第5話 失楽園

「ではあの女サクヤは、人ではなく木偶でくだというのですか」

 確認するようにサクヤを一瞥したフブキにオニヒコはうなずいた。


「いかにフジ・ヌブリ国とはいえ、もはや人のワザとはおもえません」

 滝壺に流れ落ちる水音だけがあたりを押し包んだ気がした。


(追っ手はサクヤとこの禁断の書を欲している)

 巻物をひろげたが中には何も書かれてはいなかった。

「禁断の書?」

「ゴレぅぉ」

 うなって指先をはしらせるオニヒコ。

(ふふっ、秘密の合言葉)

 オモチャを手にいれた子供のようだ。


 表面に起動画面が表示されはじめた。

「なんと……」

(歴史、地図、技術、なんでもある)


 フブキは生唾を飲み込んだ。知識の宝庫といってよかった。


「あれは神に打ち捨てられた都」

 ふいにうたうかのようにサクヤが口をひらいた。

「神々や貴人のために、楽を奏で、舞い踊る夢見心地の日々」

 ふうわりと薄衣が風をはらんだ。


「でも……ある日、神々と眷属は天に帰られ、都は火と灰に埋もれてしまったのです」

 表情が哀しみに満ちた。

「どれほど時が流れたでしょうか、なかば泥土に覆われていた街を掘り出した者たちがいました」


「それがいまのフジ・ヌブリなのか」

「オゥ」

 地図らしきものを表示された。


 日本列島はつながり大陸の一部だ。広大で肥沃な平原はタイからマレー半島沖、東シナ海までのスンダランドと地続きになっていた。。


 今は海面上昇により海に沈んで大陸棚となってしまったかつての楽園。


 海に没し故郷を失なってしまった祖先たちは日本列島にたどり着き、その一支族が噴火で打ち捨てられたフジの都を発掘したのだろう。


 ツグミは離れた樹上からそんなようすを眺めている。


「ふん」

 ツグミには滝壺のあたりは崖に囲まれた、逃げ場のない危険地帯という認識がある。

 この時期、冬眠から覚めたひぐまが恐ろしかった。


 もっともそれを親切に教えてやる義理はない。

 それにオニヒコだけは生き残ると確信していた。


 タマツ国との戦のおり、オニヒコのみせた強さは尋常ではなかった。


 この時代、戦争はまず呪術合戦から始まる。

 敵を呪い、味方に神の加護をおろす。


 ひときわ大きな人影に、かたわらの銀髪の巫術師がなにかをしたあと惨劇が幕をあけた。


 ツグミの脳裡にその光景は黒い暴風として焼きついていた。


 以来、国を失い、家族をなくし、自由も奪われ、憎いオニヒコに仕えさせられてきた。



 ガマガエルのような声が響いてきた。

 オニヒコの笑い声だ。

 ゆるんだ笑顔はサクヤの美貌に向けられていた。


「ちくしょう、そんな女ぶん殴れ」

 胃のあたりに生じた疼きが、ツグミを苛立たせた。



 ゆっくり下生えを踏みわけ近づく影。


 しなやかな動作にたゆみはない。


 ツグミは自分が逃げ場を失いつつあるとは気がつかなかった。

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