38 大事な記憶


『金鹿の書も、蛟の書も、ボクが書いたんだ。この本にはボクの持てる魔術の知識、そのすべてが詰まってる』


 コイツは何を言ってるんだ? 本の登場人物が、本を書くはずがない。

 ペンも持って文字を書くことすらできないのに。

『確かにボクは物語の登場人物だけど、それは今だけの話さ』

「それじゃ、昔は《違った》とでも言うつもりなのかよ」

『そう――ボクは登場人物なんかじゃなかった。騙されて、殺されるまではネ』

 オルドルは実在の人物……それも、この国の人間だった可能性がある。

 戸惑いが、キヤラの過去やその他もろもろをかき消してしまう。

 驚いているのは僕だけではなかった。

 黒曜も驚愕の表情を隠さないでいる。

 けれど、彼は僕とは別の点に注目していた。


「――――椿!」


 黒曜が焦った声を飛ばし、背後を振り返る。

 その瞬間「ふふふ」と女の笑い声が耳をくすぐった。

 声を耳にしただけで背筋を悪寒が駆け抜けて行き、耐え難い寒気がする。

 続いて、眩しい光が視界を真っ白に染めた。

 そこには全身を輝く光に包んだ女が立っていた。笑っていることはわかるのだが、その表情は眩い光に包まれていて、細部までは見通せない。


「何をしに来た、アイリーン!?」


 黒曜が叫ぶ。

 その手にはデナクの弓があった。

 アイリーン――光輝く魔女は《青海文書》の管理者だ。

 黒曜は問答無用で弦を引き、矢を放つ。《黒き月のデナク》の矢は必中だ。矢は立て続けに、魔女の体へと吸い込まれていく。

 心臓を何度も射抜かれながら、けれど、彼女は幽鬼の如くそこに佇んでいる。


 ふふふふ……。


 僕たちの周囲には闇が渦巻いていた。黒曜の、《黒き月のデナク》の魔法による闇だ。

 デナクは、黒曜は、僕たちを守ろうとしているんだ。

 だが、闇は魔女の光までは侵せない。


 抵抗してもむだよ、デナク。


 そう言って彼女はゆっくりと両手を持ち上げる。踊っているみたいに、優雅に。

 光はどんどん強くなり、デナクの闇を押し返していく。

 眩しい、というより光の刺激が痛い、といった強さになってきた。

 黒曜は呻き声を漏らして、両目を押さえた。闇は消える直前のたき火のように、その場で頼りなく揺らめいている。

 黒曜の両手から鮮血が滴り落ちた。

「黒曜!」

 光輝の魔女が放っているのはただの光じゃない。ウヤクを攻撃するためのものだ。幸い僕には眩しさ以外に効果はない。

 僕は自分の体を盾にして、光から大宰相を庇う。

「椿、私はいい、逃げろ。狙いは君だ」

「僕? だけど……」

 逃げろと言ったって、アイリーンはすぐそばにいるのだ。

 彼女の唇が蠢く。

 ただ喋っているだけなのに、蠢くという表現が近い。


 言ったわよね、ツバキ。

 覚えていてね。

 すべては貴方しだいなの。


 そうして、彼女は僕の額に指を《突き入れた》。


「…………あ?」


 気がついたときには、人差し指の付け根まで額に埋まっている。

 血は流れていない。

 けれど、頭の中身を――脳を、直接いじくりまわされている感触がする。

 痛みはない。脳には痛覚が無いから。


「――――あ、……かはっ……うえっ、ええええええっ」


 ただ呻いて、せり上げてくる吐き気に従って吐瀉物を撒き散らすだけだ。

 目の前に閃光が弾ける。

 それは《彼女》の光ではなく、頭に直接送りこまれてくる彼女の魔力で、脳の一部を勝手に焼かれているのだった。

「あぎっ、ぎぎぎぎっ」

「椿っ!!」

 黒曜がもう一度、僕の名前を必死に叫ぶ。

 でも、もう、何も感じない。

 黒曜がそばにいるはずなのに、気配すらしない。

 目の前は真っ白で、体の感覚がない。

 自分がどこにいて、何をしているのかもわからない。



               ~~~~~



 気がつくと、図書館に戻っていた。

 着の身着のままベッドの上に大の字に寝ていて、日付だけが知っているものより一日経過している。

 外はもう、ずいぶん明るい。

 全て夢だったのかもと思ってみたが、上着に血がついていた。

 恐る恐る額に触れてみたが、異常はない。これは黒曜が流した血だ。

「オルドル、聞こえてる? 返事してよ……!」

 洗面台に水を溜め、上着の血を洗いながら呼ぶ。

 血は固まると取れないが、お湯と石鹸を使うと良く落ちる。

『な~~~に? 今日は早起きだネ~~~~』

 呑気な欠伸まじりの声が返ってくる。

「そんなこと言ってる場合じゃないだろ! 昨日のこと、覚えてる!?」

『はァ?』

「アイリーンが来ただろ。ほら、お前が元々は人間だったって話……」

『何ソレ? 夢でも見たんじゃないの。ボクはボクだよ。《師なるオルドル》さ』

 僕は洗濯の手を止めた。

「覚えてないの……?」

 オルドルはきょとんとしている。

 実際どうなのかは顔が見えないので何とも言えないが、そういう気配がする。

『安心してよ、仮にそれが本当だったとしても、あの女に何もされないよう防御魔術をかけてある』

「いつの間に?」

『キミが寝ている間』

 だから最近いつも眠そうだったのかとか、感心している場合じゃない。

 アイリーンは僕の記憶を消そうとしたんだ。でもオルドルの魔術の妨害に遭って、僕のほうはそのまま記憶が残っている。

 でもオルドルは忘れてしまった。《元は人間で、登場人物なんかじゃない》と僕に話したこと、それどころか、その《事実》さえ。

 カフスが着信を知らせてチカチカ明滅し、通話を要求してくる。

 応答すると、空中に窓が開いて、黒曜の顔が写った。

「……やっぱり、夢じゃなかったんだな」

 彼は目に包帯を巻いていた。少しはみだしたところの皮膚が火傷のように爛れているのがわかる。

《ああ》と渋い返事がかえってくる。

 黒曜はオルドルと違い、すべてを覚えていた。

 やろうと思えば、アイリーンは彼の記憶も全て奪えたはずなのに。

《……その方が面白かったからだろう》

「なんだよ、その理由」

《彼女にはこれまで二、三度と会っただけだが、他の読み手の情報と照らし合わせると、そうとしか考えられない。あの女のやることに明確な方向性はない》

 他の読み手、というのが誰なのかは教えてくれなかった。

 でも言っていること自体は間違いではないと僕も思う……。

 過去にマリヤも戦闘中に現れたアイリーンに驚いていた。そういうことがあった。《管理人》が姿を現すのは、その人物が窮地に陥ったとき。悪魔のようにどこからともなく現れては、文書の魔法を使うように促すのだ。

 僕の場合、夢にも何度か現れた。

 そして彼女が現れる度に文書の力に深く溺れて行ったように思う。

《昨夜、オルドルが言っていた件は……忘れろ》

「え? なんで」

《アイリーンにまた好き勝手にされたいのか? 今は校内戦に集中しろ》

 確かに、光輝の魔女がもう一度やって来て記憶を消そうとするかもしれない。

 また頭をいじくられるのは、死んではいないにしろ、苦痛であることは間違いない。


 オルドルは、実はこの国のどこかで生きていた人間だった。


 そのことは、アイリーンにとってわざわざ出て来なければいけないほど大事なことだったんだ。

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