第5話 至近
或る夏の風のあった朝、マヤは相変わらず柱の陰に隠れるように立つと、煙草に火を付け始めた。が、風のせいでなかなか火は灯らない。ようやく上手く行ったかと思うと、もうバスがすぐそこの信号の辺りまで来ていた。幸い、信号が赤に変わり、バスはこれに引っ掛かった。けれども、それは火のついた長い煙草を吸い殻入れに投じた後のことだった。マヤはその勢いのままバスを待つ列に、――和哉の真後ろについた。
和哉は和哉で、前を向いてはいたものの、マヤが自分の後ろに来たことに気づいていた。彼はバスを見る振りをして彼女を一瞥しようとした。が、視界に入らなかった。――マヤは和哉の感覚よりもずっと傍に、寄り添うような位置に立っていたのである。そして、間近に来た彼女は、思ったよりずっと小さかったのである。それを悟った和哉は、彼女を俯かせる前髪にその視線を向けた一秒にも満たない間に、彼女が自分の胸の中に入って来たと感じた。が、次の瞬間、反射的な自制心が生まれた。それは彼を乗車位置に向かって少しだけ前に詰めさせた。と同時に、今度は確実に彼女を視界に収めたいという衝動にも駆られた。
和哉は先程と同じようにバスを見る振りをした。するとちょうどその時、マヤは強い向かい風に遭った。顔を覆った長い黒髪を首を振って払い除け、挙げた右手で頭を押さえながら和哉に背を向けた。その後姿は、正面から見たその時の彼女を想像させないではおかないものだった。……
和哉はバスに乗り込むと、運転席側の窓際の席に――二つの空席のうちの後ろの席に腰掛けた。次いで乗って来たマヤは、彼の注文どおり、その前の席に収まった。
マヤの小さな身体は、頭を除きその殆どがシートの背もたれに隠されてしまう。けれども、肘掛に置かれた素肌の両腕とその肘掛の高さのせいで怒った肩は、和哉の遠慮がちな視線を手許の活字から奪うのに十分な露出だった。――もっとも、実際の彼の眼は活字へ落ちたままであったが。
程なく公苑のフェンスを過ぎ、商店街に入った辺りでマヤの日焼けした左肩の位置が変わった。身体がかなり窓側に傾いている。頭は黒髪を揺らし、車両の挙動に符合している。
「昨晩、仕事が遅かったのだろうか。それとも深酒か――」
マヤの変化に気づいた和哉は、勝手な想像を繰り広げながらも、彼女の余りの熟睡ぶりに、果たして駅で目を覚ませるか気になり出した。
案の定、駅に着いてもマヤの立ち上がる気配はなかった。降車扉が開き、乗客は立ち上がってぞろぞろと歩き始めている。しかし、彼女は窓に身体を預けた状態で、小柄なりにどっかり座り込んでいる。――目を開けている時の張り詰めた雰囲気の彼女とは似ても似つかぬ、まるで無防備な肢体がそこにあった。
「素肌に触れる訳にもいかないしな。かと言って、後ろから背もたれを小突くのも乱暴だし……」和哉は目を覚まさせる手立てを思案した。
取りあえずは踵で床を鳴らして勢いよく立ち上がってみることにした。
結果は奏功――動き始めたマヤの、頭髪に隠れた眼は真っ赤だった。
一足先に車外に出た和哉は、タイミングを計って振り返った。マヤはいつものように、『く』の字でターミナルを横に突っ切り、ガードレールを跨いで駅ビルの自動扉の向こうへ――エレベータホールに消えて行った。……(つづく)
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