『心算』(2007年02月11日)
矢口晃
第1話
今年の春卒業を迎える医学生の岡野光一は、大学の図書館で分厚い本を繰りながら、窓から差し込む早春の麗らかな日差しに時々まどろんでいた。
三月になれば晴れて卒業、その後は研修医としての新たな未来が始まる。そういう安心感がそうさせたのであろう、彼は机の上に本を大きく広げながら、時々は居眠りがちに、図書館の固い木の椅子の上に時間を過ごしていたのである。
「熱心だな」
その時背後から岡野にそう声をかけた者があった。彼の同窓の柴田恒夫であった。手の中に何冊もの洋書を抱えていた柴田はそう言いながら持っていた本を机の上におくと、岡野の隣の席に腰をかけた。
「何の本を読んでいたんだ?」
柴田に尋ねられると、岡野は眠そうな目をこすりながら、
「薬学書を少しばかり読んでいた」
と答えた。柴田は興味ありげに岡野の開いていた本を自分の前に引き寄せると、開いてあったページを走り読みに読み始めた。
「ずいぶん古い説を読んでいるじゃないか?」
「この本はそんなに古いのか?」
「ああ。古いといっても、日本ではまだまだ生きた説といえるだろうけれどね」
そういうと柴田は薬学書を岡野の前に返し、自分で探してきた本の一冊を開いた。岡野が覗くと、その本の中には横文字でびっしりと行が刻まれていた。
「君は英語に堪能だからいいよ」
そう言う岡野の言葉の内には、確かにアメリカ帰りの柴田に対する多分の羨望が含まれているのに違いなかった。柴田は父親の仕事の関係で、小学校の低学年から高校の途中までを、アメリカで過ごしていたのだった。だから彼の英語は日本語に変わらないくらい流暢であった。
「何、英語くらいできてもね」
「できないよりは、それでもいいだろう。僕ときたら、てんでだめなのだから」
自嘲気味にそう言う岡野を柴田は横目を使ってじろりと見ながら、
「それでも君には解剖の技術があるじゃないか。先生方も、君の腕は卒業生の中でも随一とおっしゃっている」
という言葉をかけるのだった。
岡野と柴田とは、大学に入学してきたときから気が合うので、常に一緒に行動することが多かった。神経質であまり人との交流に積極的でない岡野に対して、柴田は初対面の人間とでも気後れすることなく気さくに口を聞いた。だから二人が一緒にいる時、人には常に陰気な岡野と陽気な柴田という印象を与えたのだった。
その実岡野は決して人と交わるが嫌いな人間なのではないということは、彼と交流のあるものなら誰でも知っていることだった。しかし一目見て彼が陰湿そうに見えるのは、もしかすると彼の心に宿る暗闇が彼の顔色にも顕れているかも知れなかった。
というのは何かというと、彼のそもそも医師になろうとした目的が、他の医学生とは大分異なっていたのである。彼が医師になりたかった理由、それは彼自身の父親を、彼自身の手で全く証拠が残らないように殺害したいというものだった。彼は正しい医学の知識さえあれば、誰にも気づかれず、全く自然死に見せかけて父親を殺害することはきっと可能だと思っていたのだった。
彼の父親への殺意は、彼がまだ幼かった時から徐々に彼の内部に蓄積されて行ったと言っていい。彼の父親は、ある大手の外資系企業に勤め、そこで役員をしていた。彼の家には彼の他に一人の姉と一人の兄とがあったが、三人とももちろん厳しい英才教育のもとに育てられたのは言うまでもない。二人の兄弟がともに優秀だったのに比べ、彼の学力はやや精彩に欠いていた。そんな彼に、彼の父親当然のようにもっとも厳しく当たった。二人の兄弟が難なく名門高校に進学したのに反し、彼一人だけは第一志望ばかりか第二志望の高校まで逃した時には、彼の父親は罰として彼に三日間の絶食を課した。その時の苦しみを、彼はもちろん今でも忘れてはいなかった。小遣いを貰わない代わりに必要なものは全て現物で与えられていた彼には、当時使える金は一銭もなかった。だからどんなにひもじい思いをしても彼にはものを買って食べるなどということはできなかった。彼は一人ベッドの上に転がりながら、悔しい涙を目に浮かべていた。夜、一階の食卓で自分を除く家族四人が夕食を囲みながら団欒している声が二階の彼の耳にも聞こえると、彼は全身に耐えがたい疎外感を感じるのだった。
彼の父親は、人間を数字でしか見ることを知らなかった。彼は常に、「偏差値が七十を切る人間は俺の子供ではない」と豪語していた。その期待に、彼の上の二人の兄弟は訳もなく応えていた。しかし彼自身は、ややもするとその数字を割ってしまうことも時々あった。塾や学校の学力試験の成績が少しでも悪いと、彼の父親は彼に対して厳しく折檻をした。彼の家の庭に、アルミ製の小さな物置があるが、ある晩彼はその中に閉じ込められ、外から鍵をされたまま翌朝まで放置されたことがあった。その日はすでに十一月で、彼は凍えるような寒さの中で、実に十時間以上も薄着のまま監禁されたのである。物置の中は、スコップやら工具箱やら脚立やらが雑然と入れられてあったため、彼の座る余地などどこにもなかった。無理をして身動きを取ろうものなら、棚の上からすぐに釘箱が落ちて来かねなかった。
また彼だけひと冬の間、どんなに寒い夜でも水のシャワーしか使うことを許されないこともあった。彼がシャワーを浴びようとするとき、彼の父親は必ずガスの元栓を閉めた。だから彼は凍るような冷たい水で、全身に鳥肌を立たせながら体を洗わざるをえなかった。
もちろん彼一人がこのような仕打ちを受け、彼の兄弟や母親が同乗しないことはなかった。しかし父親が絶対である彼の家庭では、父親に真っ向から抗議しようという者は誰もいないのだった。彼自身も、そのことはよく理解していた。だから彼はどんなにつらい目に遭わされても、それによって父親以外の家族を恨んだことは一度もなかった。その分、父親に対する憎しみは日増しに強くなっていくのだった。
「医者になりたい」
初めて彼が父親にそう打ち明けたのは、彼が高校三年生の時であった。彼の父親はその言葉を聞くと、「ふん」と鼻で冷たく笑った後、
「お前なんぞに、医者になれるはずがないだろう」
と取り合わなかった。しかし彼はそこで勇気をもってさらに父親に訴えかけた。
「いえ。なりたいんです。きっと立派な医者になって、これまで散々裏切ってきたお父さんの期待に報いたいんです」
新聞を広げ、その記事を黙って読みふけったまま、父親はしばらく彼の言葉に耳を貸さなかった。しかし彼のあまりの執拗な懇願に最後は半ば面倒にでもなったらしく、
「なら好きにしろ」
と自分の子供に対するものとは思えないまるで感情のない言葉を短く口にした。するとその後すぐ新聞から視線を彼へ向けると、
「だがもし医者になれなかったら、今までお前が使ってきた学費、一生かかってでも俺に返すんだな」
と付け加えた。彼は煮え立つ感情が表情に表れないよう必死にこらえながら、
「はい。わかりました」
と殊勝に答えた。
それからの四年間、彼はそれまで彼自身経験しなかったほど、情熱を勉学に傾け始めた。全ては自分の身を守りながら、父親を殺害する方法を考え出すために、彼は夢中で研究書を繰り始めた。大学の図書館に、彼の姿を見ないことは、この四年間ほとんど一日もなかったのに違いない。その結果彼の名は教授たちの間にもよく知られるところとなり、将来を嘱望される優秀な学生の一人となっていたのであった。
その彼も、この三月でいよいよ大学を卒業することとなった。そう考えるとともに、彼自身はいよいよその「時期」の近付いてきたことを意識し始めていた。
「ところで岡野」
柴田に名を呼ばれて、岡野は索莫とした回想の中から久しぶりに現実へ呼び返されたような気がした。
「君は卒業をしたら、そのまま大学病院へ進むつもりだろう?」
進路の話であれば年の明けないうちにすでに決定しており、岡野が大学病院の研修医になることは柴田もずっと前から知っているはずだった。それをなぜ今さらになって改めて聞くのか、岡野には多少いぶかしく思われた。
「そうだ。柴田もそうだろう?」
「ああ。僕もそうだ」
柴田は気のない返事をした。柴田が何か言おうとしているらしいことを、岡野は敏感に察した。
「ところで岡野」
しばらくの後、柴田がまたぽつりと言った。彼は眼を、目の前に積んだ何冊かの洋書の表紙の上に絶えず注いでいた。
「どうした?」
様子のおかしい友人を心配して、岡野は柴田の顔を覗き込むようにして聞き返した。
柴田はやはり気が抜けたようなうつろな眼差しを正面に向けながら、突然こんなことを言い始めた。
「君は、世の中に正しい人殺しというものがあると思うか?」
柴田の口からこの言葉を聞いた瞬間、岡野の顔からはいっぺんに血の気の引いて行ったのに違いなかった。
柴田が、自分の父親殺害の意思を感じ取っている。そう思った岡野の表情には、ありありと動揺の色が見て取れたのだった。
もちろん、岡野はこれまで誰一人として、自分が医師になろうとしたきっかけなど話して聞かせたことはなかった。もしそれを話さなくてはならない時でも、彼は世間一般に通用するようなあつらえ向きの理由をちゃんと準備していた。彼が父親を殺害しようと企てていることが他人に知れるとしたら、それは彼の行動なり言葉なりに無意識に現れる手がかりを相手に読み取られていることくらいしか考えられなかった。
しかし今、隣に座る友人がそのことを知っていたことが分かり、彼は急に柴田という人間に恐れを抱き始めていた。
「どうして、そんなことを聞くのだ?」
岡野は努めて平静を保ちながら、ようやくそれだけを言った。だが柴田の様子はさっきから一向変わることもなく、半ば意識の抜け落ちたような気のない声で言った。
「いや。何、少し疑問に思ってね」
それだけ言うと柴田はそそくさと席を立った。それから挨拶もそこそこに、岡野の前から姿を消した。
それから三、四日の間、岡野は柴田と顔を合わさなかった。もちろん一週間ほどお互いに連絡を取り合わないのも、過去に珍しいことではなかった。しかし最後の別れ方が別れ方だっただけに、岡野にはこの数日間は非常に居心地の悪い思いがされた。どこか自分の目の届かないところで、柴田が自分の計画を暴露しているのではないかという危機感に、常に心をやきもきさせていたのだった。
そんな柴田と再会を果たしたのは、岡野にとっても、またその他の同窓たちにとっても、実に思いもよらない形であったのに違いなかった。
岡野はある朝遅く起きると、いつものように焼いた食パンを噛みながら、自宅の居間でテレビのニュース番組を見るともなしに見ていた。すると画面に突然現れたのは、彼のよく知っている柴田恒夫の姓名であった。そしてそれと同時に、画面には頭からジャンパーを被り、手には手錠を嵌められているらしい男の映像が彼の目に飛び込んできた。顔こそ覆いの下に隠れてみることはできないが、体格や服装から見て、それがつい先日図書館で別れたばかりの柴田その人であるのは、岡野の目に疑いはなかった。柴田は多くの警察に取り囲まれながら、彼の自宅玄関から、白いワゴン車に乗り込むところらしかった。映像を見るのに夢中で、その間アナウンサーによって読み上げられたニュースの内容は、岡野の耳にはほとんど跡形すら残ってはいなかった。
彼は思いもかけないことに、手から床に落ちた食パンの存在すら忘れ、慌てて別の局にチャンネルを回した。二度目に切り替えたチャンネルで、今のとまったく同じ報道がされているのを見つけた。
岡野は今度はニュースを聞くことに意識を集中した。そしてその内容を聞き、岡野はまたしても大いなる衝撃を受けた。
柴田の連行された理由、それはこともあろうに、柴田が自宅で、一つ違いの実の兄を殺害したというものだった。それも衝動的な、発作的な犯行であったらしい。柴田は兄の部屋に深夜忍び込むと、いきなり父親のゴルフクラブで寝ていた兄の頭部を滅多打ちに殴りつけたらしい。数十回も殴ったというから、発見された時、おそらく彼の兄の顔は見るも無残に変形していたに違いなかった。彼が兄に対してどんな遺恨を持っていたのか、ニュースは伝えなかった。ただ、柴田が日ごろから兄に対して恨みを抱いていたらしいという情報をニュースはもたらした。
岡野にはしばらく放心したまま、どんな感情も心に湧いてこなかった。ただ何重にも折り重なった衝撃に、彼その薄い胸も押しつぶされんばかりに激しく襲われていた。
第一に、あの温厚な柴田が突然豹変し、人を殴り殺したという事実が、岡野にはショックだった。彼はそれまで、柴田の激高する姿さえ目撃した経験はないのであった。その柴田が、まさか人を、それも肉親を死ぬほど殴りつけるなどとは、彼にはその時でさえ実感できないのだった。
第二に、柴田が家庭内に問題を抱えていたということ、それを自分が知らずにいたということが、岡野にはショックだった。もちろん柴田とは過去になんどか家族についての話をしないことはなかった。しかしその会話の内から、彼が家庭内にいざこざを抱えている様子など、少しも垣間見られなかった。むしろ海外に移住してから日本に帰ったのちも、家族同士は極めて強い絆で結ばれているという印象すら岡野は持っていた。だから岡野はしばしば、自らの家庭と柴田の家庭とを比較して、結束に溢れた柴田の家庭に羨望さえ感じていたのだった。
彼はここまで考えた時、柴田の最後に言ったある言葉が、ふと頭をよぎった。それはあの暖かい日、岡野が最後に柴谷会った日に柴田が力なく言った、あの一言だった。
「君は、世の中に正しい人殺しというものがあると思うか?」
岡野は、この時漸く察知した。あの時柴田が常にもなく突然こんなことを言い出したのは、当時は柴田が自分のもくろみを見抜いていて、それに釘を刺そうとするためとばかり思っていたが、実際は違っていたのだ。恐らく、柴田はあの時すでに兄殺しを企んでいたのに違いない。そしてそれを実行する前の放心状態で、思わずあんな言葉が口をついて出てきてしまったのだ。テレビのニュースは、彼の犯行を衝動的だと言った。しかしそれは違うと、岡野は確信した。柴田は、何日も前からその犯行を企てていたのだ。何かの理由で恨み続けていた兄を、どうやって殺害しようか、ずっと煩悶していたのだ。
岡野は何も考える力もないまま、いつもの通り学校へ向かった。大学の正門から校舎へ伸びる並木道には、すでに春を告げる鶯が訪れていた。いったん校舎の中へ入った岡野は、数時間ののち、また外に姿を現し、来た時とは反対に、並木道を校門の方へと向かって歩いていた。
ようやく芽吹き始めた新緑の下を歩きながら、岡野はその時になってもまだ整理のつかない心境に苦しんでいた。彼は一番身近な友人が突然肉親を殺したという事実を受けて、何とも言いづらい恐怖感に心を塞いでいた。それは人が人を殺すという事実に対して恐ろしいのか、あるいは人が突然豹変しうることに対して恐ろしいのか、岡野自身にもはっきりとはわからなかった。その内にも、最愛の友人から一度も悩みを打ち明けられなかったという悔しさと、友人の力になれなかった苦しさ、それに、どうしてもっとうまくやならなかったのかという無念さが互いに渦を巻いて岡野の気持ちを満たすのだった。
しかしこのことによって、岡野自身は決して自らの計画を曲げようという気持ちにはならなかった。校舎の中から出てきた彼のズボンのポケットには、得体の知れない粉の少量入った瓶が、しっかりと手に握られたまま入れられているのだった。
『心算』(2007年02月11日) 矢口晃 @yaguti
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