旅立ちの日4
フラデニアの港は大勢の人でごった返していた。
アルメート大陸行きの大型客船が出航するからだ。
あたりは別れを惜しむ人、荷物を運びいれる人、物を売る人などであふれている。
雲ひとつない晴天で、旅立ちの日ぴったりな空だなと思った。
ダイラは休暇を取って母を見送りに来た。道中母の実家に初めて連れて行かれた。初めて祖父に会った。祖父は二十年ぶりに姿を見せたカテリーナに驚き、娘そっくりの孫にさらに驚き、ついでにこれから移住してきます、と宣言をした娘の爆弾発言に腰を抜かしそうになった。隣でお嬢さんは私が今度こそ幸せにします、と大きく宣言をしたアウグストに目をやって口をパクパクとさせて、呼吸ができなくなったのかそのまま倒れた。同居するカテリーナの弟があわててやってきて、どうにか引きずって部屋へと運び入れたくらいだった。
久しぶりに再会をした父は未練たっぷりにダイラも一緒に来ないかと口説き落とそうとしたがダイラはやんわりと断った。
五年前ならダイラもきっと、迷った末に移住をする決心をしたかもしれない。
けれど、今は。
アルンレイヒに大切なものができすぎた。
わたしの居場所は、アルンレイヒだから。それがダイラの素直な気持ちだ。
それでもこれで母と別れとなると、普段は塩のダイラと宮殿でこっそり揶揄されているダイラの胸の内にも込み上げてくるものがあるわけで。ダイラは名残惜しそうにカテリーナの手を握っている。
今港に停泊している船はフラデニアの先にある半島といくつかの島を有するインデルク王国の港町を経由してアルメート大陸へと向かう。
これに乗って二人は遠い国へと渡ってしまう。
二人の持っている切符は二等客室のものだ。アウグストは公国の継承権を放棄する代わりにいくらかの恩給と彼の家に伝わっているいくつかの財産を受け取ったと聞いている。国宝級の品々はアウスバーグ王室に接収をされ、そのほかの品々を親族で形見分けをしたとのことだった。
恩給は彼が死ぬまで支払われるという。質素に暮らせば生活には困らない額だと聞いている。今後上流階級の人間とかかわるつもりがない、ときっぱりと言ったアウグストは二等客室を予約した。
アウグストとカテリーナの傍らにはリカロがいる。
彼だけは頑としてアウグストから離れることを固辞したらしい。結局彼も一緒についてくることになった。
「そろそろ、時間だから」
カテリーナが名残惜しそうにつぶやいた。
今日のカテリーナはオートリエからもらった上着を身につけ、帽子と手袋をしている。中間階級の奥様といったいでたちをしている。華美ではない上着はオートリエがお忍びで支援先の学校などを訪問するのに使っていたものだった。
「うん」
ダイラはカテリーナから離れた。
乗客が次々に船へと吸い込まれていく。
わかっている。
これが永遠の別れではないことくらい。それでも……。
やっぱりアルメート大陸は遠い。
「これからは私がきみに代わってカテリーナを守っていくと約束するよ」
アウグストはダイラの目をみて大きくうなずいた。
「よろしくたのみます。ずっと仕事をしてきた厳しい母ですが、末永くよろしくお願いします。……お父さん」
「ダイラ……」
この旅でダイラは今初めてアウグストのことを父と呼んだ。
アウグストはダイラを抱きしめた。
抱きしめられたのはこれで二度目だった。
アウグストとの抱擁のあとはカテリーナと抱き合った。
別れの時が近づいてきている。
リカロは三人から少し離れたところで見守っている。
やがて体を離したダイラとカテリーナはどちらともなく小さく笑った。
「いってきます」
「いってらっしゃい。お母さん。元気で」
「あなたも、元気でね。変な意地……張らないのよ」
最後はそんなことを言われた。
船の中に吸い込まれていった三人をダイラはいつまでも見送った。
気をつけて。
いってらっしゃい。
「ダイラちゃん!」
船が出航する間際。
耳になじんだ声が飛び込んできて、ダイラは後ろから抱きしめられた。
「あなた……どうして……?」
彼には何も言わなかったのに。
「行くなって言おうと思って。追いかけてきた。俺のエゴでも何でもいい。ダイラちゃん俺のそばにいてって言いたくて追いかけた」
ぎゅっとたくましい腕に包まれたダイラは身動きができなくなる。近衛隊の制服を着ているとわからないけれど、カルロスの体はたくましい。彼から抱きしめられてダイラはそんなどうでもいいことを感じた。
「わたしは行かないわ。五年前ならわからなかったけど」
「ええぇっ? そうなの? 五年前なら移住してたの?」
カルロスはあわててダイラの前に回り込んで、紫色の瞳をのぞきこんできた。
「そうね」
「ちょっと待って。そうしたら俺たち出会わなかったじゃないか。それは困る! 俺一生結婚できない」
青い瞳を困惑させるカルロスが少しだけおかしく感じてダイラは横を向いた。
「そもそも出会わないのだから、あなたは違う誰かと結婚をしていたんじゃないの?」
「ダイラ……」
絶句をしたカルロスにダイラは、いまのはかわいくなかったかもと反省した。
「今だってわたしはあなたと結婚するなんて一言も言っていないし」
それでも言葉が出てくるのだからダイラの塩対応は筋金入りだ。好きな男にまで冷たい対応をしてしまう。
「そう! それ。口づけだって許してくれた仲なのにどうしてそこで待ったをかけるかな」
カルロスは途方にくれた声を出した。
「うるさい。船が出航するのに、あなたが隣にいるとしんみりできない」
ダイラは隣の男を無視することにした。
船が大きな音を出した。
ボォォォーという音があたりに響き渡る。一等客らが見送りに来た人間たちに手を振っている。
あの中に両親はいないけれど、二人もきっと同じ音を聞いているのだろう。
やがて船がゆっくりと動き始めた。
ついに。行ってしまう。ダイラを育ててくれた母が。
いなくなってしまう。
わたしはひとりきりになってしまった。
「お母さん……」
ダイラは誰にでもなくつぶやいた。
さみしい。
本当は……本当は……。
知らずに涙が流れる。
「お母さん!」
ダイラは今度は大きな声を出した。
船はダイラの感傷などお構いなしに速度を出していく。
涙はとどまることを知らずにあふれ出てくる。
母に抱きあげられたことが昨日のように思いだされる。お茶の入れ方を教えてくれた母。ドレスの手入れの方法を楽しそうに伝授してくれた。ダイラがうまくできると頭をなでてくれた。上級学校の成績表を見せたら『あなたって本当に頭がいいのね』と喜んでくれた。初めて下宿屋に一人で引っ越ししした日。夜ひとりぼっちがさみしくてさみしくて。何度も母からの手紙を読んだ。それだって同じ街にいたのに。これからは違う。遠いところに行ってしまう。独り立ちしたから大丈夫だなんて見栄を張って。
「う……」
涙が止まらない。
母が大好きだった。
「俺がいるから」
いつの間にかカルロスに手を握られていた。
「これからは俺がずっとそばにいる。俺がきみを支えるし、ダイラの力になりたい。きみをずっと大切にする。家族になろう? 結婚しよう、ダイラ」
ダイラは涙を流しながら、こくんとうなずいた。
「ほんとうに……? ダイラ結婚してくれるの?」
となりで信じられない、といった声を出すカルロスにダイラはあわてて彼を見上げた。
「ちょっと。何言っているのよ?」
結婚なんて不穏な言葉にダイラはあわてた。正直なところ、カルロスの言葉はほぼ耳に入ってきておらず、適当に相槌を打っただけだった。
「や、だって今。今俺の求婚のあとにうなずいたじゃないか」
その言葉にダイラはあわてた。
え、あれ求婚していたの。ダイラは彼のここ一番の言葉にうなずいてしまったらしい。
「あなたの言葉なんて、この忙しいときに聞いているわけないでしょう」
「いいや。絶対に耳に届いていた。だって、俺の声だよ?」
「なにその、わけのわからない自信!」
「とにかく、ダイラはもう俺の求婚に返事したも同然なんだから潔く俺のお嫁さんになること!」
せっかくの母の旅立ちの余韻もどこへやら。
ダイラはカルロスのことを思い切り睨みつけた。
「あなたとなんて、絶対に結婚しないわよ!」
と啖呵を切ったのに、外堀を完全に埋められてダイラがカルロスに屈したのはそう遠くない日の出来事だった。
ファレンスト家の養女となり、カルロスが彼女との結婚の報告をベルナルドにすれば王太子は彼にダイラの出生について公言しないことを条件に仔細を伝えることとなる。
カテリーナとアウグストが旅立って、その年が明けた頃のことである。
また新しい季節がめぐってくる。
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