第02話:猫は後先なんて考えません!

 空中を舞う牛乳、風に靡くカーテン、窓からみえる鳥。それらすべてから、動きが失われていた。


「なに……これ」

「ね、止まったでしょ」


 目の前で静止する牛乳を見つめ、夏梅は困惑したような顔を浮かべる。


 何が起きたのかすぐに理解できない。現実でこんなことは起こり得るはずがない。


 なら、目の前にある状況は何だというのか。


 ――これが、ルナちゃんの言う『違う世界』?


「外に出ましょ」


 ルナが動き出すと、そこに黒いもやが生まれた。夏梅がルナについていこうと立ち上がると、座っていた場所にも黒い靄が現れる。


「この靄は……?」

「この世界から出ていくときに、そこに戻るのよ」


 夏梅がその靄に触れてみるが、害はないらしい。


 まるで、世界が青色になる直前の、夏梅たちの居場所を示しているようだった。


(つまり、現実世界の時間は動いていない……)


 現実に戻ったとき、靄がある場所に戻されるということだろうか。


 夏梅がそんなことを考えている間に、ルナが動きの止まっているカーテンを砕いた。文字通り粉々に。


 夏梅が欠片を拾い上げる。ルナの様に握りつぶそうとしてみるが壊れる様子はない。ルナの握力が異常なのだろうか。


 二人でベランダへ出ると、無音の世界が広がっていた。


 人の気配など一切ない。


 夏梅の住むマンションは駅の近くにある。そこそこ大きな駅だから、周辺には高層ビルが立ち並んでいる。もちろん、そこに集まる人の数も並ではない。


 しかし、十階のベランダからみた景色に、人だけが存在していない。夏梅が見下ろせば、路上で止まった車や、乗り手のいない自転車の群れがあった。


「静かだ……」

「みんなが止まった世界。だからこそ暴れまわれるのよ」


 何にも縛られない自由な世界。一種の楽園と呼べるかもしれない。


 しかし、ルナの言うことを信じれば――否、もう信じるしかない状況にある。


 ここが猫の戦場だ。


 それを諭すかのように、夏梅たちの視線に人影が入り込んできた。


 マンションの真正面に立つビル。その屋上に、灰色のパーカーで全身を覆う小さな少女がいた。


 小学生くらいにみえる少女。セミロングの髪はクリーム色で、そのてっぺんには――猫耳。左耳が垂れた特徴的な形をしている。


「スーちゃん!?」


 ルナが身構える。スーと呼ばれた猫耳の少女も青い瞳で夏梅たちを見据えていた。


 いや、夏梅をじっと、親のかたきとでも言いたげな表情で。


 明らかな殺意に、夏梅の額から汗が滲む。


 現代社会で殺意を感じることなど早々にない。自分はネズミになってしまったのだと、頭の片隅で思うのが精いっぱいだった。


 そうした状態のまま、スーのほうが口を開いた。


「……どうして人間がいるんですか?」

「ルナが連れてきたのよ、悪い?」

「この闘いに人間は関係ありません」

「夏梅はルナを助けてくれたのよ」

「助けて……?」


 スーの瞳が、汚物でもみるかのように細められる。


「そんなの――偽善ですっ」

「ッ!?」


 言葉を発すると同時に、スーがビルを思い切り蹴った。スーが夏梅たちとの距離を縮める後ろでビルがひとつ崩壊していく。


 ――ヤバイ!


 夏梅がそう思ったときには、すでに視界が空一色に染まっていた。


 いや、身体が空中に浮いている。


 ルナが夏梅を抱えて別のビルに飛び移っていた。


 静かな世界に崩壊音が響く。突撃したスーが、夏梅の住むマンションを破壊していた。


 抱えられたままの夏梅は、開いた口が塞がらないでいる。部屋が無くなったことも気になるが、それよりも、


「あの子は……自滅?」

「そんなわけないでしょ」


 すぐさま、マンションのあった場所から瓦礫が飛んできていた。


 ルナがまたも高く飛び上がる。絶え間なく飛んでくる瓦礫を軽々と避けていく。


「スーちゃん、明らかに夏梅を狙っているわね……」


 ルナがぽつりと呟く。


「あんまり距離はとりたくないんだけどっ!」


 夏梅を抱えたルナが、ビルの屋上を転々とする。スーがいるであろう夏梅のマンションから遠ざかっていく。


 ある程度まで離れた給水塔に着地し、夏梅もルナの腕から解放された。


 いきなりのことで動けなかった夏梅は、身体を硬直させたまま膝をつく。


「あ、ありがとう」

「巻き込んでいるのはルナだもの」

「でも、元は僕が……って、怪我してるじゃないか!」

「あらら、服もボロボロね」


 そこには、瓦礫をかすめたのか、ワイシャツと肌の所々に切り傷を作ったルナがいた。


 怪我を放っておくわけにいかないと夏梅が立ち上がった時――屋上に翳りが生まれた。


「上ね」


 ルナの言葉で空を見上げ、夏梅は言葉を失った。


 翳りの原因――上空にビルの群れ。


 三階建ての小さなものから何十階とあろう高層ビルまで、数える暇もなく空を覆いつくしていた。


 どこから湧いてきたのか。そんなのは決まっている。


「投げ飛ばしたっていうのか!?」

「スーちゃんの怪力なら余裕でしょうね」


 建物を破壊するほどの突進。瓦礫を何十個も投げ飛ばすパワー、仕舞いには上空を覆うビルの群れ。


 相手は圧倒的な馬鹿力を持っている!


「あんなの避けきれるわけがない!」

「うーん」


 夏梅の叫びを聞いて、ルナが眉間に皺を寄せる。


 夏梅を抱えて避け切るのは難しいと判断したのだろう。


「夏梅、ごめんね」

「えっ――」


 何が、と夏梅が問いかける前に、その身体をルナが抱えあげる。


 そのまま両腕を大きく振りかぶり


「でぇやああああああああああ!!」


 夏梅を真横へと投げ飛ばした。


「うえええええええええ!?」


 いきなりのことに叫ぶしかない夏梅。しかし、投げ飛ばされた理由はすぐに察しがついた。


 微笑みながらも動かないルナ。そこに向かって落ちていくビル。


 逃げ切れない状況で、それでも夏梅だけを逃がしたのだ。


「る、ルナちゃあああああああ!!」


 夏梅が最後にみた光景は、衝突し崩壊するビルに飲み込まれるルナの姿。













 ――――ではなく。


「にゃああああああ!?」


 部屋の天井。聞こえてきたのはルナの叫び声だった。


「る、ルナちゃん!?」


 夏梅が身体を起こすと、センターテーブルの向こう側にルナがいた。先ほどまでボロボロだったシャツは破れておらず、傷なども見当たらない。


 ただ違う点を挙げるならば――牛乳にまみれていることだろうか。


「にゃあん、べとべとぉ」

「よ、よかった、無事だったんだねルナちゃん!」

「全然無事じゃないわよぉ!」


 ホッと息を吐く夏梅とは対照的に、涙を浮かべながら声を荒げる猫耳少女であった。

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