39 合宿、はじめました。

  *****



 足元でサイレンを鳴らしながら、市警の車輛が子鼠のように走り回っている。

 文字通り海のように広い都市を、そこに落とされた細い針を探し出そうとしているかのような執拗さで。彼らはやがてある一点に辿りつくだろう。

 キヤラはピンクの水着に身を包み、わざと日差しのいっぱいに降り注ぐ下にいながら日光を大きく広げた傘とサングラスで遮る、という贅沢を楽しんでいた。

 プールサイドには彼女がひとりだけだ。

 給仕が置いて行った飲み物を片手に本を広げている。

「《――それでも、魔法使いは魔法の書を誰にも渡しませんでした。それというのも、魔法使いの心は魔法を手に入れるのと引き換えに、冷たく凍りついてしまっていたからです》」

 ページをめくりながら、大魔女は歌うように語る。

「《あるとき、若者が屋敷を訊ねてきました。若者は魔法使いにかけられた氷の魔法をいとも容易く溶かしてしまいました。彼こそが偉大なるオルドルに選ばれた勇者だったのです》」

 嫋やかな声が紡ぐのは物語であり、呪文であり、呪縛だった。

 読み手の肉を、精神を、絡め取り、運命を破滅に塗り替える忌々しくて残虐な物語。そうと知りながら、彼女は読み進めることやめようともしない。

「《ふたりは竜を倒すために旅立ちました。王様もふたりの旅をゆるし、民に触れを出しました。勇者が戦いを求めるならば、青海の魔術師は何人たりともこれを拒んではならない……》」

 彼女はそこで朗読をひと段落させ、形の整った頭部を傾げて考え込むようなしぐさをした。

「《戦いを求めるならば、何人たりとも、これを拒んではならない》ねぇ……なんかそれってものすごくヤバそうな文言な気がする~♪」

 偶然、様子を見に来たついでに朗読を聞くはめになったレンブは、姉の持っている本を目にして青ざめた。

「お姉様! 危ないから読み進めるのはやめましょうよって言ったのに~!」

 それは先だって姉が手に入れた小さなペーパーバックだが、中身は歴とした《青海文書》なのだから。

「ところで、先生たちは今頃海市の外かしら?」

「ええ、流石に魔術による追跡は全部断たれたわ。ガレガが市内の監視カメラや目撃情報から追跡してる」

「昨夜、光輝の魔女の出現を感じたわ」

「ええ?」

 二人の背後では、残りの妹たちが大騒ぎをしている。おなかが空いたと文句をいうアニスや、ヘアメイクが決まらない、と鏡の前でいくつもドレスを広げてみせるシウリ。ふたりをなだめているガレガ……それだけみれば、姉妹たちの何でもない日常だ。

「退屈させ過ぎちゃったみたいね~。呑気に合宿なんてさせてたら、退屈も極まるってものよ。そしたら何しでかすかわかんないわよ」

「なんて迷惑な……」

「そう。私の迷惑なんて予測可能防衛不可能な代物でしかないけど、あの人はちがう。折角だから、退屈しのぎに協力してあげましょう。あなた、アニスとふたり行ってらっしゃいな。ほどほどでいいわよ? そろそろ黒曜の機嫌が悪くなってくる頃だから」

 キヤラは一歩踏み出した。

 踏みこむ先は陽光を反射するプールの水の上だ。

 水は彼女の白い、完璧な凹凸を備えた足を受け止め、沈みこませなかった。

 彼女は水面を滑るように歩いていく。

 その視線の先には、天市と海市の境がみえる。その向こうには翡翠宮がある。

 キヤラはそっと手を伸ばした。

 そこにいる誰かをダンスに誘うように。

「待っててね。すぐに迎えに行くわ、眠れる王子様♪」

 それと同時に、ホテルの部屋の扉が激しい音を立てて開かれた。

 支配人の制止を振り切って入ってきた異様な黒衣の女は、黒い口紅で覆われた冷たい唇からやる気のない声を出した。

「藍銅共和国公姫、キヤラ・アガルマトライト。こちらはクヨウ上級魔術捜査官である。貴殿らには吸血鬼ヴァンパイア、アルファ・ニムエ殺害に関与した嫌疑がかかっている。署までご同行願おう……などと踏み込んでみたところで、いるわけないだろうがな」

 クヨウはがらんとした室内を見渡した。

 キヤラたちの姿はどこにもない。

 気配すら残さずに消えていた。

 痕跡はといえば、専用プールにサングラスが置かれているだけだ。

 ただの一瞬でまるで煙のように消えてしまった。

 彼女は胸元に指を突っ込むと、鳥の形に切り取った白い紙を取り出す。

 ふう、と息を吹きかけると、紙ははらりと宙に舞い、鳥になって飛んで行く。

 鳥は周囲を一回りして、クヨウ捜査官の手元に戻ってきた。

「やはり向こうが格上か。こうなったら……仕方ない。使えるものは使わざるを得ないな」

 クヨウは旧型の通信機を手に取った。



              ~~~~~



「オガルがお前と同じ魔法を使っていたのはどうして?」

『さあ……どうしてそんなことを聞くの?』


 何度質問をしても光輝の魔女に記憶をいじくられたオルドルは、それが大事な質問なんだということにも気がつかないみたいだった。

 試合中、オルドルは水の魔術を使うオガルのことを《湖の守り手の家系》とかナンとか言っていた。

 物語の中で《湖》と縁が深い魔法使いがひとりだけいる。

 勇者と旅立つ相棒の魔法使いだ。彼は大切な魔導書を湖に隠していた。そしてその名も湖にまつわるものだ、とされている。

 オルドルが現実にいて、本当に魔術書を残していたのなら、オガルがそれを知っているかもしれない。けれど、そのことをオルドルに聞くことはもうできないのだった。

 手がかりがあるとしたら、オガルの弟である菫青ナツメだけだ。

 ただ、何度話しかけようとしても、その試みは上手くいかなかった。

 僕と彼女の間には、深くて遠い山あり谷あり崖あり川もあり……なのだ。


 いや、ほんとに。


 目の前には雄大すぎる大自然が広がっていた。

 どこまでも広がる森、高すぎる山、濃い緑のにおい、土のにおい、気持ち悪い。

 僕たちは一週間分の物資を積んで、二藍フタアイ国立公園という場所で、移動の途上にあった。

 ここは海市から二時間と手ごろな距離で手つかずの大自然が楽しめる場所で、その一部区画が《結界》によって切り離され、学院の……というか竜鱗学科の演習場になっている。


「お~い、先生、置いてくぞ~!」


 物資の入ったリュックを背負い、歩き慣れない道を歩くのは、なんでも近所のコンビニで揃ってしまう生ぬるい現代生活に慣れきった日本人の若人には苦行でしかなかった。

「……もう少しゆっくり行かない?」

「ヒナガセンセ、マジで体力ねーのな……」

 離れたところからウファーリが呆れ声で言う。反論のしようがない。遅れているのは僕ひとりで、足手まといも僕だった。

「女性に気遣われるとは、情けないにもほどがありますよ」

 さらにそこにあくまでも紳士然としたリブラの追撃が加わる。

 リブラは貴族のインテリだが、医師という仕事柄か、あれで結構鍛えているようなのだ。おまけに女性を前にしたら、泣き事など言わないだろう。

「そういうリブラだって荷物持ってもらってるじゃん!」

 そう。いくら体力のある医師とはいえ、野外活動のプロというわけではない彼の荷物を半分、請け負っている人物がいるのである。もちろんそれは、無理やり事態に巻き込まれ、合宿にも参加するハメになった可哀想なイネス・ハルマンである。

 彼は合宿に参加するため、有給まで切らされたのだった。

「しょうがないですよ、リブラ医師せんせいは参加者全員分の医薬品を抱えてますからね……ああ、しかしこれ、新兵時代を思い出すなぁ……。このままのペースだと、少しまずいですよ~」

「まずいって?」

「ま、あとからのお楽しみということで」という表情はあまり楽しそうではない。

「何それ? すっごい気になるんですけど……!」

 何か気づいているのに言ってくれない態度が妙に気になる。

 ちらりと後ろを振り返ると、天藍が僕の倍くらいの荷物を背負っていた。

 てっきり先に行ってしまうかと思ったのだが、カガチから殿を命じられたのはきっちり守るつもりみたいだ。

「天藍……あのさ」

「無駄口を叩く暇があるなら足を動かせ」

 誰よりも重い荷を背負っていても、天藍は息ひとつ乱さない。

 先行したカガチ組に二十分ほど遅れて、宿舎に到着した。

 早くも、心が折れかけた僕だったが、合宿に使う宿舎を見た途端、少しだけ家出した意欲が戻ってきてくれたようだ。

 二階建てのログハウス風建物。

 中には個室と浴場と食堂と、長期滞在に必要なものはすべて備わっている。あと、ここから結界内部は全てモニターできるようになってるらしい。

「さすが、宿舎は立派だな……」

 けれど、合宿気分を味わうにはまだ早かった。

 早かった、というより、遅きに失した、というべきか……。到着地点で待ち構えていたマスター・カガチが笑顔で迎えてくれる……わけがなかった。


「遅い! 到着時刻は伝えていたはずだ。罰として麓まで二十往復!」


 僕はちらりとイネスを見た。彼は黙って頷いた。

 かくして、地獄の合宿の幕は開けた。

 これは、ただの、友情努力勝利絆の合宿じゃない。

 地獄の合宿だ。

 ついでに、さっきから、クヨウ上級捜査官が狂ったように僕を呼びだし続けているんだが、心の底から無視したい。

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