番外編3 お嬢様と執事


 食卓には素朴な手料理が並んでいた。

 奥まった席に枯れ木のような老婆が座る。

 ろうそくの明かりを挟んで対峙するのは若い娘盛りの少女だった。

 肌は瑞々しくはりがあり、性格を表してつんと澄ました瞳、そして目元には皺ひとつない。ミルクティ色をした髪はまっすぐさらさらと頬の横を流れ、肩にかかっている。ただし着ているものは古着でくたびれていた。

 明かりを挟んで対となったふたりが、細長いテーブルの端と端に腰かけている。

「どうぞ、召し上がれ」と老人は娘に声をかけた。「人間式のもてなしですけれど、精一杯の心尽くしでございます。もちろん、貴女がここに滞在して頂けるのなら、必要なものはなんでも、かならず用意いたしましょう」

 しわがれ声で、しかし病でやつれた目元には親切そうな色が宿っている。

 娘はカトラリーに手を伸ばす。

 フォークが血の滴る肉に刺さり、ナイフが切り裂く。

 柔らかな肉片を唇が食み、白い歯が食い込んで咀嚼し、飲み下す――その一挙手一刀足を、じっとりと絡みつくような老女の視線が追っていた。

「貴女のような高貴な御方をおもてなしできるなんて嬉しいわ……これで貴女は私のもの」

 食物が喉を降りて胃に入ったであろうことを確信し、彼女は心からの微笑を浮かべた。

 それと同時に、少女の手から食器が滑り落ちて皿を割る音が響いた。



                 ******



「今日は植物園に行ってみましょう。気分転換にもにゃりますし、先生もそろそろお仕事に使う実践的な女王国語について覚えるべきですにゃ!」


 アリスがそう提案してきたとき、僕は死んだ魚のような目をしていたに違いない。

 彼女は教え子に対して魅力的な提案ができるすてきな語学教師だったが、僕に対してだけは真逆の効果を発揮する。

 確かにヒマはヒマなのだが、植物園に行くことは気分転換にならないのは確実――何しろ、僕は藍銅の言葉も知らないし、女王国の常識も備わっていない。

 外出すればそのことを隠すので精いっぱいになることは目に見えていた。

 アリスが僕を連れて行ったのは、海市郊外にある私設植物園だった。

 それはベレノス夫人とかいう金持ちが夫の遺産を使い、自分の生家があった場所に建てた植物園で、大きな硝子温室が三つある。夫人の生家も残されているが、老朽化から閉鎖されているようだ。

 中に入り、今日という日をどうやって乗り切ろうと考えていると、僕たちのすぐ後から団体客がやってきた。

 地元の子供たちが教師に引率されて見学に来たようだった。

 狭い通路はあっという間に人でいっぱいになる。

「先生、はぐれにゃいように、気をつけてくださいにゃ」

 そう言う彼女の姿が、あっという間に子供たちに紛れていく。

「先生っ! 助けてくださいにゃ~っ!!!!」

 みるみるうちに次の温室へと流されていく彼女を、僕は笑顔で見送った。

 ちょうどいい。帰って来るころにはヘトヘトになっているだろうから、今日はもう帰ろう、と言えばいい。完璧な計画だ。

 手近なベンチに座り、彼女を待つことにした。

 腰を落ち着けたところで、水筒がごぼりと不吉に泡立った。


『ねえねえねえねえ、そろそろお家に帰りたくなって来る頃じゃなぁい?』


 オルドルが奇妙な誘い文句を述べてくる。


「はあ? 来たばかりだろ」

『ココ、なんかいや~な気配がするんだよネ……古い魔法のニオイが混じってる。誰にも手入れされずに消えかけてはいるけどネ』


 それと同時に、がさり、と目の前の藪のほうから音がした。

 目をやると、目があった。藪の中から女の頭が突き出している。

 若い女だ。十七、八……といったところか。

「誰と話してるの?」

 彼女は訊ねた。

 僕の隣で。

 全身が緊張する。

 一瞬で脂汗が噴き出る。

 さっき、彼女は通路を挟んで向かいの藪の中に隠れていた。

 でも、声は間違いなく真隣から聞こえてくる。

 ぎこちなく首を動かすと、ミルクティ色の、さらさらした髪の間から、黄味がかった瞳がこちらを見つめていた。

 その手が僕の首元に伸び、視界が反転した。

 ベンチから投げ出され、大きめの白シャツの裾から伸びた生足が大写しになる。


『ホラ、言わんこっちゃない~~~~~!』


 オルドルの最後の言葉だけ、やけにはっきり聞こえた。



 それから、どれだけ時間が経ったのかはわからない。

 気がつくと薄暗い場所に寝かされていた。

 簡素な寝台の上だ。

 たぶん、薬を嗅がされたのだと思う。気を失う瞬間に、刺激臭がしたのを覚えている。

 起き上がると、かなり肌寒い。どうやら自分は何一つ身に着けていない状態みたいだ。杖も見当たらない。

 着衣を奪っていくなんて考えたくないけれど、痴女の仕業だろうか。

 寝台から這い出し、今にも千切れそうなボロきれ……ではなく、カーテンを開ける。

 窓の向こうに、高めの壁を挟んで大温室が見える。


「オルドル……どこにいる?」


 訳の分からない状況で返事がほしいけれど、杖が無いと会話ができない。

 タイミングよくコンコン、とドアをノックする音が聞こえてきて、僕は飛び上がった。


「だ……誰……?」


 ん?

 なんだか声に違和感がある。いつもより高いような……。

 扉が開き、異常な人物が入って来る。

 端的に言うならば、燕尾服の執事だ。見間違いでも、ヤバめの幻覚を見ているわけでもない。間違いなく燕尾服姿の執事だ。

 灰色の髪を後ろに撫でつけ、眼鏡をかけた若い男だった。


「お召し替えでございます、お嬢様」


 ……お嬢様?

 執事はえんじ色のドレスを広げてみせる。落ち着いた色ではあるが、胸元に白いレースがついた、どう見ても女ものだ。

「何これ……何の冗談……?」

「冗談ではございません」

 彼は部屋の隅に立てかけてある姿見をこちらに向ける。

 そこに映った自分の姿を見て、卒倒しかける。

 鏡の表面には、白い裸身がうつっていた。ひ弱そうにあばらを浮かせた痩せた体はそのままだが、圧倒的にいつもの僕と違う点があった。

 驚愕のあまり息を止めたまま、視線を下にずらしていく。

 そこには男にはあるはずのない脂肪の膨らみがあった。

 さらにその下には……慌てて鏡をよく確認する。

 磨かれた鏡面に、長髪の僕が写っていた。

 青海文書の中のオルドルのように、伸びっぱなしの黒髪の間から赤い瞳がこちらを見ていた。

 僕であって僕とは違う瞳は睨みつけているようにも見える。

 ふっくらした唇が蠢き、囁くような……。


《嘘つき》


 そんな声が聞こえた気がした。

 よろめいた肩を、先程の執事が受け止めた。

 だが、執事の姿は鏡には全くうつっていなかった。

「う――――! うわあっ!」

 白手袋を振り払い、開いた扉から廊下に飛び出す。

 素っ裸のままだし、何故僕が《女の体になっている》のかもわからない。だが、じっとしているよりマシだ。

「待つのじゃ!」

 足が何かに引っかかり一メートルほど吹っ飛んだ。

 華麗に顔面から着地しながら振り返ると、園で見かけた例の痴女が僕に足払いをかけていた。

 さっきまでいなかったはずなのに……。

「裸のままで逃げ出すとは、なかなかやりおるわ」

 ニヤリと笑った口元には、尖りすぎた八重歯が二本生えていた。

「いかがいたしましょう、ニムエお嬢様」

「久々の客じゃ。茶でも振る舞ってやろうではないか。せいぜいありがたく思うのじゃぞ」

 のじゃ? ニムエお嬢様?

 だめだ、もうついていけない。

 再び気を失いたかったが、息の根が止まりそうな気配がしたのでやめた。



        ~~~~~



 不幸にも、今の僕にはスカートが大層良く似合っていた。

 執事は慣れた手つきで野暮ったい黒髪を結い上げ、リボンで結ぶ。

 体はやはり、女の子のものだ。

 いきなりの性転換すぎて、実感がない。

 あったとしても、絶対に喜べないシチュエーションだ。女体が間近にあるとはいえ、この状況を嬉しがるやつっているのか? ――今の自分は最高に母さんに似ている。

 着替えがすむと腐って抜け落ちそうな廊下を渡り、台所に案内される。

 ハーブティと思しきものをカップに注ぎ入れ、ニムエはその器に唇をよせ、何度か同じ言葉を呟いた。呪文のように聞こえた。

「クマツヅラの茶じゃ。気分が落ち着くぞ」

 薄い黄色をした、あまり食指の動かない代物が供される。

「二度と男の体に戻れなくてもよいのじゃな?」

 一気に飲み干した。

 苦くてクセのある味の液体が食道を降りていく。

「気分はどうじゃ?」

「……あれ? 少しすっきりしたかも……」

 気のせいかもしれないが、鏡の中に自分の母親の娘時代を見つけたショックが和らいでいる……気がした。

「僕に何の用なの? あんたたち、吸血鬼なんだろ?」

 ニムエと執事はお互いに顔を見合わせる。

 鏡にうつらず、影も無く。超人的な能力、ボロい屋敷。あり得そうな可能性にカマをかけてみただけだが、彼らはあっさり肯定する。

「ま、わかりきった話じゃな。その通り。わしは吸血鬼、こっちのグウィンは私の従者じゃ」

「お見知りおきを……」

 執事が軽く頭を下げる。

 悪夢みたいな現実だが、二人はけっこう長く生きている吸血鬼らしい。

 そもそも吸血鬼そのものが、こちらの世界では珍しくもないそうだ。

 ただニャコ族なんかとは違い、人間のコミュニティにはなじめない。そりゃそうだ。誰しも煙になって家々に侵入し、血を吸う隣人は遠慮願いたいだろう。

 ふたりはちがう土地から女王国を訪れ、ベレノス夫人の家で暮らしている。彼女が亡くなったあともずっと、だ。

「正直言って、ここの暮らしにはうんざりしておる。建てつけは悪いし鼠はでるし雨漏りはする」

「出ていけば?」

「そうもいかない事情があるのじゃ」

 ニムエが合図し、阿吽の呼吸で執事が鍵のかかった大きな棚を開けた。

 棚の中には種々様々な薬瓶がずらり収まっていた。

 むっとするにおいが鼻を突く。植物園に入ったときの緑のにおいを幾重にも折り重ね、煮詰めたにおいだ。

「ベレノス夫人の薬棚じゃ。ここにあるすべてが魔法の薬なのじゃ」

 ニムエは忌々しそうに言う。

 ベレノス夫人は生前、魔法薬の研究を行っていたらしい。薬棚は彼女の研究の集大成、三百種の魔法薬である。

 棚には他に乾かしたハーブや、薬草を煮詰めるための薬罐なんかが並んでいた。

「ひとつひとつに対応する、大事な呪文がある」

 ハーブティを淹れたときの言葉を思い出す。あれがそうだろうか。

「あの忌々しい女は呪術師でもあってな、わしに食事と偽り、血と肉を食わせて呪文を受け継がせたのじゃ。信じられるか?」

 残念ながら、その魔術には心あたりがある。

 僕も魔法を使うために、オルドルの血を飲んだことがあるからだ。

「ベレノス夫人の血と呪文はわしにとって重荷にしかならない」

 呪文にこめられた夫人の呪力は今もニムエを縛りつけ、吸血鬼としての能力を衰えさせているという。本当かどうか知らないけれど。

「そこで、お主に呪文を譲りたいと思い、ここまで連れてきたのじゃ」

「…………え? 僕?」

 反射的に執事を見てしまう。

 執事が真面目な顔で頷いた。

「僕が君の血を飲むってこと?」

「人間をやめたくなければ作り方を真面目に覚えるしかないのう」

「三百種もあるのに?」

「二年……いや、猛勉強で三年はかかるかのう」

「のう、じゃないよ、のう、じゃ! 絶対にイヤだからな!」

 吸血鬼になるか、それとも……ということか。

「悪いけど、帰らせて」

 立ち上がったその肩を、いつの間にか移動していたニムエが押さえつける。

 さっきの瞬間移動だ。

「不死者を出し抜いて帰れると思ったとは、かわいい奴じゃ。それとも一生、男に戻れなくてもいいのか?」

 助けてくれ、誰でもいい、オルドルでも、アリスでもいい。

 でも、助けはこないだろう。そもそも耳のいいアリスが探しに来てくれない時点で、何か仕掛けがあると思ったほうがいい。

 しかたがない。

 古今東西、魔女の棲家に迷い込んだ者が窮地を切り抜けるために必要な武器は、詭弁と勇気だ。

「……わかった。それじゃ、まずはひとつだけ呪文を覚えるから、せめて荷物を返してよ」

「杖はダメじゃぞ?」

 杖があれば、魔術を使うことができる。

 そもそも、僕は学院の制服を着て来た。だから、彼女たちは僕の仕事が何か知っている。杖を渡したりはしないだろう。

「杖はいらないから、ほかのものを返してくれる?」

「まあ、良いじゃろう」

「ありがとう、それじゃ……服と本をお願いするよ」



              ~~~~~



 僕は植物園の前で立ち尽くしていた。

 もちろん、胸がなくて足の間のものもある本来の染色体をした僕が、だ。

「先生、どこに行ってたんですにゃ?」

 アリスがぱたぱたと駆けてやってくる。

 もみくちゃにされて髪の毛がぼうぼうになっている。僕も緊張と疲労でぐったりだが、これもアリスを見捨てた罰なのかもしれない。


『いいかネ、ツバキクン。これは貸しひとつってヤツだから覚えておきたまえヨ』


 オルドルが尊大な態度でふんぞりかえっている気配がした。

 しかしあの吸血鬼の棲家を出るためには、オルドルの力を頼るしかなかった。

 三百種の薬から、僕を男から女へと変えた性転換薬をみつけ出すためには、薬草の知識が必要だ。

 だからニムエをだまして、本の形をした青海文書を取り戻したのだ。

 オルドルがハーブに詳しくて、心の底から助かった。

 そうして覚える薬の作り方は一種でよくなったが、杖はいらないと言ってしまった手前、リブラがくれたほうの杖は取り戻せなかった。

 謝ってすむ問題だといいのだけれど……。

「これ、どうしよう……」

 僕の手の中には、杖のかわりに瓶入りの性転換薬があった。

 ひどくマニアックな薬を手に入れてしまった気がする。

 そんなことを考えていると、頭にこつん、と何かが当たって地面に落ちる。

 僕のもうひとつの杖だ。

 背後を振り返るとベレノス邸を囲む塀の上から、ニムエが顔を出していた。

 口をパクパク動かして、メッセージを伝えてくる。


 だましたな、この野郎。


 騙したな、というわりに、彼女は面白そうに笑っていた。

 遠巻きにみるベレノス邸は陰気で、廃墟そのもので、ニムエにとっては退屈なのかもしれない。


「……今日はもう、帰ろうか」

「はいですにゃ」


 落ち込んだアリスを促し、僕はようやく帰路へと着いたのだった。

 ……この出会いが、ある意味、運命だとも知らずに。

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