第10話:猫は勝敗なんて求めません!
風を切りながら、巨大な拳がスーへと迫る。
少女の青い瞳から大粒の涙が零れて――
「だめだ!」
鈍い
スーが見上げれば、涙で歪んだ視界に大きな物体が入り込んでいた。
「あな……た」
夏梅だ。
夏梅が両手を大きく広げ、スーを守るような形でルナの前に立っていた。
その目と鼻の先には、ゴーレムの拳がある。
「……どうしたの夏梅、パンツでも穿かせにきたの?」
「こんな状況でそんな余裕ないよ!?」
「そうよね……なら、スーちゃんを殺させて?」
「殺す必要なんてない」
獲物を狩る獣の如く目尻を釣り上げたルナに対し、夏梅も負けじと目を尖らせる。
緊迫した空気が流れる中、スーは状況が全く理解できないでいた。
――この人間は私を庇っている? あの黒猫の仲間ではないの?
「どう……して」
「どうもこうもない。戦う必要がないんだ」
掠れ声を上げるスーに、夏梅がはっきりと否定の言葉を告げる。
「この戦いに意味なんてない」
――意味が、ない?
「ふっ、ざけないで……」
意味がないわけがない。
願いをかけた戦いだ。願いを叶えるための戦いだ。
スーにとってこの戦いが最後の希望だったのだ。
「私が、どれだけ……私は……」
力のでない身体から声を絞り出す。
スーのほうへ振り返った夏梅の瞳は、真剣そのものだった。
「ずっと引っ掛かっていたんだ。スーちゃんの言葉にはどこか本音らしさがない。無理に嘘で塗り固めたようにしか思えなかった」
そんなわけないと、スーは首を横に振った。それでも、夏梅は言葉を続ける。
「スーちゃんが人間に捨てられて、人間を憎む気持ちは、わかるなんて言うべきじゃないだろうけど……同情することはできるよ」
分かってもらいたくない。同情なんてしてほしくない。
――そうじゃない。そうじゃない。
「タマの写真を見せた時、スーちゃん笑ってたよね」
――笑ってた? 私が?
スーの心の中に、深淵の海に、不可解な雫が落ちてきた。
「その時思ったんだよ……スーちゃんは人間を憎みたいわけじゃないって」
「なん、で……」
「だってさ、人間の僕らと暮らしてる猫をみて笑ったんだよ? 人間を憎むなら、その人間に飼われている猫をみて笑わないだろうって」
スーの何かが崩れかけていた。
自分の気持ちが正しいものでないと、夏梅の言うとおり『本音』でないと。心の中が囁き始めている。
「本音を聞かせてよ、スーちゃん」
「ほんね……」
「本当はどうしたいのか、僕たち人間にどうしてほしいのか」
動けないスーを、夏梅が優しく起こすと、そっと抱きしめた。
「……っ!?」
スーの中に、感じたこともない温度が広がっていく。
言葉にできない感覚がスーを覆う。
「スーちゃんの本音を、言ってみて」
心の海に、光が差し込む。
――寂しかった。
――切なかった。
――冷たかった。
――孤独で、どうしようもなくて、助けなんてなくて、死ぬのが怖くて、それでも手を伸ばしたくて。
あの時、捨てられた夜に、憎むよりも先に生まれた感情。
蓋をして、なかったことにしていた気持ち。
――私は。
「私は、愛されたい!」
叫んだ。
小さな体から、精一杯、力を振り絞って。
この闘いが始まってから少女はみていた。街を歩く中で、人と共に暮らす猫たちを。
少女は知っている。その猫たちが人間に囲まれて、幸せそうにしていたことを。
「撫でてほしい、愛でてほしい、構ってほしい、抱きしめてほしい、温めてほしい、声をかけてほしい、側にいてほしい、育ててほしい、遊んでほしい、笑わせてほしい――私を見て、私を愛して……」
「僕が、愛してあげるから。ずっと傍にいるから」
「ッ……!」
心の中の黒い海が溢れてくるかのように、スーの視界をぐしゃぐしゃにする。
「毎朝おはようっていって、頭を撫でて」
「撫でてあげる、毛並みだって整えてあげる」
「遊んでくれなきゃ、ヤダ」
「学校が終わったら何時間でも遊べるよ」
「死ぬまで……一緒に」
「最後の一瞬まで傍にいるよ。僕が隣で笑っていてあげる」
「愛して……くれるの?」
「スーちゃんが求めるだけ愛してあげる。人間の愛の重さを舐めちゃいけないよ」
「うぅ、えへっ……へへ」
スーは溢れる涙と共に、小さく笑った。
――温かい。私はこれが欲しかったんだ。願っていたんだ。
スーの小さな世界に夏梅が加わった。
それだけで、スーの世界は果てが見えなくなるほど広がっていく。
近くにあるけど簡単に見つからない――幸せ。
抱きしめられて、スーの心は満たされていく。
「なぁにこれえ」
抱きしめあう夏梅とスーの後ろで、ルナが大きくため息を吐いた。
それと同時に、ゴーレムが大きな音を立て崩れていく。
「終わったみたいだね」
ルナが、瓦礫へと戻った塊の上から地面に着地すると、すぐ傍に女神がいた。
「完全に二人の世界。ルナなんか置いてきぼりよ」
女神を見て、ルナが肩を竦める。
「もう少しで勝てたのに」
「ヒロインの座は完全敗北だね」
「最初に夏梅を見つけたのはルナなのにね」
二人がそんな会話をしている間も、スーは夏梅の腕の中で泣き続けた。
スーが鼻を啜り落ち着いたところで、女神が咳払いを一つ。
「さて、勝敗は決していないが、スーはどうする?」
女神がスーに問う。
スーは自身を抱きしめてくれた夏梅の手の甲をゆっくりと撫でてから答えた。
「……棄権します。この戦いから。人を憎む、無意味な願いから」
「九生を得ることになってもいいのかい?」
「はい……」
その声は、どことなく嬉々としていた。
「大丈夫、僕がいます」
夏梅が真剣な表情で答える。
「承知した」
そして、女神が慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「それでは、この戦いの勝者に改めて願いを問おう」
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