第6話 ボーダーコリー

 和哉にはあさ美とマヤが鉢合わせになった場面の覚えがない。――まあ、彼女達が和哉を取り合っているはずはないから、「鉢合わせ」という言い方は相応しくない。要するに、三人が同じ時刻のバスに乗った記憶がないということである。

 何故か?――曖昧な彼の記憶を辿れば、この解への糸口は、転居して初めての冬か、或いは二度目の冬だったか、膝に感じた痛みにあった。

 当時、和哉はボーダーコリーを二匹飼っていた。それぞれエマ、ルカと名付けられた彼らは、和哉と一緒に越して来たのである。運動を好む種だから、毎朝毎晩、余程の酷い雨でも降らない限り、散歩を欠かさなかった。

 十一月に入り、朝晩の冷え込みに何らの備えなしにはいられなくなってきた頃、午後十一時は回っていただろうか、和哉は近所の都立公園で彼らのリードを放ち、ボールを使って運動させていた。個体の大きい方のエマが咥えて戻って来たボールを貰おうと、咄嗟に屈んだ時がその始まりだった。深く折り曲げた左膝の内側に差し込むような痛みが走ったのである。

 和哉は単に身体が鈍ったのかと思い、屈伸運動やストレッチなどをしばらく続けた。が、痛みは酷くなる一方だった。一月余りが過ぎ、通常の歩行に支障を来す程になって初めて、職場近くの整形外科へ診せに行ったのである。

「まさか、鍛え方が足りんと、トレーニングなんかしてなかろうね?日本人の悪い癖や」――医師の所見では、加齢に伴う軟骨の摩耗ということであった。

「はあ……」和哉は頭を掻く真似をした。

「いいかい?ここ、炎症を起こしているのが見て分かるやろ?この状態じゃあマッサージもできんから。痛み止めと一緒に軟膏を出しておくけれども、塗る時はやさしく、やさしく――おネエちゃんをなでるようにな……」

 その医師は、和哉の左膝に触れながら、上方の漫才師のようなトーンでそう説明した。当時四十路前だった和哉は、これが根本的には治癒しない老化現象であるとの見立てに、何故か疑いを持たなかった。漫才師に言われるまま、それからは必要以上に膝を労わることとなり、朝晩の散歩も仕方なくやめた。時間に余裕のできた分、家を出る時刻が早まった。彼の利用するバスの本数が少ないと言っても、それまでより二本は早い車両に乗ることとなった。その結果、顔見知りとなっていたあさ美と顔を合わせる機会がなくなった。その代わりにマヤと遭遇した――そんな事の次第なのである。(つづく)

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