旅立ちの日3

「お母さん。これあげるわ」

「なあに?」


 娘が差し出してきたのは紙の束だった。カテリーナは差し出された束を受け取ってぱらぱらとめくった。

 そこにはダイラが書いた精緻な文字の羅列。読むと、アルメート共和国の主だった都市の名前と名産品や社会制度などが書かれている。


「これは……?」

「ちょっと暇だったから調べたの。法律とか制度とか風習とか。ちょっと、時間があったのよ」


 ダイラはいつもの調子で淡々としゃべった。

 カテリーナは顔をくしゃりとゆがめた。

 この娘は昔から敏い。カテリーナの心の機微を読んで先回りをする。


「大きな大陸だから気候は地域によってだいぶ違うみたい。もちろん王様のいる国だってあるし」


 カテリーナはダイラの書いた文字を目で追う。この街にはアルンレイヒ人が比較的多く住んでいるとか、原住民との軋轢が近年社会問題化しているから、これこれの地域は移住先としないこと、など細かい。


「あなた、ね。わたしまだ行くなんて一言も」

 カテリーナは熱いものがこみあげてきて、それを必死でおさえた。

「だから、暇だったのよ」

「あなた、そんなにお母さんを追い出したいの?」

「そんなことはない」

「だったら……」

「ただ、わたしがいるからお母さんが迷っているなら背中を押してあげないとと思ったから」


 カテリーナは目を見開いた。

 それは、ダイラとカテリーナが決別をするという意味も同じだった。

 カテリーナは目に涙を浮かべた。

 こみあげてくる涙を抑えることができない。


「わたしのことは心配しないで。もう十分育ててもらったし。お母さんは自分のしたいことをすればいいと思う」

「ダイラ……」

「一緒に行きたいんでしょう。わたし……わかるから……」


 ダイラはぽつりとつぶやいた。

 わかるって、何をだろう。そんなことをぼんやり考えるけれど、カテリーナだってわかっている。

 好きな人のそばにいたい。


 そういう想いを娘も誰かに感じるようになったのだろう。長い時間だった。生んだ赤ん坊がいつの間にかこんなにも大きくなった。一人で大きくなったかのように母を諭してくる。

 カテリーナは涙をぬぐった。


「なによ、ちょっと前まで。ちょっと前まで、わたしは結婚なんてしないわとかそっけなかったくせに」

「それは今も同じ。わたしは結婚はしない」

 ダイラはぷいっと横を向いた。

 カテリーナは涙を引っ込めた。


「しないの?」

 つい確認してしまう。ダイラが王宮勤めの近衛騎士と想いを通わせているという話はもちろんカテリーナの耳にも入ってきている。二年くらい前にカフェであいさつを交わした金髪の青年だということも知っている。


「身分が違うから……。一緒に働けるだけでいいのよ」


 ダイラが少しだけ頬を赤くして気持ちを吐露すればカテリーナの胸中は少しざわついた。

 この親にしてこの娘まで面倒な相手を好きになったものだ。伯爵家の次男とはまた微妙にややこしいお相手だ。


「あなた……、親を安心させたいのかさせたくないのか。よくわからない子ね」

 カテリーナは呆れてしまった。

 娘が独り身宣言をしたら心配で心残りができてしまうではないか。


「わたしは仕事にもついているし寝るところだってあるもの。そういう意味ではお母さんはわたしのこと、安心してくれていいと思う」

 なるほど。ダイラらしい理屈だと思った。




 愛する人と残りの人生を歩む。

 語学も生活の不安もたくさんあるけれど。わたしはアウグストのことを愛している。


 もうずっと、一緒になるのはだめだと思っていた。

 それなのに。


 さんざん巡り巡って運命がカテリーナへとやってきた。

 好きか嫌いか。そんなこと聞かれたら答えなんて一つだけだった。

 今度こそあなたに寄り添いたい。それが彼女の本心だった。

 カテリーナの意思とは別の何かに操られるように、彼女は強い衝動に突き動かされた。


 そして。

 カテリーナがアルンレイヒを出発する数日前。


 アウグストが迎えにきた。

 待ち合わせはフラデニアの港だったのに、彼は最後の説得に来たらしくふらりとパニアグア侯爵家を訪れた。なんの身分も持たない、アウグストが目の前に現れると我慢が出来なかった。カテリーナは周りの目を気にする余裕もなく彼の腕の中に飛び込んだ。ずっと、ずっと焦がれていた腕だった。


 カテリーナはオートリエからいくつかの選別をもらった。

 彼女が着なくなった旅行着や上着、日傘に手袋、ブローチなどなど。かばんに詰めたのは身の回りの物すべてオートリエの私物だった。雇い主は長年仕えてくれた侍女が職場を離れるとき、自分の持ち物を譲ることがあるのだ。彼女なりの想いが詰まった品物でカテリーナの旅行かばんはぱんぱんになった。


 カテリーナが屋敷を離れるとき、二人は長い抱擁を交わした。どちらともなく涙を流して、鼻をすする音が聞こえてくる。

 オートリエに仕えて二十年以上が経っていた。


「あなたと過ごした日々楽しかったわ。わたくしとてもうれしかったのよ。あなたがアルンレイヒについてきてくれて。わたくし一人じゃなかったから耐えられた。あなたがいなかったら、わたくしきっとフラデニアに逃げかえっていたかもしれないわ」

「お嬢様……」


 涙を流すオートリエにカテリーナは懐かしい呼び方をした。

 ずっと昔はお嬢様と呼んでいた。それが結婚をして奥様になった。オートリエ様。

 カテリーナの大好きなお嬢様。それは今でも変わらない。カテリーナにとって生涯の仕えるべき相手で、信頼できる大好きな人。


「あなたにあげたいくつかの品、どうしても生活に困ったら売ってしまいなさい。あの人、いままでずっと苦労知らずで育ったお坊ちゃんだもの。絶対に怪しい壺などを買ってくるに決まっているわ。そういうときはあなたがしっかり返却するのよ。あと、変な人に騙されないようにカテリーナ、あなたがしっかり張り付かないとだめよ」

「はい。お嬢様。わたしがしっかりあの人の面倒をみます」


 オートリエはカテリーナに真珠の首飾りをくれた。

 最初は分不相応だと突っぱねたが、オートリエに勝てるはずもなく結局かばんの奥底に入れられた。

 なるほど、高価すぎる選別にはそういう意図もあったようだ。

 大丈夫。壺を買わされそうになったらカテリーナがしっかりと反対するから。伊達に侯爵家の侍女を長年務めていないのだ。この家で戦ってきた日々の成果を見せてあげようではないか。


「手紙書いてね。大陸間だって今じゃ郵便も届く時代なんだから」

「はい。必ず書きます」

「それと、ダイラのことは心配しないで。わたくしがしっかり後見を務めますから」


「何から何までありがとうございます」

 カテリーナは再度頭を下げた。

 オートリエはかぶりを振った。


「あの子はわたくしにとってももう一人の娘も同じですからね。大丈夫よ。安心してちょうだい」


 出発前オートリエはカテリーナにある相談をした。

 ダイラをファレンスト家の、自分の両親の養子にしたい、と。さすがにパニアグア侯爵家の養子にすることはできないがファレンスト家の養子にするなら問題はない。そうすれば多少は当たりは弱くなるだろう、と。


 カテリーナは感謝してもし足りない。

 娘のことだけが唯一の気がかりだった。

 娘を残して行く後ろめたさ。ダイラは気にするなとは言うけれど。それでも。


「大丈夫。あの子は強い子だわ。お互い、それぞれの人生を歩む時よ」

「ありがとうございます」


 カテリーナは鞄を持ち上げた。

 長い間お世話になった屋敷にさよならを告げる。

 使用人用の勝手口ではなく、正面の入口から大勢の人たちに見送られた。

 オートリエの横には彼女の夫である侯爵もいる。カテリーナがやってきたときには執事だった男は今はもう侯爵家の家令を務めている。台所番のハンス夫人とは戦友だった。従僕たちや御者などなど。


 ミネーレも涙を浮かべて見送ってくれた。

 過ごした期間は短くて、あまりお互いのことを知る時間もなかったけれど。それでも大事な同僚だ。


 カテリーナは笑顔を作ってみんなに手を振った。

 さようなら。

 まぎれもなく、ここはカテリーナにとって第二の故郷とも言える場所だった。

 第二の青春の詰まった場所。

 いつか、いつかまた。

 さようなら。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る