第3話 あうん

 朝から陽ざしの強かった或る日、和哉が歩道伝いに停留所へ向かっていると、少し先の左の脇道からあさ美が出て来た。この時、和哉は初めて彼女がそこから来ることを知った。この地域は、バスの路線である世田谷通りを挟んで街並みがかなり異なる。いずれも低層住宅地であることに変わりはないのだが、和哉の住む側は、碁盤のように一方通行の道路が張り巡らされている。これに対し、あさ美の出て来る側は、昔ながらの入り組んだ路地に住宅が密集している。もし、和哉が多感で好奇心旺盛な中学生か高校生で、彼女の住まいを突き止めようと思い立ったとしても、それは困難であっただろう。

 この日、和哉は家を出るのが普段より遅かった。そのせいか、酒屋の広場に適当な立ち位置を見つけられなかった。そこで、停留所の時刻表を確認するようにして、車道寄りの所でバスを待った。すると程なくバスはその姿を現し、一つ前の停留所で乗降がある様子だった。――言い忘れたが、この停留所には二系統の路線バスが停まる。のちの和哉は、いずれの系統のうち、先に到着した方に乗ることとなるのだが、この頃は最寄駅を経由する、本数の少ない系統を利用していた。あさ美も同じである。彼女はこの駅で更に別の系統のバスに乗り換えるのだった。

 すぐ手前の信号が青に変わると、バスはいよいよ和哉達の待つ所に近づいて来た。ところが、文庫に視線を落とすあさ美は、バスに気づいていない様子である。和哉はそんな彼女を気に懸けながら、乗車位置に足を進めた。

 すると彼女は、他の誰の動きもない中、和哉の動く気配を感じた。そして、自分のバスが来たことを認識した。文庫を閉じてバッグを掛けた方の片手で持ち、空いた方の手でバスカードを取り出しながら乗車位置に近づいた。そこへバスが停車し、乗車扉が開いた。

 和哉は乗車位置の少し手前で足を止め、身体をやや斜めに――彼女の方へ向け、自分の前へ通そうと促した。何か言葉を発した訳ではない。仕草を見せて誘っただけである。

「すみません……」

 あさ美は、和哉にしか聞こえない小さな声でそう言って、お辞儀をしながら歩調を速め、彼の前を過ぎた。――

 以後、和哉は彼女にバスの到着を知らせる役目を担った。そして彼女はそれを当てにした。勿論、乗車の際の二人の間の順番も、――阿吽の呼吸で尊重された。(つづく)

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