第8話 雨
夕方五時を過ぎた頃、予報どおりの雨となった。
和哉にしては珍しく早めの、六時過ぎには勤め先を出た。最寄駅の改札を出て地上へ向かうと、階段を降りてくる人達の傘からは一様におびただしい水が滴り落ちている。
「相当降っているな……」
和哉はそう思いながら、朝とは違う階段を出口に向かって上っていた。帰りはバスを利用せず、歩くことの多かった彼は、雨の日はタクシーに乗るのが常だった。が、地上に出るが早いか、タクシー乗り場の行列の最後尾が間近の所まで来ているのが目に入った。
「これじゃ、待っている間にびしょ濡れだな」――普段、終バスより後の時間になることの多い彼は、この時間であれば楽にタクシーを拾えると思っていたのである。
傘を広げ溜息をつきたくなったが、道路の向こうのバスターミナルに毎朝の復路のバスが停車しているのが見えた。和哉は、歩行者用信号もちょうど青緑に光っているのを確認し、そのままターミナルへ急いだ。
傘の水を切るのもそこそこにバスに乗り込んだ。偶々今朝と同じ後部座席だけが空いていた。傘から落ちる雫を気にしながら、真っ直ぐ進んで腰掛けた。それからコートの肩から垂れる水滴をハンカチで軽く叩くようにして吸い取った。一段落して外を見ようとすると、窓を叩きつける水しぶきが視界を遮った。正面のフロントガラスではせわしなく合掌する大きなワイパーが少しも役に立っていなかった。
和哉は、降りる一つ前のバス停を過ぎると、降車ボタンを押して降りる用意をした。
「お降りの際は、バスが停車するまで席に座ってお待ちください」――そんな音声案内が終わる頃、彼は降車ステップに立って外の見えない窓を頻りに覗いていた。すると、前輪の上に乗った高い席から、身体をよじって危なっかしそうに下りる人があった。その乗客はバランスをとりながら足早に和哉の方へ向かって来た。――マヤだった。
和哉は急いで乗車したから、乗車口のすぐ傍の、運転席の真後ろにいた彼女に気づかなかったのである。彼は彼女の手に傘がないのを伏目で見て取った。自分の今日の傘が折り畳みの小さいのであったことを残念に思った。それより、傘が二本あったら、――などとあり得ないことにまで考えが及んでいた。
降車扉が開くと、和哉は外に出るが早いか傘を開いた。折り畳み傘など片手の負担になるだけだった。背中にマヤを感じながら、すぐ側に横断歩道のある、帰り道とは逆の方向に歩き始めた。勿論、和哉は横断歩道を渡る必要がない。しかしマヤは毎朝バス通りの向こう側からやって来る。
和哉はマヤの少し前を歩いているつもりだった。が、どうも彼女の足音を感じない。彼は傘を隠れ蓑に振り返った。――誰もいない。
「あれ?……」
傘を上げると、右手で頭を押さえて走って行く彼女の後姿が雨の中に遠くなっていた。
和哉はそのまま、ぼんやりその場に佇んだ。ずぶ濡れになるのも構わなかった。……(つづく)
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