36

 黒曜ウヤクは灰簾理事の理事長室で、ソファに座り寛いでいた。

 学内にいる校内戦の参加者は粗方集まっており、あとから僕やリブラ、それにイネスが合流する。イネスは警備員の制服姿で、居心地が悪そうだ。

 僕も、あのふたりが同じ空間にいると思うだけで緊張するのだが……現在はそれよりも、突然現れた黒曜ウヤクだ。


「わざわざ何しに来たんだよ、ウヤク。デモのこととか、大丈夫なのか?」

「大丈夫なはずがないだろう。どうしようもないだけだ。だが、それにも増してキヤラが問題だ。違うか」

「だけど……」


 言い募ろうとしたところを、別の声に遮られる。


「ってかさ~、そいつが大宰相の黒曜ウヤクっていうのはマジで言ってんの?」


 ヒギリが黒曜に向けて指をさしていた。

「不躾よ、黄水ヒギリ君」

 理事が注意するが、信じられないのも無理はない。

 黒曜大宰相は普段、表向きの場では代役を立てる。僕やカガチ、それから天藍以外は、誰ひとりとして本当の顔を見たことがないのだ。

 ましてや彼は僕とほとんど変わらないような外見をしている。不老なのだ。おまけにいつもの黒服じゃなくて学院の制服を着ている……。

「真実だ。証明してみせようか」

 黒曜は用意されていた飲み物の中から水をグラスに汲み、黄水の前に置く。

「《黄水ヒギリ、飲め》」

 朗々とした声が突然、不気味に歪むのを感じた。

 人間の声だけど、声じゃない。耳ではなく、脳の皺の間へと直接もぐりこんでくるような声だった。

 ヒギリの様子はいつも通りに見えたが、徐々に様子がおかしくなってくる。

 上等の椅子に座りながら、表情が青くなり、汗をかき始めた。

 その指先は徐々に水の入ったグラスに近づいていく。必死に抵抗しているようすで、グラスは震える手の中で倒れて水を零した。

「ふむ。竜鱗騎士は流石に言いなりにはならないな。《もういい、やめろ》」

 解放されたヒギリは肩で息をしながら、震える指先を見つめていた。

 黒曜ウヤクは、ウファーリとは異なる種類の《海音》を持つ。

 彼の力は《言霊》、言葉で人の意識や行動を操る、強力な海音だ。


「……わーったよ。認める。あんたが大宰相だ」


 黄水は、目の前の少年が厄介な存在だということを認識したみたいだった。

 黒曜はあくまでも上から目線で、鷹揚に頷いてみせた。

「よろしい。苦しめるつもりは無かった。あくまでも、ここに来たのは今後の話をするためだからな。キヤラ公姫の件は灰簾理事から聞いている。まずは女王府の長としての意見を述べよう」

 黒曜は全員の表情を見回す。海音をみせつけたことで、この場を支配しているのは彼になった。

 掌を翻すだけで、周囲の誰もを緊張させる。注目を払わずにはいられない。

 たぶん、これがカリスマってやつなんだろう。

「現在、君たち参加者は全員がキヤラの術中に嵌っている。そうだな、マスター・サカキ」

 カガチの肩に乗った人形がぴこぴこと動いて反応した。

「その通りです。チームは解散されたものの、私たちが自鳴琴と交わした血の契約はそのままです」

「諸君らは、いずれも女王国にとって重要な人材だ。これから試合開始までに女王府はその総力を以て君らを守護し、命を救う方法を探り出す。既に藍銅共和国と交渉し解決策を見出すべく動いている」

 つまり、黒曜が提示してきたのは、指定された校内戦の日時までに、試合そのものをやめさせる、という第三の方針だ。

 ただ、事態を引き起こしたキヤラ本人は現在、本国からも女王国の捜査機関からも連絡もつかないどこかへと消えてしまった。また、藍銅共和国のほうも校内戦の撤回自体には異論を唱えてはおらず協力体勢をとってくれてはいるものの、キヤラ本人の意志を止める手段を持たない。

「騎士団は動かせませんか」

 カガチの問いに天藍が淡々と答える。

「星条百合白殿下と共に国外に出ている。警護計画を見直しノーマン副団長を呼び戻しているところだ」

 その名前を久しぶりに耳にして、少し苦いものを感じる。

 星条百合白は紅華の姉で、ものすごい美少女で、かなりの因縁の相手だ。

 出かけていたとは知らなかった。

 それに、彼女の身辺警護をしているノーマン副団長とも少しだけ面識がある。

 優秀な女性騎士で、探査能力に特化した魔術を使う。彼女がいれば行方を眩ませたキヤラを見つけることもできるかもしれない。

「どこまで通用するかは、少々疑問だがな」

 もしも騎士団が邪魔になると判断したなら、キヤラは何らかの手を打ってくる、そう黒曜は読んでいる。

 それだけ、彼女は次の試合に、そして古銅イオリという存在にこだわっている。

「どうして、そんなにしてまで古銅イオリを欲しがるんだろう……?」

 彼女は民衆を扇動して、女王国の治安を悪化させている。研究対象として面白いから、の範疇を越えている。

「早急にキヤラたちの捜索、そして万一に備えた古銅イオリの警護が必要だ。そして――それでも対決が避けられない場合において、キヤラ姉妹と戦って貰いたい。試合続行だ」

 緊張から、自然と体が強張る。

「マスター・ヒナガ。当然、試合に参加するメンバーの選抜は済んでいますね」

 理事が僕を睨みつける。

「まだ、決まってません」

「期日はもう六日後に迫っているのよ?」

「僕はマスター・カガチとは戦えない」

 しん、と室内が静まり返る。

「ちょっと……マスター・カガチに失礼じゃなくて!? 南部戦線の英雄よ? 何が不満なの!」

 銀華竜ともう一度戦えと言われたら、もう一度何もかも引き裂かれてボロボロになるんだとしたら、カガチとは戦えない。テリハたちともだ。

 当のマスター・カガチはくつくつと笑っていた。

「そう仰るのなら仕方ありませんな」

 意外な反応だった。カガチは本当の戦場を知っているはずだ。だから、僕の甘えやワガママを怒るだろうと思っていた。

 しかし、彼はむしろ、激昂している理事を宥めはじめた。

「ヒナガ先生の仰ることはもっともです。キヤラ・アガルマトライトは人の身でありながら、強敵であると見ました。命を賭ける場に、命を預けられぬ仲間ほど邪魔なものはない。……どうでしょう、ここはひとつ」

 カガチは指を一本立ててみせた。

「訓練がてら《合宿》でもしてみる、というのは……」

 彼の提案は単純なものだ。

 竜鱗学科が実習で使う合宿施設で、残りの六日間、戦闘経験のほぼ無い僕を含めて実戦訓練をする。その上で試験を行い、相応しい者を改めて選ぶ。

「どうですかな、マスター・ヒナガ」

「それは……いいの?」

 選定はギリギリになるが、僕が納得したうえで、メンバーを選べる。

 でも、そんなことを自分で決めていいのだろうか。

「いいじゃん。やろうぜ、合宿」

 迷っている僕の肩を、ウファーリが抱き寄せる。

「それって普通科のあたしでもカガチ先生の授業が受けられるってことだろ? むしろ大歓迎!」

 最初は魔術学科に入りたくて仕方なかった彼女らしい反応だ。

 僕は、何となく天藍のほうに目をやる。

 美貌の横顔はいつもの無表情で、前だけを見つめていた。

「私もその案に賛成だ。それなら事前にメンバーが察知されることもない。キヤラが試合の参加者に何らかの危害を加えないとも限らないからな……無論、合宿中は私の兵に警備させよう」

 黒曜が言うと、灰簾理事も諦めたようだった。

 理事は紅華と敵対しているが、大宰相の意見に逆らうほどの力はないらしい。

「あの、それって……もしかして俺もやらなくちゃいけないんですかね……」

 背後で、イネスという名の、可哀想な巻き込まれ体質の一般人が挙手していた。

「…………ごめん」

 彼に対しては、それ以上、言葉もなかった。

 方針が決まれば、全員の表情は少し明るいものになった。

 手近なところに目標があれば、少なくとも気は紛れる。

 しかし、黒曜は冷静だった。

「マスター・ヒナガ、二人で話したい」

 それだけ言うと、去って行く。

 嫌な予感……はここのところ、ずっとしている。

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