第13話 赤いバケツ
明くる年の六月、國光は任期を二年残して監査役を辞任した。辞任というのは建前で、実際には経営陣による人事計画に沿ったものである。日本の株式会社における監査役の地位など、法律では経営サイドからの強い独立性が謳われているものの、実情は大抵こんなものである。
「双六の『あがり』みたいなもんだよ」――國光が監査役に就任した時に周囲に漏らしていた言葉である。
和哉は、この三月程前に別の会社に移っていた。勿論、その時点で國光の「辞任」は知っていた。それが和哉にとって退職し易い方向に働いたことは否定できない。彼は歯に衣を着せぬ振る舞いのせいで人事室からは煙たがられていた。しかも、室長の花園は和哉と同期入社である。この先も、――恐らく和哉は「室長」どまりだったろう。
しかし和哉はそんなことより、そもそも仕事に対する情熱を失っていた。室長という、次長でも課長でもない、完全な管理職に就いてからの毎日も退屈に感じられた。仕事では滅法切れるが、私生活では破綻した、言わば片端者を見るような、周囲の好奇の目も鬱陶しかった。唯、部下達には申し訳ない気持ちで弁解のしようもなく、――それだけが憾みに思われた。もっとも、中には彼の下に就いて比較的日の浅い者もいて、贈られた寄せ書きに『ご家族を大切に……』などと明後日の方を向いた詞もあったが。
和哉の新しい勤め先は、所謂フレックスタイム制が採用されていないに等しい業界だった。それに丸の内というロケーションもこれまでより便が悪い。何だかんだ、彼の朝出掛ける時刻は二時間早まった。勿論、乗るバスも変わった。――和哉はマヤと遭わなくなったのである。
そしていつの間か、――酒屋の広場の柱に据え置かれていた吸い殻入れは、無造作に水を注しただけの赤いバケツに替えられていた。……(つづく)
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