ケッシンショウ (1195字)

「ケッシンショウですねえ」

「ケッシンショウ?」


 初めて聞く言葉に、山本は眉を顰めた。

 最近、どうにも体の調子がおかしい。食欲がわかず、何をするにもやる気がおきない。溜息の数が増えて、集中力も途切れがちだ。幸い今のところ忙しくはないから、溜まっていた有休を使って近所のクリニックを受診した。


「……それは、心臓の病気でしょうか」


 狭心症という言葉から連想した質問だった。

 まさかそんな重たい病気なのかと青ざめる山本を前にして、佐藤という名札をつけた医者は首を横に振った。


「いいえ、心臓に直接課題をかかえる病気ではありません」


 ひっかかる物言いに山本は怪訝そうな顔をする。

 佐藤医師は、メモ用紙に「穴心症」と書き込んで、山本に見せた。


「穴の、心……? 心に、穴……?」

「そうです。昔から『心に穴が空いたような』という表現が存在しますよね。そこから名付けられた病名です」


 山本はハッとした。しかし同時に、そんな馬鹿な、という気もする。

 だが医者の顔は至って真面目だ。


「人は昔から、大切なものを失ったり、あるいは何かひどく満たされないものを抱えたりして、その辛さや苦しみが一定以上に達したときの心身の状態を『心に穴が空いたような』と呼んできました。最近になるまでそれはただの比喩表現だとしか理解されていませんでした。しかし、やはり昔の人の言葉には意義があったということなのでしょう。実は真実を言い当てていたことが近年の研究で明らかになったのです」

「私の心臓に、穴が空いてるっていうんですか……」


 「心臓ではありません、心です」と佐藤医師は繰り返した。


「確かに心は目に見えません。穴もそうです。しかし『心に穴が空いたよう』になった人々は皆さん同じ症状を訴えます。食欲減退、倦怠感の持続、意識の散漫化、不眠、不安」

「ああ、私と一緒ですね」

「現代は、心の時代です。近頃は、昔よりも鬱病などの精神疾患の話題をよく耳にしますよね。それは昔よりも人々が心の病気にかかりやすくなったというわけではありません。そうではなく、身体を動かし支える心こそが医学においても最も重要視され研究されるべきものだという認識が広がり、その結果、心に対する健康意識が高まったからこそ、逆に心の病について言及される機会が増えてきたのです」


 「なるほど」と答えながらも、困惑を顔に浮かべている山本の様子に気づいて、佐藤医師は安心させるようににっこり笑った。


「ようは、大事なのは、これは薬で直ぐに治せる病気ですよ、ということです」

「え、そうなんですか?」


 ようやく、山本の顔にも安堵と、それから期待が広がった。

 佐藤医師は微笑んだまま、さらさらと処方箋に記入する。


「一回の服用で済むと思いますよ」

「それはどういった薬なんでしょう」

「これも、昔の人の言葉は優れていたという証明なのでしょうね。ほら、こんな言葉があるでしょう。『人間の、最も優れた能力は、忘却である』」



〈2016.2.20 題目「穴」〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る