第8話

#わたしとくろちゃん


どれくらい、時間がたったんだろう

どうしたらいいんだろう

でも、何も考えられないよ

くろちゃんが、それを許してくれない

押し寄せる波のように

くろちゃんに飲み込まれてしまう


くろちゃんの心臓の音

私の心臓の音

二人の息づかいにまぎれて

微かに、電子音が鳴り響く


しばらく、二人で夢中でキスしてたけど


くろちゃんが、ぱっと体を起こして

インターホンを取り上げる

はい、はい、と、相づちをうつ


終了10分前、満室で延長できないって。


私は慌ててシャツのボタンを直し

身なりを整えて、とりあえず トイレに

駆け込んだ。

すっかり、化粧のとれてしまった顔は

子供みたいにあどけなくて

さっきまでの自分が嘘のよう。

あまり、待たせるのも気が引けるし

なんだか、今更のような気もして

とりあえず、ザブザブと顔を洗ったら

リップだけ引き直す。

その瞬間、さっきまでのキスが蘇り

それだけで、体が痺れてしまう。

やっぱり、ちゃんと、化粧を直そう…


結局、歌なんて歌わず、会話らしい会話も

ないまま、また、賑やかな町中に

放り出されてしまった。


外がまだ、明るいことに戸惑いながら

火照ったからだをもて余しながら

とりあえず、二人で駅に向かう。

まだ、帰りたくないよ

その、一言がどうしても言えず

下を向いたままトボトボ歩いていると

くろちゃんが、手を繋いでくれる。

くろちゃんの手は大きくて分厚くて

ちょっと、ゴツゴツしてて

そして、あったかい。

指と指を絡めるように

しっかりと。


ふ、

と、くろちゃんが足をとめる。


青は、お腹すかない?


私はくろちゃんでお腹一杯だったけど

くろちゃんのお腹が、ぐーっと鳴った

男の人って、こういう時でも

お腹すくんだ、と思ってたら

私のお腹もきゅーっと、おかしな音を

鳴らす。二人で顔を見合わせて笑っていたら

なんだか、ほんとに、お腹が

ペコペコになってきて

今ならなんでも、いくらでも

食べられそうな気にさえなってきた。


ぼくが、ご馳走するよ


くろちゃんが、私の予定を確認する

別にご飯食べるだけだし、外もまだ明るいのに

へんなの?

と、思いながらも、まだ、一緒にいても

いいことがわかり、嬉しくなる。


週末だし、休みの日に

出掛けることすらまれな私は

明日も休みで何の予定もなく、少しくらい

遅くなっても大丈夫なことを伝える

ほんとは、朝まで大丈夫、と

言いたかったけど、いいかけて、口をつぐむ。


しばらく考え込んで、あのね、と口を開く。


くろちゃんは、今晩、深夜のアルバイトで

0時から朝の6時まで、家を空けるという

それでもよければ、これから、家に来ないか?

と、その前に夕食をとって、

夜は一人にしてしまうけれど

明日はもう少し二人でゆっくりしよう、と。


本当は答えなんか決まっていたけど

ちょっと、考えるふりをしていたら

困った顔でどうかな?やっぱり、無理かな?

と、不安そうに言うから

大丈夫だと思うよ、なんて

おかしな返事をしてしまう。

それでも、本当にほっとした顔を

するので、にやけてしまう顔を必死で隠した

ただ、二人でゆっくり?って?

と、急に恥ずかしくなって、私も

くろちゃんに負けないくらい

赤くなったり、青くなってる自分に気付き

ちょっと、驚いた。

私ってこんなに顔に、

出るタイプだったのだろうか


相変わらず、歩いているときのくろちゃんは

饒舌で、バイト先のコンビニにくる

猫の親子の話や、この前きた

変なお客さんの話を、とりとめもなく

話続ける。


いくつか、電車を乗り継ぐあいだ

行きの電車の中での出来事を聞かされて

笑い転げた私は、人目さえなければ

何度も何度もくろちゃんにキスしたい

気分だった。


くろちゃんの住む駅は、

名前くらいしか聞いたことのない町で

おそらく、ここで一人ぼっちになったら

私は家に帰れないだろう

それくらい、自分の住む部屋から離れたのは

数年ぶりのことだった。

都内でも、なんだかゆったりとした

空気で、駅前の商店街は

わりと、活気もあって、くろちゃんは

お肉屋さんや八百屋さんで

手際よく食材を買いはじめる。


そういえば、ご馳走するよって言ってたけど、

どこで食べるのだろう?

っていうか、これは手料理コースだよね

私、料理得意じゃないけど

え?どういうこと?と、ちょっと

混乱してしまっていると


ご飯はこれから炊くと時間がかかるし

パスタがメインでいいかな?

と、ぶつぶつ、囁いてる


青は苦手なものある?

と、ニコニコしながら、私に訊ねる

香菜は嫌い?肉は鳥と豚、どっちが好き?


私は混乱する頭でうんうん、と

なんとか答えていたけれど

くろちゃんは真剣に、

アボカドとにらめっこしてて

私の話なんて全然聞いていなかった。


両手一杯に食材を買い込み

ビールは仕事の前は飲めないけど

帰ったら眠る前に一人で

ちょっと飲んでもいいかな?

と、私に同意を求めるくろちゃん

私は相変わらず、うんうん、と

うなずきながら、取り合えず

発泡酒にするかビールにするか

ワインは赤か、白かなんて

ちょっと揉めたりして

あぁ、なんだか、とっても楽しい時間を

うっかり、過ごしてしまった自分に気付いて、

ちょっと、落ち込んでしまった。


くろちゃんの部屋は、商店街を抜けて

10分くらいの細い道をくねくね曲がった先の、どこにでもあるような

アパートで、一階の奥から2番目

両サイドの部屋は学生が帰省中で

夏休みはとても静かだ、と教えてくれた。

私はここから一人では絶対に帰れないだろうな

とか、この先、こんなところへ

一人で来れるんだろうか?

とか、変なことを考えていて

なんで、そんなこと考えてるんだ?

と、急に可笑しくなって

一人でクスクスと、声をだして

笑ってしまった。


くろちゃんが、玄関のドアを開けながら

青はビックリ箱みたいで

急に笑ったり、泣いたりするから

見ていて本当に飽きない

とかなんとかいって、笑いながら

私を部屋に招き入れる

こういうとき、何で笑ってるの?とか

どうしたの?とか、聞かないので

私は凄く、気が楽になる。

いちいち問い詰められるのは

本当に嫌いだったから。

きっと、くろちゃんの穏やかな雰囲気は

そういうところにも現れていて

私をとてもリラックスさせる。


部屋の中は本当にシンプルで

ベッドとテレビくらいしかなくて

すごく、綺麗に片付けられていて

散らかった私の部屋とは大違いだった

もし、仮に今日、私の部屋にきたい

と言われたら絶対にNOと、答えただろう


それに比べて、キッチンは

独り暮らしにしては立派なテーブルと

狭いシンクには、私の見たことのない

調理器具が溢れていた。


くろちゃんは、手早く手を洗うと

棚からピカピカに光るグラスを取りだし、

買ったばかりのビールを

凄く綺麗な泡をたてて、丁寧に注いでくれる

それを私に手渡すと、ちょっと待ってて

と言って、テキパキと、食材を

処理し始めた。


私はただ、ポカーンと、座ったまま

魔法のような手捌きで

料理を仕上げていく、指先を眺めていた。


昔からあるような、パン屋さんで買った

小ぶりのバゲットを薄くスライスして

トースターに放り込む


玉ねぎをすりおろすと、ビニール袋に

鶏肉といっしょに放り込み

冷蔵庫にしまうと同時に

色とりどりの野菜が入った瓶を取り出すと

透明な器に綺麗に並べて

手作りのピクルス、僕の好みで

唐辛子が多目だから、ちょっとピリッと

するけど、待ってるあいだに摘まんでて

と、私の前に差し出す

黄色と赤のパプリカ、一口大のカリフラワー

小さなかわいらしい玉ねぎに

お店で見かけるような銀色のピンが刺さってる。


小さめのニンニクを包丁の背ですりつぶすと

トマトと玉ねぎ、香菜を荒くきざみ、

よくわからないスパイス数種類を、

カッターのついた容器に

放り込んでくるくると回す

アボカドを荒くつぶしたものと

あわせて、レモンを絞り

スプーンで軽く混ぜ合わせると

トースターから出したばかりの

カリカリに焼いた

バゲットにたっぷり盛り付ける。


深めのフライパンにオリーブオイルと

ニンニクを放り込むと

香りが出てくるまで炒めて

アサリと、白ワインをいれて

見たことのないほど細いパスタを

バサッと半分に折って

アサリの上にぱらぱらと被せると

水もいれずに蓋をしてしまった。

くろちゃんの料理は最後になんでも

放り込んでしまうけど

とにかく、手際よくて

部屋中に美味しそうな匂いが充満してきた。


緑色のディップをのせた

バゲットを白いお皿に

器用に並べると、私の前に

音もたてずに置いて

首をちょっと、かしげて私を眺めていたけれど

くろちゃんは、あっけにとられる

私の口の前にバゲットをつまんで


はい、あーん


と、いって言われるがままに開いた

私の口の中にそれを放り込んだ。

私の口はフライパンじゃないのに

と思いながら一口かじると

練っとりとした、アボカドのペーストが

思った以上にあっさりとしていて

さくっとしたパンととても良くあう。


美味しい?


と、一言いって、口をもぐもぐしながら

首をブンブンと縦にふる私を嬉しそうに

眺めながら、あっそうだ、といって

冷蔵庫から取り出した鶏肉を

また、レンジに放り込む。


パスタのフライパンがコトコトいって

白い湯気をあげはじめると、しばらく

じっと、様子を眺めてふたを開けスプーンで

スープをすくって味見する

うんうん、と、頷いて

もう一回、スプーンとを中に差し込むと

ふうふうと、息を吹きかけ

また、私の口の前に差し出す

一口のむと、白ワインの酸味が少し残る

アサリの出汁がでたスープは、

こんな数分で煮込んだとは

思えないほど、美味しかった。

ボール形のお皿に綺麗に盛り付けると

絶対に家庭では見ないような

大きなスプーンとフォークをそえて

小皿を並べる。


ちょっと、順番を間違えたかな

先に食べてて、といって

レンジから取り出したお肉を薄く切ると

パスタを取り出したままのフライパンに

並べて、軽く焼き目をつける。


青、パスタが伸びちゃう


と、言われたので、スプーンとフォークを

カチャカチャ言わせて

取り分けていると、


スープは残しておいてね


と、いってまた、調理に集中してしまう。

素麺みたいに細いパスタは

コシがあって、ニンニクの香りと

アサリの出汁をたっぷりと

吸い込んでいて、スープに漬かったアサリも

酒蒸しとはちょっと違いぷりっとしてて

どれも、本当にきれいで美味しくて

ピクルスも売ってるものとは違い

優しい酸味と唐辛子が、効いていて

ビールがすすんでしまう。


スティック状に切った野菜と

擦った玉ねぎのソースのかかった

薄くスライスした鶏肉のお皿を

テーブルに置くと

ようやく、くろちゃんも席に落ち着いた。

鶏肉に野菜とソースを巻いて食べてみて

といって、くるくるとお肉を巻くと

また、私の前に差し出す

一口食べると、鶏肉がびっくりするくらい

柔らかくて、玉ねぎのソースも甘くて

いくらでも食べれそうな気がしてしまう。


くろちゃんは、魔法使いなの?


全ての料理を仕上げるのに30分もかかってない


魔法使いじゃないけど料理は得意かな


と、惚けた事をいいながら

椅子をコトコト動かして私の隣に移動すると


青、あんまり食べないね、と言って

自分でも料理をつまみながら

つぎつぎと私の口に料理を放り込んでいく


食事なんて、普段は空腹を満たすだけで

あまり、興味のない私は

食べることがこんなに素敵な事だったなんて

すっかり忘れていた。

高校を卒業して、叔父の会社に勤めはじめると

叔父の家を出て、ちいさなアパートを借りた。

みんな、反対したけど、使い道のない

貰いすぎのお給料をもてあまし

なにより、一日中、叔父夫婦と顔をあわせる

のが息苦しくて、毎日の食卓も

決して楽しいものではなく

根掘り葉掘り、学校での出来事など聞かれるのが苦痛で、いつも、逃げるように食事を

切り上げていた。

一人暮らしはとても気楽だった。

決して悪い人たちではないのだけれど

いつも、監視されてるような

そんな生活には耐えられなかった。

食べることに全く興味のなかった私は

どんどん痩せていき、心配した叔母が

家で食事をしていけとうるさく言うので

とりあえず、カロリー優先の食事を

とることくらいしか、私には関心もなかった。


そんなことを、ポツリポツリと話ていたら

無理に話さなくていいよ、と言って

ポンポンと頭をなでてくれた。


なんだか、せっかくの料理なのに

味わうことを忘れてしまっていたことに

気づいたときには、テーブルの料理も

あらかた、片付いていて


これ、私が食べたの?


と、くろちゃんに聞くと、

青は話しながら、僕の差し出したもの

全部たいらげちゃった、と

笑いながらいうので、自分がすっかり

お腹一杯になってることに

ようやく、気がついた。


やっぱりくろちゃんは魔法使いだ。

お腹一杯になるなんて

いつ以来だろう。


今度は、青の好きなものを作るね


と、いってくれて、嬉しくて

今日の料理も、最初の一口目の

美味しさが蘇り、急に幸せな気持ちが

込み上げてきた。

そのあと、何も乗っていない

バゲットを、パスタの残りのスープに浸すと

また、私の口にバゲットを放り込んだ

スープのたっぷり染み込んだバゲットは

本当においしくて

凄く、美味しい、といって

ビールを一口飲もうとすると


青ばっかりずるい


といって、飲み込む前のビールを

私の口から奪っていった


凄く、美味しい


といって、玉ねぎとビールの味がする

キスをしてくれた。


私も今日の食事で一番美味しかった。

そんなことを言ったら

きっと、くろちゃんはちょっとがっかりした

ふりをして、恥ずかしそうに笑ったに違いない


そんな事を考えながら

私とくろちゃんは、ほんの束の間

デザートがわりに、

とっても甘いキスをした。

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