言葉にすれば
@garuzaku
前編
「言葉はナイフだ」
俺は紙にシャープペンで、カリカリと棒人間を書きながらそう言った。
棒人間はナイフを持っている。ナイフというかただの棒なのだが、俺の脳内ではそうなっている。
「言われた人間は刺されて痛い。もちろん、リアルの痛みじゃなくて、心の痛みでしかない。だけど、心の痛みとは場合によっては現実の痛みに勝ることもある」
俺の一つ前の席にいる七海はふん、と鼻で笑った。いや、俺からは七海の背中しか見えないから、実際に鼻で笑ったかは分からんが。
七海の華奢な背中に掛かっている、黒い髪が揺れる。七海が指で自分の髪を梳いた。
俺は棒人間の隣に、怪物を書く。怪物と言っても、丸に線が生えただけの雪だるまの下半身のような謎の物体だ。
だけど、こいつは凶暴な怪物なのだ。研ぎ澄まされたナイフであっても、立ち向かえるかどうか分からない。俺の脳内ではそうなっている。
「一之瀬みたいな、いっつもむっつりしてて、ねくらーな非リアで陰キャラだからそう思うの。言葉はナイフなんかじゃない、もっと綺麗ですごいものなの」
聞き慣れた文言をそらんじるように七海がそう言った。
「どう綺麗ですごいんだよ」
俺は一回消しゴムで棒人間と怪物を消す。
消しカスを手のひらでどけると、そこに次のシーンを書き始める。
「言葉はギフト」
忌々しい居残りだというのに、なぜか機嫌がいいのか、七海がまた唄うように言った。
ギフト。意味が分からない。脳内でお歳暮で送る、箱に入った詰め物の一式が思い浮かぶ。
「贈り物なの。しっかり心を込めて、相手にありがとう、って渡すものなの。だから綺麗で、すごい。言葉があるから、人は友達ができるし、恋ができるのよ」
俺は動かしていたシャープペンを止める。教室の窓から空を見上げると、夕の気配をまとい始めていた。
「言葉はギフトで、贈れば友達ができるし、恋ができる。ああ、確かにすごいな。それだけ聞くと、言葉を交わすだけで、憎しみも戦争もない、世界平和も成し遂げられそうだ。でも」
俺は棒人間にナイフを構えさせる。相対するのは凶暴な怪物。
両者の間合いはほとんどない。棒人間のナイフが、鋭く怪物の急所に吸い込まれるのか。それとも怪物の強烈な一撃が、棒人間を容易く屠るのか。
「言葉によって憎しみを生み、言葉によって戦争を始めることだってあるだろう。憎しみだとか戦争、なんて大層な例えじゃなく、どうでもいい日常だって、そうした類のことはよくある」
俺は再度消しゴムで書いた落書きを消す。次のシーンで決着だ。
「口に出したから誰かを傷つけること。言葉にしたから周りの反感を買うこと。なにかを思っても、言葉にしなければその"なにか"が霧散したままに済んだのに、言葉にしたから"なにか"が形になってわざわいを招く」
そこで、俺の手が止まる。
なにも考えずに書き始めたせいで、オチが思い浮かばない。
「七海、お前だってそれに身に覚えがないとは言えんだろ。つーか、しょっちゅうキツイこと言うせいで、誰かと喧嘩してるだろ」
七海がまた、ふん、と鼻を鳴らす。
「さっきも言ったでしょ? 言葉はギフト。私は、しっかり相手を思って、感謝を込めて言葉を出してるの。あんたにはキツイように聞こえても、ちゃんと相手には私の気持ちが伝わってるわ」
ああそう、と俺は呟いた。
まあ、実際それは一面の真実だった。七海が繰り出す直裁的な発言はしばしば教室内に軋轢をもたらすが、それに悪意がないと皆知っている。
喧嘩が始まるのはいつも早いが、そのあとに仲良くなるのも同じくらい早い。それが七海の人間関係だった。
ただ。ただ、それに例外がないとは言えない。特に俺の立場では、それに異を唱えたくなる。
「七海、お前が喋る言葉は、相手を思って、感謝を込めてると言ったな。ふむふむ、ご立派なことだ。どうせ、そのモットーに、まったく疑念も抱いていないつもりだろう」
「もち」
「じゃあ、今から一つのケースを想定しよう」
俺はシャープペンを指で回す。
「登場人物は一人の男子高校生。彼が電車の中で漫画雑誌を取り出す。電車に乗る前に駅の売店で買ったものだ。さてさて、それでは読み始めよう……表紙をめくる。そしてどん、と、アップで目に入るのは水着姿の女の子だ。いわゆるグラビアだな。彼は健全な男子高校生を自認している。もちろん、それに目を奪われる。漫画よりも、まずはそれを楽しもう。そう考え、彼はじっくりと視線を落とし……」
トン、とシャープペンの先を俺は紙の上に落とした。
「お前が隣の車両からそんな彼を見ていた、とする。お前はどう思う」
「……それ、今朝の一之瀬じゃん」
七海が冷めた声色でそう言った。
「そうだな。これは今日の朝に実際にあった悲劇だ。ゆえに、これはお前に自覚してもらうための、再現なんだよ。七海、お前は電車から降りて俺と会ったとき、なんと言った?」
「うわっキッモ!」
間髪入れずに七海はそう言った。
しかも今朝と同じく、ものすごく実感が込められた、ノリノリの声色だ。
俺もやっぱり今朝と同じく傷つく。
「……七海さん。あんた、本当に相手を思って、感謝の気持ちを込めて、言葉を出してんだろうな。今の一言に、思いやりも感謝も、欠片も感じないのだが」
七海は自分の髪の先を指で包み、尻尾を作る。七海の白い首筋が見えた。
「うーん……まぁ、ケースバイケースよね。人によっては、そういうふうになっちゃうかな。人によっては、ていうか、クラスに一人いるかいないかぐらいの、ごく少数なんだけどね」
「それ、要するに俺じゃねえのか」
七海はうーん、と再び呟き、
「まあ、そうだよね」
なぜか嬉しそうに七海はそう言った。
俺は頭が痛くなって、額に手のひらを当てた。
「なんで俺だけ例外なんだよ……ったく。やはり俺には言葉はナイフだとしか思えんな。お前のキモいという言葉に、俺の心が悲しみの涙を流し、痛みに悶え苦しんでる」
「そっか、それは大変ね……よし、終わったっ!」
七海はそう言って、席を立つ。
机の上の紙を手に持つと、てくてくと教室の前扉まで進んでいく。
ふと思い出したように立ち止まって振り返り、俺を見る。
「……ところで一之瀬、あんたまだ小テスト終わってないの? もう二十分経つけど」
俺はサッと落書きの部分を手で覆い、
「俺は常に熟考に努める人間なんだよ。お前みたいに短絡的ではないのだ。いいから俺に構わずさっさと先生に提出してこい」
「あっそ」
七海はどうでもよさそうにそう言って、踵を返して教室から出て行く。
俺以外誰もいなくなった教室の中央で、俺はふう、と溜息をつく。
俺と七海は放課後の居残り追試中だった。一週間前の物理の小テストで、ふたりとも赤点を食らったからだ。
などと言えば俺も七海も極めつけのバカだと思われるだろうが、極めつけのバカは俺だけであり、七海は単に小テストの日に風邪で休んだだけだった。
七海の成績なら本来は追試免除も余裕だったし、実際に先生にそう言われたそうだ。しかし妙にマジメなところがあるあいつは、わざわざ居残りに参加して、俺に付き合った。
俺はあくびをした。話のオチを付けるため、棒人間と怪物を小テスト用紙の片隅にカリカリと書く。
怪物は、実は人の言葉を操れる。さらに、本当は人との融和を望んでいた。
怪物は辿々しい言葉で、棒人間に説得を試みる。しかし、棒人間は、本能的に怪物とは相容れないと思っている。
棒人間は、話しかける怪物の隙を見て、ナイフを怪物に突き立てる。ぎゃーっと怪物は叫ぶ。
怪物が崩れ落ち、棒人間は勝利する。しかし、なぜか棒人間の心は晴れない。
本当は、怪物と仲良くやれる方法もあったんじゃないか。取り返しのつかない後悔に、少しづつ苛まれながら、彼は立ちすくむ……。
という一連の流れを面倒臭いので描写せず、丸い物体が転がり、棒でできた人間が線を持ちながら立っているシーンだけを書いて、俺のクリエイティブな知的活動は幕を下ろした。
ガラガラ、と前扉が開かれる。俺が視線を向けると、七海が入ってくるところだった。
「やった、満点だった。まぁ、難しくなかったし、私ならよゆーよね」
ドヤ顔で七海がそう言った。
「それはなにより。なんなら、今から俺に全問解答を教えてくれてもいいぞ」
「バカ。このくらい自分でどうにかしなさい」
七海は眉をひそめながら呆れたようにそう言って、教室の中央へと歩いてくる。
そして、なぜか俺の隣の席に座った。
足を組んで、机に肩肘をついて、じろじろと座っている俺の全身像を捉えてくる。
「……なんだよ。終わったんならさっさと帰れ。敗残兵の悲哀を上から眺めるのが幸せか。趣味が悪い」
「先生に言われたの。不出来な生徒がまだ居残ってるから、監視してこいって。どうせマジメにテストを受けないで、落書きでもしてるだろって」
七海は俺の手元、棒人間と怪物のスペクタクルストーリーに視線を向けながら、にまーと意地悪く笑い、余裕に満ちた声色でそう言った。
「監視したけりゃいくらでも監視すりゃいいが、なんでお前は俺の真横で、しかも間近に俺のほうを向いてる。俺は生まれたての子鹿のように繊細なんだよ。マジメにテストに集中したくても、これじゃ集中できん」
「ぺらぺらうるさい。あんたがテスト終わらせなきゃいつまで経っても私は帰れないの。くだらないこと言ってないでさっさとやりなさい」
別に俺の監視なんてほったらかしてさっさと帰ればいいだろ……と思ったが、俺は言わなかった。
「……はいはい」
俺はこんこん、とシャープペンの尻で額を叩き、ようやく小テストに集中することにした。
そこから十五分ほど小テストに没入し、俺はなんとか最終段の問題を解き終えて、開放感で吐息を漏らしつつシャープペンを手放す。
「終わった?」
隣の七海が小首を傾げながらそう訊いてきた。
「終わったよ。じゃ、俺は出してくるから。わざわざ監視業務、おつかれさん。長々と付き合わせて悪かった、また明日な」
俺は凝った肩を叩きつつ、席を立ちあがる。
「なにまとめようとしてんのよ、テストを提出するまでがテストなの。あんたがちゃんとテスト出すまで見届けるから」
七海も立ち上がって、そう言った。
「……小学生の遠足か。どんだけ信用ないんだ、俺は」
俺はため息を漏らしつつ、ペラペラのテスト用紙を持ちながら歩き出した。
◇ ◇ ◇
「七海。あくまで一般論だと言わせてもらうが。やはりお前はもう少し言葉を慎むことを覚えたほうがいい」
ぺろぺろと赤い舌を覗かせながらアイスを舐めている七海に、俺はそう言った。
七海は幸せそうに頬を緩ませながら、
「なにそれ。さっきのカップルのこと? どう考えたって、あっちのほうが悪いじゃん」
居残りを終え、なぜかそのまま一緒に帰宅の途についている俺たちは(俺は一人で帰りたかったけど、七海はごく当然のようについてきた)、七海のたっての希望……という名のワガママ……で商店街のアイスショップに入った。
俺は甘いモノがそこまで得意ではないので、小さなクッキーを買ってそれを家に持ち帰ることにした。
七海はだんごのように積まれた三段のボリュームのアイスクリームを買った。こいつはさすが、現役JKらしく、甘いモノに目がない。俺には積まれたカラフルなタワーを見ただけで胸焼けしそうだ。
さっさと食べないと溶けて無残なことになるのは自明の理で、俺たちは商店街の脇に置かれているベンチに座って、七海がアイスを堪能し終えるのを待つことにした。
「……まぁ、横入りは確かによろしくないことだ。けっこう並んでいたしな」
まだ暑いのでアイスショップは需要があるようで、店内はそれなりに混んでいた。
会計を済ませるにも列ができて待たなければいけなかったが、いかにもーなカップルが列に横入りをしてきて、七海はそんな彼らを厳しく糾弾した。
「だけど、あんなふうに露骨に文句を言えば、相手を怒らせることになる。実際、店員が仲裁に入らなかったらヤバかったぞ。不愉快だが、別に二人ぐらいならそんなもんだと割り切ればいいし、どうしても納得できないのなら、それこそ最初に店員を呼べばよかったんだ」
七海はぱく、とアイスを口に含む。んんー! と妙に甘い声で悶えると、
「言葉にしなきゃ、分からないことってあるでしょ。あの人たちだって、私がはっきり間違ってるって言わなきゃ、きっと自分の間違いに気付かなかったよ。私はね、そういうことが大事なんだって、ずっと思ってるもん」
おいしー! と七海は足を交互にパタパタさせて、そう言った。
「……言葉はギフト、だっけか?」
俺はさっきの七海の言葉を思い出しながら、そう言った。
七海はまた舌をちろちろと出して、二段目のアイスを舐め始める。
「そ、ギフト。贈り物。私はさっきの人たちに、自分の間違いを気づいてね、って気持ちを贈ったんだよ」
「……なんだか手前勝手な話に思えるがな。誰も彼もが、お前の考えを理解できるとも思えん」
七海の人となりを理解して、そういう意図があったと後に説明されたら納得できるかもしれないが、そんなことを知る由もないさっきのカップルは、生意気な七海に悪感情を抱いただけだろう。
七海は俺をちら、と横目で見ると、
「別にいいわ。私は見返りがほしくて言葉を贈ってるわけじゃないもん……もちろん、きちんと相手に私の気持ちが届いてくれれば嬉しいけど」
七海はまたアイスにぱくりと噛みつく。白い歯が見えた。頬をもごもごさせて、飲み込むと、
「それに、私のやってること、なんだかんだとえらそーに文句を言いつつ、ちゃんと理解してくれる人も身近にいるからね。その人がいれば、私は全然へーき」
微笑みながらそう言う七海に対して、俺は一拍、言葉に詰まり、そして、
「ま、お前には友達が多いからな。いっつもむっつりしてて、ねくらーな非リアで陰キャラな俺とは違う」
七海は俺を見る。
なぜかその視線は冷めていて、俺に対してなにかを痛烈に訴えかけるような印象があった。
「一之瀬。私のこと理解してくれる人、誰か気にならない?」
七海の言葉に俺は驚く。なぜ、唐突にそんなことを訊いてくるのか。
「気にならないって言ったらそりゃ嘘になるが……別に、それは俺とは関わりのない、お前個人の話だろ。悪いが、それを俺が知ったところで大した意味があるとは思えん。まぁ、末永くお幸せに、ぐらいなら言えるが」
自分で言葉を口にしながら、饒舌過ぎたな、と俺は後悔した。
七海を"理解してくれている人"について、動揺したのだろう……と俺は頭の冷めた部分で思う。
「一之瀬、それは私個人の話じゃないの。あんたにもすごーく関わることなの。そう"言葉を贈れば"、分かってくれる?」
七海は俺の顔を見上げる。
七海は可愛い部類だと思う。
クラスでトップの美人、と言えるほど華があるわけではないが、くりくりとして大きめな目と、人懐っこい仕草は、人を惹きつける。
白黒はっきりした物言いも、疎ましく思うときはやはりあるが、好ましく思えるときだってそれ以上にある。
「……分からんな。俺はお前ほど頭が良くないんでね。なんたって物理の小テストでクラスで唯一赤点に引っかかるぐらいだ。そんな人間になにかを期待するんじゃない」
七海が腰をずらして、俺との距離を詰める。俺のスラックスと、七海のスカートが擦れる。
七海の甘い匂い、お互いの吐息すら聞こえそうな近い距離。
俺は自分の頭に、熱がじんじんと火照ってきたのを自覚する。
「物理の小テストの日、一之瀬、重い熱があったんでしょ。私の風邪がうつったんだよね。原くんに聞いた」
俺の耳元で、囁くように七海はそう言った。
俺は七海から視線を逸らす。こんな近い距離で、七海の顔を見ることに俺は耐えられない。
「さてな。一週間前のことは覚えてない」
俺の逃げの姿勢に、七海は一度顔を伏せ、ふぅ、とため息を漏らす。
そして、顔を上げる。その表情は真剣で、俺はいよいよ自分の心臓の鼓動の高鳴りを自覚する。
「ごめん、一之瀬。やっぱり私は、言葉にしなきゃダメ。一之瀬、私は、前から一之瀬のこと……」
「七海! アイス溶けてる!」
俺は立ち上がって、七海が片手に持つアイスのカップを左手で掴み、アイスを中空へと持っていく。
ぽた、と溶けたアイスの欠片がカップを伝って地面に落ち、染みとなって色を消す。
俺はポケットティッシュを取り出し一枚抜くと、カップを拭いた。そこまで終えて、
「さっさと食べ終えろ、七海。これ以上溶けたらヤバイぞ」
俺は座っている七海に向かってアイスを差し出す。
七海はなにか言いたげに俺の顔をじっと見上げていたが、こくりと頷くと、
「……ありがと」
受け取った。
七海は手に持ったアイスを見下ろしながらなにかを考えていたが、大人しくアイスを舐め始めた。
俺は七海の隣に再び座り、ベンチの背もたれに寄りかかる。
空を見上げると、晩夏の西日が眩しい。
夏が終わり、秋が始まって、きっとなにかが変わるんだろうな、と俺は思った。
◇ ◇ ◇
同じクラスになって五ヶ月。
七海と俺は対極の世界にいる存在なんだろう、と俺はよく思っていた。
物事の白黒をはっきりさせ、どんな人に対しても誠実な人間関係を築こうとする七海。
物事をあやふやにすることを好み、人に対しては建前と妥協で向きあおうとする俺。
七海のこころざしは立派だと俺は思っている。普通の人間には、あんなに正しく、心強く生きていくことは難しい。俺は口には出さないが、七海を深く尊敬している。
でも、俺は俺のやり方が間違っているとも、思っていない。
というより、俺のようなやり方のほうが、一般的な手法なんだろうと自負している。
本音を隠し、建前で関係を築く。理想を追わず、妥協点を作り、そのラインでお互い過ごす。きっと大人の社会では、最低限の必須スキルだ。
ただ、そういうことが当たり前になると、大事ななにかを失っていく。俺はきっと昔の俺より、すでになにかを失っているのだろうと気付いている。
七海が人に魅力的に映るのは、そういう"失ったもの"をずっと持っているからだ。
言葉はギフト、なんて恥ずかしいセリフを、臆面もなくあいつは言える。
俺や、あるいは日々社会で生きる大人のように、言葉が時と場合によってはナイフのように人を傷つける鋭利なモノになり得るだなんて、想像もしてない。
現実を知らないバカだ、ガキだ、なんて言ってしまえば、確かにそうだと俺は思う。
だけど、現実を知ったから偉い、賢い、だなんて俺は欠片も思えない。現実とは、薄汚れて、黒ずんだような染みのような印象しか俺は覚えない。
俺がなにより七海を好ましく思えるのは、俺からいつの間にか欠けた綺麗な部分を、キラキラと見せてくれるからだ、と俺はよく思う。
逆に。
七海は俺のことをどう思っているのか。俺はよく考える。
他に相手がいなければ机を並べて昼飯を食べることもあるし、家が近いので機会さえあれば一緒に帰ることもある。
嫌われているわけではないはずだ。もしかしたら、悪友ぐらいには、思っているだろう。
……いや、この期に及んで、御託を並べるのも、馬鹿らしい。
今日の一件で俺は思い知った。あいつは、間違いなく俺に対して思う明確な感情があるのだと。
俺はそれが嬉しいはずなのだ。俺だって七海を好ましく思っている。あいつを魅力的な女子だと体で感じ、心で考えている。
なのに、俺は同時にそれが恐ろしい。
その当て所ない恐怖について、考えた末に、俺は結論を出した。
きっと俺は、俺が七海と恋人になることで、七海を汚すことになるのが怖いのだ。
七海は綺麗なままでいてほしい。誰にも混ざることなく、純粋な輝きを見せてくれる女子として、そこにいつづけてほしい。
言葉はナイフだ。
七海に対して"好きという言葉"を形作ることで、きっと俺は将来七海を傷つけることになる。
そう、ありていに言えば、俺は七海にふさわしくないと、思っている。
でも、俺はそれも、言葉にはしない。誰にも打ち明けたことはない。
誰かへと、その言葉を形作ることで、それもまた七海をナイフのように傷つけることになるのだと、俺は分かっていたからだ。
七海を求めることも、七海を拒否することも、俺にはできなかった。
そして、そういう袋小路に陥った人間は、当たり前のように失敗を犯す。
だから、一週間後に起きたことは、半ば必然だったのだろう。
◇ ◇ ◇
「一之瀬。私、あなたのことが好き。もしよかったら……付き合ってください」
その瞬間は、まるで唐突に訪れた。
今日、なんとなく、七海と帰る時間が一緒になった。
なんとなく、俺は七海といつもようにくだらないことをダベりながら帰るのだろうと、そう考えていた。
しかし、七海は校舎の中、無言で俺の前を歩き続けた。七海と俺が辿り着いた場所は、校舎の裏手。園芸部の花壇があって、そこに小ぶりの花が、初秋の日に照らされて咲いている。
花壇の前で振り返った七海の表情は、今まで見たことのないものだった。
七海という一人の女の子が、溢れた想いを告げる。そんな風にキャプションを付けて、まったく違和感がないほどの……緊張と期待を孕んだ……まさしく告白前の女子の表情だった。
そして、俺はそんな印象どおり、七海に告白された。
七海は俺に頭を下げている。
セーラー服に包まれた七海の華奢な肩がわずかに震えている。風が吹いて、七海の長い黒髪がふわりと揺れる。
俺は……俺は、七海に向かってなにかを、言おうとした。
分かっていたことだ。七海は俺に好意を抱いている。いつからか分からない。出会ったときかもしれないし、ほんのつい最近のことかもしれない。
いや、なんだっていい、いつだっていい。今、七海は、俺に告白したのだ。それを間違えるな。
絶対に俺はなにかを"言葉にしなければいけない"。七海を傷つけてはいけない。七海の気持ちを裏切ってはいけない。
言葉を。なんでもいい、七海を笑顔にできる言葉を。
「……その。七海。俺は」
なのに、俺はその先が言えなかった。
好きだ、ありがとう、付き合おう、そんな言葉を口にする、それは言葉を覚えたての幼児だってできること、なのに、俺は惨めったらしく言えない。
まるで言葉を発する命令を司る回路が、火花を散らしてショートしてしまったかのように、俺は言葉が喉に詰まる。溢れ出ようとする言葉が石のように詰まって、窒息する。
「……」
沈黙。重く長い沈黙の果てに、七海はゆっくりと顔を上げた。
七海は薄く、笑っていた。
「……ダメ、なんだね」
俺は言えない。爪が食い込むくらいに拳を握り、七海の微笑みを見ることしかできない。
七海の瞳から、涙が一滴、落ちた。二滴、三滴。七海の頬に涙が伝う。
七海は泣きながら、微笑んでいた。
「……一之瀬」
いつもの溌剌とした七海の声に比べれば信じられないくらい、か細い声だった。
「一之瀬。言葉はギフトじゃないのかな? ……ホントは、形にしちゃったら、いけなかったのかな」
「……そんなことない」
俺がやっと絞り出した言葉。だけど、それはあまりに陳腐で、そして遅すぎた。
七海はふふ、と涙で頬を濡らしながら小さく笑って、
「ごめんね。私、ずっと一人で勘違いしてた」
七海は歩き出す。すれ違うように俺の脇を通って、そのまま進んでいく。
今ならまだ、取り返しがつくかもしれない。俺はこの期に及んでそう思う。
今すぐに七海を追いかけ、七海の小さな体を後ろから抱きしめる。それをすれば、きっとまだ、取り戻せる。
だけど、俺はそれができない。
言葉の力を信じ、それを愛する純粋な女子に、言葉の力を信じられず、認めることすらできない臆病な男。
きっと、相容れることはない。どうか七海は、言葉の善性を信じられる世界にだけ、いてほしい。
この結末は、俺と七海が出会った瞬間から、定められたものだったんだ、と俺は思う。
そう思わなければ、俺は俺の存在を、許せそうになかった。
◇ ◇ ◇
"七海は言葉の善性を信じられる世界にだけ、いてほしい"
自分で言ったその一言。俺は確かにそれを願っていた。
言葉があるから、人は友達ができるし、恋ができる。その尊い感性を、胸に抱き続けてほしい、と。
たとえ、それが俺がいない世界であっても。
しかし、やっぱり俺は先を見通すこともろくにできない、バカで間抜けな人間だった。
次の日から、クラスの中で七海は変わった。変わったと言っても、容姿は変わってないし、雰囲気だって一見して変わってない。あいかわらず人懐っこいし、あいかわらずマジメなヤツだった。
だけど、七海は人に、直截的に言葉を放つことはなくなった。羽毛でできたクッションを挟むように、別の言葉と別の言葉の継ぎ目に、柔らかい沈黙、または柔らかいニュアンスを挟んだ。
そうすることで、人と喧嘩をしなくなった。分かりやすい言葉を止めた代わりに、優しく見守るように柔和な表情を浮かべることが多くなった。
「七海さ、変わったよな。可愛いんだけど、前はちょっとガキっぽいって思ってたんだ。だけど……なんつーか、大人になったよ。ありゃ、これからもっとモテるだろうなぁ」
昼休み、俺の友達の原が、男女問わず友達に囲まれて話す七海を羨ましそうに見ながら、俺にそう言った。
「そうだな」
教室にいるほぼすべての人間が、七海の変化を好意的に受け止めていた。七海の周辺に人が集うのは、ごく当たり前の日常になった。
より魅力的になった七海との関係を深めようと思わない人間は、"ほぼすべて"から外れた、たった一人のバカな男だけだ。
……なにもおかしくない。
人に好意を持たれ、人に大切に思われる。
そうなることが間違ってるなんて、この世の誰一人として言えやしない。
あの日、俺と別れたあと、七海の中で、自分にどんな変化を求めたのか、俺には分からない。分かる資格だってない。
俺はもう、七海にとって赤の他人でしかない存在で、俺にとっても、七海はもう遠巻きにしか眺めることができない、別の世界の存在だ。
ただ。ただ、ただ一つだけ、俺は気付いたことがあった。
俺から見える七海の穏やかな横顔から、かつて俺を惹きつけ、同時に俺を苛んだ……言葉の価値を愛する女子の面影は見つけられなかった。
魅力的になったあいつから、前のように俺が"失ったもの"を見出すことはできない。あいつもまた、俺のように、なにかを失ったのだ。他の誰でもない、この俺のせいで。
きっとあいつはもう言わないだろう。言葉はギフトだ、なんて。
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