それに、私や中池くん以外に、主役やヒロインをやりたい人が、いるかもしれないね」

 力ない微笑みで七海はそう言った。そして七海は黒板の上に掲げられた丸時計を見る。

「もう時間ないな。立候補、または推薦制にしようか。もし立候補したい人や、推薦したい人がいるなら、ホームルームが終わったあとに私に言って。来週のこの時間に、意気込みや推薦理由を発表してもらおう」

 その後、担任が七海の代わりに教壇に立って、特別ホームルームは終了となり、土曜日の授業もそのまま終了。

 放課後となり、皆教室の方々へと散る。

 座って帰り支度をしている俺の前に、原が来た。

「おいおいおいおい、聞いたか一之瀬。七海がヒロインだってよ! ぜってー萌えるって!」

 妙にハイテンションだった。俺は鞄に教科書を詰める。

「七海がヒロインかどうかはまだ決まってないだろ。他の立候補や推薦者が出てくるかもしれない」

 原は俺の机に手のひらをどん、と乗せると、

「決まってるべ。中池が推してるんだから確定だよ。こっから立候補も推薦も、寒いだけだよ。皆それが分かんねえことないって」

 俺は原の顔をまじまじと見る。原は驚いたように俺を見て、

「……え、なに。一之瀬」

「実は俺、推薦したい人がいるんだ」

「あら、そうなの? 誰だよ、お前の推しメンは」

 俺は間髪入れずに言う。

「お前だ、原」

 原はぱちと瞼を瞬くと、

「俺? ああ、俺を主役に推すってこと? いやでも、中池がいるからなぁ。でも、友達のお前にそこまで買ってもらっちゃ、簡単に断るわけにも……」

「違う、ヒロインだ。ヒロインにお前を推すんだ」

 原は呆然と俺を見る。

「……ヒロインに、俺?」

 戸惑う原に向かって、俺は言う。

「そうだ。お前ならヒロイン役も勤まるはずだ。微妙に女顔だし、カツラでも被ればきっと七海なんて及ばないくらい萌え萌えな女子になれる」

「……一之瀬、なんか悪いもんでも食ったか?」

 原は一転、心配そうな声色で俺にそう言った。

 俺は机の中に手を入れて、なにもないことを確認する。

「原、言っとくが俺は正気だし、本気だ。俺はお前に、舞台に立って欲しいんだ。中池との濃厚なラブストーリーを心の友と書いて心友の俺の前で見せてくれ」

 原が俺の机の前から、一歩退く。

「お前、そっちの気があったのか……初めて知ったよ。俺、これからお前とどんなふうに接していけばいいのか……」

「どんなふうもなにも、親友として接して欲しいよ。他の誰でもない、オンリーワンの存在として。それだけが望みだ、原」

 原はぐ、と拳を握り、顔を伏せると、すぐになにかを決意した表情で、俺を見た。

「分かったよ。俺はお前と友達以上の関係を築くのは難しいが……ヒロインとして名乗りを上げるくらいなら、友達としてやってやれないことはない。一之瀬、俺を七海に推薦してくれ」

 俺はじー、と鞄のチャックを閉めると、

「冗談に決まってんだろ気色悪い。ヒロインはたぶん七海だ」

 俺は鞄を肩に掛けながら席を立つ。

 お前が言い出したんだろー! という至極もっともな怒りを背中に受けながら、俺は教室を出た。

 


  ◇ ◇ ◇


 

 廊下から外を見ると、凄まじい量の雨が降っている。

 横殴りの雨風は樹木を暴力的に揺らし、ボタボタと窓に直撃して、でかい水滴となってガラスに張り付く。

 巨大な秋台風が綺麗にわが町を直撃し、放課後も中頃になった現在、帰宅どころか、外に出ることも許さない暴威を示している。

 廊下の手前から最奥まで、静まり返って人の気配はない。

 台風が来ることはさんざん朝から喧伝されていたし、それを見越してほとんどの生徒は帰宅した。部活動だって中止なのだ。

 なら、なぜ俺は呑気に学校に残っているのか。文化祭の準備だ。

 未だ脚本もなく役者すら決まっていない段階だが、クラスの中で要職につき、衣装作りだの役者だの脚本だのをやるヤツは、大体確定しているのが大方の男子の見方だ。

 特に技能もないほとんどの男子は舞台作りや舞台演出という力仕事の雑事に人員を割くことが分かりきっている。

 その中で、予定がない暇なヤツだけ、放課後に使ってない空き教室を借りて、今のうちに必要な機材や費用、段取りや役割を決めておこうと裏で話し合っていた。

 それに俺は参加していた。会合が終わり、俺は皆に別れを告げて、担任に空き教室を使い終わった旨を伝えた。そして、今、一人廊下にいるという状態だ。

 実は、つい十五分まではここまで雨脚は強くなかった。実際、俺以外のメンバーは皆帰宅の途についているようだからだ。

 傘なんてろくに役も立たないこの状況で、帰るのはぞっとしない。

 俺は壁に寄りかかって、スマホで自分の地域の天気予報を確認する。一時間後の天気予報は、雨は変わらず降るものの、多少はマシになりそうな数字が並んでいる。

 教室で時間を潰すか。俺は壁から離れ、自分のクラスへと歩き出す。

 なにも考えず、無遠慮に教室後手の扉を開けた。廊下から見える他の教室に人はいなかったし、当然自分の教室だって誰もいないだろうと俺は踏んでいたからだ。

 だけど、俺は扉を開けた姿勢で固まった。

 人がいたからだ。教室の窓際で、外を見ている女子生徒の姿。

 肩まで掛かる黒髪と、華奢な後姿は見覚えがある。七海だ。

 なぜ一人で七海はいるのか。俺がとっさに思ったのはそれだった。だけど、それは考えて分かることでは、当然ない。

 七海はこちらを見ない。ずっと、窓の先から、薄暗く、雨が降りしきる外を見ている。

 俺の存在に気づいていない、とは思えない。俺は無遠慮に、盛大に音を鳴らして扉を開けたからだ。

 どうする? と俺は自問した。

 正直な話、ここで時間を潰すのは、気まずいことこの上ない。

 そしてたとえ俺がその気まずさを無理やり払拭して教室に居座っても、今度は七海のほうが居づらいだろう。

 俺が廊下側で立ちながらそんなことを考えていると、

「なにしてんの、一之瀬。教室に用があるなら入れば」

 七海の声が聞こえた。

 俺は驚く。七海は変わらず窓から外を見ているわけで、誰かが入ってきたのは音で分かれども、その"誰か"が分かるとは思えなかったからだ。

 そして気付く。窓に、俺の姿が反射していた。

「……別に用はない。雨宿りの場所を探していて、教室に来ただけだ。お前がいるとは思わなかったから、無遠慮に入っちまった。悪いな」

 俺はそう言って、踵を返そうとした。

「悪いってどういう意味。別に私は、あんたがいてもいなくても、なにも思わないわ」

「……そうかい。じゃ、失礼するよ」

 俺は教室に足を踏み入れる。自分の席に座り、鞄を机の上に放り投げる。

「ところで七海、お前こそなにしてんだ?」

 俺は自分でそう喋りながら、強烈な違和感を覚えた。

 そう言えば、俺はあれから一度も七海と会話をしていなかったのだと気付く。大体三週間ぶりだ。

「私は文化祭実行委員の仕事。帰ろうとしたときに、台風に捕まっちゃった。だからあんたと同じ」

 そう喋りながら、七海は変わらず俺を見ようとしない。

 どんよりとした灰色の空と、叩きつけるような雨。それを見続けることに、どんな意味があるのだろうか。

 会話が途切れ、沈黙が俺と七海の間を漂う。

 鬱屈とした沈黙を責め立てるように、喧しい雨音が教室に充満する。

「……なんだか、こんな日はあの事件を思い出す」

「あの事件?」

 俺は七海に訊いた。

「オーコンビ事件」

「……ああ、大野と大原ね。そう言えばあの日も雨だった」

 俺はそう言いながら、あの日の教室を思い出す。

「確か大野が、休みに某夢の国に友達と行って、買った限定品のキャラグッズを学校に持ってきて、皆に見せびらかしたんだよな。キャラクターを象ったシャープペンだっけか」

「そ。それで、昼にそれが失くなっちゃった。大野さんは自分が失くすはずないって考えてたから、盗まれたって思ったんだよね。すごい剣幕で、怒ってた」

 できて間もないクラスの中、鬼の形相を浮かべ怒り狂う女子は、控えめに言ってもかなり恐ろしかった。

 そんな大事なものを見せびらかしたいなんてしょうもない理由で、学校に持ってくるな、と俺は心の中で思った覚えがある。

「最後には大野さん、泣き出しちゃった。皆慌てて、グッズ探しを手伝った。男子も女子も、自分の鞄とかロッカーとかひっくり返すように調べて」

「それで盗んだのは、大野の中学からの友達の、大原だったってオチじゃなかったか。盗んだっつーか、本人は借りてたつもりだったらしいが」

 そして二人は、長い付き合いの二人だけが分かる空気感で納得し合い、春先の些細な事件は解決を見た。

 あれだけ大騒ぎして身内オチかい! と誰しもが脱力し、心の中で突っ込んだと思う。

「あれ、そんな終わり方だったっけ。私が覚えてるのは、ちょっと違うな」

 なぜか七海は、笑みを声色に込めながら、そう言った。

「違うか? 俺はそうとしか覚えてない」

「違うっていうか……それで終わりじゃなかった。私が言うのもなんだけど、その後に一悶着あったでしょ」

「……ああ」

 七海が言ったことの意味は分かるし、その一悶着は俺の中で印象深い。大野と大原が生み出した些細な事件より、はるかに。

 だけど、俺はその先を口に出すべきか迷った。二の句をためらう俺を尻目に、七海は続けた。

「私が、二人に怒った。皆を巻き込んで、心配させて。大事にしておいて、二人だけで勝手に納得し合わないでって。ちゃんと皆に謝って、問題が起きた理由を説明してって」

「……そうだな」

 よく分からん何かを納得しクスクス笑い合う大野と大原に向かって、つかつかとと七海が歩み寄っていき、大きな声でそう言った。

 皆、昼から大野に気を遣ったし、時間と労力も掛けた。大野は今日中に見つからなかったら先生に報告し、もっと大事にしようとすらしていたのだ。

 だから確かに、七海の言った一言は正しかった。俺も心の一部分では、溜飲を下げた。

 しかし、俺はそれ以上にもっとヤバイものを感じた。

 事件は一応の解決を見た。大野は大切なものを失くさずに済み、出来心でも勝手に借りていた大原だって事無きを得て安心しただろう。

 周りの生徒も徒労感こそあれ、穏便な着地点に落ちたことを喜んでいたはずだった。

 七海が言った一言は、消えかけた火種にガソリンをぶっかけるようなものだった。

 静まり返った教室の雰囲気は、掛け値なしに不穏だった。

 そして、唐突にキツイ言葉を押し付けてきた七海に驚き、呆然としていた大野と大原が、その表情に怒りの色合いを混ぜようとしたとき……。

「そこで、一人の男子生徒がいきなり来たんだ」

「……悪い、俺はそこから覚えてない」

 俺はそう言った。

 七海はふふ、と小さく笑った。七海の小さな笑い声が、俺にはひどく懐かしく思えた。

「そう? 私は、すごく覚えてるけど。じゃ、覚えてない一之瀬に訊くよ。その男子生徒……そうだね、少年Iって呼ぼうかな。少年I、なんて言ったと思う?」

「分かんねえよ。どうせくだらねえことだろ。あと少年Iってやめろ。なんだかイリーガルな存在めいてる」

「"悪い、最初に借りたのはボクなんだ。ボ、ボク、実は夢の国の大ファンで。ネズミー男子で、可愛い限定グッズに目がないんだ。それに気付いた大原がボクから取り上げて、ずっと保管しててくれたんだよ"」

 誰のモノマネか知らんが、七海はヘンに低くアホっぽい声色でそう言った。

「少年Iとやらは興味ないが、そいつはそこまで低能な言い方はしない。あと一人称が違う。再現するならせめてそこは守ってくれ」

 俺の憮然とした言葉に、七海はクスクスと笑う。

「皆、ポカーンとしてた。いきなり割って入ってきて、そんなこと言うんだもん。大野さんも大原さんも、びっくりしてたよね。少年Iの言葉が正しかったら、そんな反応しないはずなのに」

「きっとそいつはなにも考えずに言ったんだ。暇だったから仲間に混ざりたかったのかもしれん」

「……でも、私も、大野さんも、大原さんも、そいつのバカな一言に毒気を抜かれちゃった。周りの皆もね。だから、その場はそれで終わった」

 俺はため息をつきつつ、

「そうだな。それで終わりだ。なんとまぁ、くだらん話だ」

 しかし、七海は窓から外を見ながら、首を振った。

「ううん。違うよ。まだ話は続きがあるの……私は、もちろん納得できなかった。大野さんや大原さん以上に、いきなり来て二人を守るようなことを言う少年Iがムカついたの。だから、放課後になって少年Iを問い詰めた」

「そっとしておいてやるのが、優しさじゃねえか?」

 俺の小言を無視して、七海は続ける。

「少年Iはね、私にこう言ったの。"お前の言った言葉は正しい。きっと皆が心のなかで思ってたことだ。だけど、言わずに済むことなら、言わないままにすることも、必要なんだ。皆が皆、お前みたいに正しくなれないから"って」

「……つまらん意見だ」

 七海は、「そう?」と言った。

「私はね、そいつがその後に言った一言が、今でも忘れられないよ。少年Iは、こう言ったんだ」

"だけどそんなふうに正しいことを言えるお前が、俺には他の誰よりも格好良く見えた。だから俺は、せめてあの場は、お前の正しさの反対側を担ってみたくなったんだ"

 七海が喋る一言に合わせて、俺は心中でまったく同じフレーズを繰り返す。

「その瞬間は、言われた意味が分からなかった。でも、そいつと別れて、少し経って気付いたんだ。そいつはね、きっと私が正しい言葉を振りかざして、人を傷つけるのを心配したんだろうって。だから、自分が悪役になって、私の言葉の受け皿を用意したんだろうって」

「穿ち過ぎだ。そんなこと考えるほど、少年Iとやらは頭が回る人間じゃない」

 実際。

 実際、七海の言葉は真実じゃない。そんなつもりじゃなかった。

 単に、臆病だからあの空気が居た堪れなかった。そんな陳腐な理由しか浮かばないんだ。

「一之瀬。あのときまで、私の振りかざす言葉を受けて、人は色んな反応をしたんだ。感情的に怒る人もいれば、バカじゃないかって舌打ちをする人もいた。逆にすぐに謝る人もいれば、なんとなく共感してれる人もいた。だけど……格好いいなんて言う人はいなかったな。ましてや、勝手に悪役を買って出る人なんて、私の人生で一度も出会ったことがなかった」

 後ろ姿の七海が、指先を顔に持っていく。軽く、指で頬をなぞった。

 そして振り返って俺を見る。七海は微笑んでいた。

「そのときからかな。私、その少年Iがすごく気になったの。だから、こっちから話しかけて、仲良くなって……バカみたいなやり取りを何度もして。いつの間にか、その人が好きになっちゃった」

 俺は七海の微笑みを直視できず、視線を机の上の鞄に縫い付ける。

「……ねえ、一之瀬」

 七海の声が耳に届く。

「なんだ」

「言葉はナイフなのかな」

 俺は返す言葉が詰まる。そうじゃない……と言おうとして、

「そうだな。言葉は人を傷つける。言葉にしなければ形にならなかった。誰も傷つけることはなかった」

 俺はそこまで言って、一拍置く。

「だけど。それは言葉の価値を信じられない俺だからそう思うんだ。言葉の価値を信じられるヤツなら、もっと違うことを言えるはずだ」 

「……それは、なに?」

 俺は七海を見る。

 七海に特別な表情は浮かんでいない。ただ、七海の瞳が、俺の姿をじっと捉えていた。

「言葉はギフト、と言ったヤツがいた。俺には、そうは思えない。だけど、そう信じられるヤツは格好いいと、俺は今でもずっと思ってる」

 七海はほんの僅か、驚きを表情に込めた。

 だけど、すぐにその表情は陰る。そして、か細い声で言った。

「……言葉は、ギフトなんかじゃない。勝手に贈りつけて、勝手に自己満足して……そうされた相手の気持ちを、全然理解できてなかった」

「七海」

 咄嗟に口にした俺の言葉を遮るように、七海は続ける。

「だけどね、一之瀬。言葉はナイフじゃないんだよ。人を傷つけるものじゃないの。言葉は……」

 七海は力なく笑う。

「物差し。ちゃんとしっかり考えて、人との適切な距離を測るための道具。人を嫌いになる気持ちも、人を、好きになる気持ちも……適切な言葉を選んで、ちゃんと測るの」

 俺は……俺は理屈では、七海の言葉に同意した。

 実際、本音では、俺は言葉はナイフだとも、ギフトだとも思ってない。そんな極論じみたものではない。

 用心に用心を重ね、角が立たないように、だけど自分の主張を見失わないように、人は言葉を口にする。

 誰だって人に嫌われたくない。だけど、誰だって過度に人に好かれたいとも思わない。関係性に中庸を求める。そのためのツールが言葉だ。

 だけど。

 だけど、俺は感情で思う。

 七海にだけは……そんな言葉を口にして欲しくはなかった、と。

 そんな在り来りで、陳腐で、誰だって知ってる言葉を。俺が格好いいヤツだと焦がれていた女子は、そんなつまらないことを絶対に言わなかった。

 俺は俯いて、奥歯をぎり、と噛み締め、溢れ出そうな感情を堰き止める。

 そして顔を上げ、笑った。

「そうかもしれんな……そう言えば七海、お前、演劇のヒロイン役を射止めそうじゃねえか。すげー人気だな」

 七海は驚いた表情を浮かべる。

 バカバカしいほど露骨だ。だけど、俺は強引にでも話を変えなければ、溢れ出そうな言葉を止められそうになかった。

「まだ決まってないよ。私以外でも立候補する人がいるかもしれないし」

「中池がお前を指名したんだ。それに文句をつけるヤツはいない。お前だって、それが嫌だとは思わないだろ?」

 中池と七海。二人とも活発で、素直で、リーダーシップがある。似合ってると率直に俺は思う。

 しかし七海は、しばらく無言だった。窓に体を預け、俺を静かに見ている。

 俺は何かおかしなことを言っただろうか? 考えてみても、その理由が思い当たらない。

 そして、七海が口を開く。

「ねえ、一之瀬。私が舞台に立つのが震えるほど怖いって言ったら、信じる?」

 俺は七海の一言に驚き、そして返答に間を置く。

「……理由による、としか言えない」

 俺の言葉に、七海は小さく頷く。そして、天井を見る。蛍光灯の白色が、じりじりと光を放っている。

「今まで、誰にも言ったことはないんだけど。昔。今よりずっと昔。あれは小学校の学芸会だったかな。私さ、今みたいに、実行委員をやってたんだよ。そういうのが好きだったから。でもね、昔の私は今の私より、ずっと酷い性格で……話し合いでも、しょっちゅう喧嘩してた。私としては正しいことを言ってるつもりでも、周りの人からは全然正しく見えなかったんだろうね。だから、気付いたら総スカン。演劇の日、演者の子、ほとんどボイコットしちゃって。だから私が主演として舞台に立った。練習とか、準備とか、なにもしてなくて……私の親が見に来てたのに、全然、演技なんてできなかった」

「おいおい、ヘビィな話じゃねえか」

 俺は苦笑しながらそう言った。上辺だけでも茶化したほうがいいと俺は思ったのだ。

「トラウマ、なんて大したものじゃないけど……思い出すの。あのとき舞台に立った感覚を」

 七海は自分の両腕を抱いて、そう言った。

「七海。昔と今は違うだろ? 今のお前なら、そんなことは絶対にならない。中池も江森も大野も大原も、お前を信頼してる。クラスの皆も、全力でバックアップすると言ってた」

 そう言いながら、それは慰めにはならないだろうと俺は思っていた。

 忘れられない過去の記憶は、そういう分かりきった理屈の枠外に残っているからだ。

 そしてやはり、七海は首を振るだけだった。俺は軽く息を吐き、

「もし。お前がどうしても嫌だというのなら、それを伝えればいい。クラスの連中は猪突猛進な連中揃いだが、決して理解のないヤツらじゃない。それは俺よりお前が知ってるはずだ」

 七海は再度、力なく首を振る。

「今日、大野さんが私の体のサイズを測ったんだよ。衣装の準備を進めたいからって。江森さんも、私を想定して脚本を書き始めてるんだって。皆、私が舞台に立つことを望んでる。そんな気持ちを、私は裏切れない」

 俺は七海の言葉に対して、無性に苛立った。

「七海。なんでお前は他人の言うことをいちいち気にしてる? どいつもこいつもお前の意見を無視して勝手に始めたことだ。断る権利はいくらでもある。前のお前なら、そんなこと俺が言うまでもなく……」

 俺は苛立ち混じりにそこまで言って、すぐに自分の浅はかさを痛感する。

 七海はなにも言わずに微笑んでいた。

 その微笑みは、この三週間で嫌というほど見たものだ。そして、その微笑みは三週間より前は一度も見たことがない。

「……言葉は物差しだよ、一之瀬。私は"断る"なんて言葉を使って、皆との距離を離したくない。私は、そう決めたの」

 自分の短絡的な言動が、気付いたら自分に返ってくる。俺は今度こそ、なにも言えなかった。

 七海が窓から体を離し、外を見る。

「一之瀬、雨、弱まってきた。私、もう帰るよ」

 確かに、雨脚はさきほどよりずっと弱まっている。

 雲間から陽の光が差し込んでいるのか、薄暗かった外も明るくなり始めていた。

「……ああ。お疲れ、七海」

「うん」

 七海は座っている俺の脇を通って、教室の後手の扉へと向かう。

 七海の足音が、扉の直前まで進んだとき、七海の声がぽつりと聞こえた。

「一之瀬。あなたは私にたくさんのことを教えてくれた。それだけでも、感謝してる」

 七海の小さな呟きが、誰に宛てるでもなく、空疎な教室に霧散する。

 扉が開き、七海の足音がどんどん遠ざかっていく。そして、完全に聞こえなくなった。

 俺は一人、教室に取り残される。席から立ち上がって、七海が立っていた窓際に行き、目を閉じる。

 俺は教室の扉を開けた瞬間を思い出す。そのとき、ほんの一瞬、七海の横顔が俺の視界に入った。

 俺には、七海が泣いていたように見えた。



  ◇ ◇ ◇


  

 例えば。

 七海が自分の考えを変えた理由が、俺の手には及ばない、端から預かり知らないことだったら。

 なんでもいい。どこぞの彼氏に振られた。友達と喧嘩をした。家族に怒られた。ペットが亡くなった。成績が悪くなった。なんとなく気分を変えたくなった。

 どんな理由にせよ、俺はきっと七海の変化に納得できただろう。遠い存在である七海の変化を淋しく思いながらも、そういうものだと割り切れたはずだ。

 人は生きていれば嫌でも変わっていく。身体も心も考え方も。

 昨日の自分と今日の自分は、ほんの僅かかもしれないけれど、確実に異なる。ごく当たり前のサイクル。それに逆らうことは、誰もできない。

 だけど、七海の変化の原因が、俺にあるとすれば。

 責任だとか、義務だとか、そんな畏まった言葉は使いたくない。無力な一学生の俺に、そんな重責を負えるなんて思えない。

 でも。

 七海に元に戻れなんて言わない。そんな資格だってない。

 俺はただ、七海に思い出して欲しかった。

 幼い頃に親に連れられて行った田舎の自然。誰かと遊びに行った公園で見た沈む夕日。ショーケースの先にある欲しいものが、手に入らなかった切なさ。

 今はほとんどディティールを失ったその特別な情景を懐かしく思い出すように……かつて、自分が思い描き、今はもう失った言葉の価値を。

 言葉はギフト、と七海は言った。

 ギフト。 gift。贈り物と七海は訳したが、その言葉には別の意味も込められている。

 才能。神からの祝福のプレゼント。言葉は神が与えた、ヒトと他の生き物を分かつ最たる力だ。

 あの日、七海は俺に言葉を送った。短い言葉。だけど、ヒトをヒトたらしめる美しい言葉。その言葉には七海の純粋な想いの結実が込められていた。

 俺は、あのときそれを返せなかった。そして今もまだ、それを返してない。七海からの贈り物は、俺の心の片隅に、誰にも触れられぬように、丁寧に置かれている。

 貰ったものは返す。そんな礼儀は、小学生でも知ってる。

 だからこそ、俺にはまだやることがある。

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