ダイラと失くした思い出11
「あ、そう。だったらまずはこの女から死んでもらうか」
ヴァレリアはまるで今日の夕飯の献立が魚であることを確認するのと同じような声をだした。
人の命などなんとも思っていない口調だった。
ここで死ぬのか。
ダイラは目をぎゅっと閉じた。
ここ数日でダイラの身の上に起こったことがにわかには信じられなくて、人生最後の時はこれまでの半生が走馬灯のように脳裏によみがえると聞いていたのにダイラの頭に浮かんだのはよりにもよってカルロスの笑った顔だった。
いや違うだろう、と自分で突っ込みを入れて目を見開いた。
と、そのとき。
もう一度銃声が響いた。進路方向に立ちふさがっているアウグストとリカロが撃ったのではない。
森の中から、誰か別の人間が撃ったのだ。
「っつ……」
続いて銃声が響く。立て続けに数発。
数発のうちの一発がヴァレリアの拳銃にあたり、彼の手から銃を弾き飛ばした。
大きな音にダイラは再び目を閉じた。
「貴様……」
ヴァレリアが忌々しげに声を絞り出す。
「さすがにきみと対峙するのに二人きりなわけがないだろう。私だってそこまで愚かじゃない」
「ちっ。貴様ごときに後れを取ろうとはな。まずはゲルニー公国から火祭りにあげてやる!」
ダイラと同乗していた男も腕を撃たれた。その拍子にダイラが振り落とされた。
馬に踏まれれば最悪死ぬかもしれない。手足を縛られていては自分で逃げることもかなわない。
(や……)
ダイラはその直後ものすごい勢いで引きずられた。
今後は小麦袋をもっと丁寧に扱おうと、この状況下でどうでもいいことを頭の隅で考えた。いつも適当に扱っててごめん。地面引きずられると痛い。
引きずられた先には城で何度か目撃したことのあるアウグストの従者の顔があった。彼はそのままダイラの拘束を解こうとしてくれる。
「いたずらに内戦を起こせば倒されるのはザイエンのほうだよ。今ここできみのことを殺してもいいんだけど。さすがにそれをするとアルンレイヒ側にも迷惑をかけるからね。やめておくよ。お忍びで碌な手数もいないくせにおいたが過ぎるんだよ」
アウグストはヴァレリアの啖呵をあっさりと聞き流して、淡白な口調で言いつのる。
ヴァレリアはあたりを見渡した。うっすらと見える灯りは徐々に近づいてきている。
「ふんっ。覚えておけよ」
ヴァレリアは陳腐な捨て台詞をはいて馬の腹を蹴った。
従者のほうも撃たれた腕をかばいながら馬を走らせた。
馬の音が遠ざかっていく。
蹄の音が遠ざかっていく。ダイラは手足の縄も解いてもらった。
「ごめんねダイラ嬢。私事に巻き込んでしまって申し訳ない」
ダイラは数時間ぶりに自由になった手足をぎこちなく動かした。ずっときつく縛られていて、おまけに馬に乗せられていたせいもありうまく動かない。
「……痛い」
ようやく出てきた言葉は身体の痛みを訴える単語だった。
「彼は昔から困ったチャンでね。要するに皇帝の座がほしいだけなんだけど、好戦的すぎるのが玉にきずなんだ」
アウグストはダイラの身体の具合を見聞しつつぽつりぽつりと語りだす。
馬から落ちたダイラはしたたかに身体を打ちつけた。
アウグスト自らがダイラのことを抱えて、道の隅に下ろしてくれた。
体が痛いとつぶやいた後、足を動かそうとして頬をひくつかせたのをアウグストが見逃さなかった。自分の上着を敷いた上にダイラを座らせてくれている。公国の公子からそんなふうに丁重に扱われてダイラは身の置き場がない。
「……困ったチャンて。その一言で片付けますか?」
「やんちゃなんだよ。はぁぁぁぁ……もう、面倒くさい」
アウグストが大きくため息をついた。
そのあとにこれまで彼が起こした面倒をいくつか挙げてくれたが、一国の王子が起こす面倒は庶民のダイラの想像を超えていてげんなりした。
「足、捻挫しているね」
アウグストが確認するように患部に触れてきて、ダイラは小さく悲鳴を上げた。それに反応したアウグストはリカロ達従者に「おまえたちは向こうを向いていろ」と命令をした。
「一応私も医学の心得……というか怪我の対処については知識があるから。変な意味じゃないからね。やましくなんてないからね」
アウグストは何度も念を押した。
年上の男性からしきりに謝られるとダイラは困ってしまう。思えばダイラの怪我だってこの男が要らぬ行動を起こしたせいでもあるのに、ダイラは一方的に攻める気にならなかった。疲れすぎてそんな気も起こらないというほうが正しい。
「リカロ、水と布を」
アウグストが命じるとリカロら従者は手早く所望された物を差し出した。
その後従者らは彼の命令に従って離れたとこまで後退した。
アウグストは水の入った革袋と乾いた布を受け取ってからダイラと向き合う。
「そ……それでは……失礼します」
なぜだか上ずった声を出すアウグストに思わず乙女か、と内心突っ込みを入れるダイラである。
「面倒なのでさっさと脱がせてください」
逆にダイラのほうが冷静になる。足の一つや二つで何をいまさら、といった貫禄だ。(本当は未婚の女性が男性に足をさらすのはとんでもないことだが、一時下町で暮らしていたこともあってダイラはその辺だいぶおおらかなのだ)
アウグストは慎重に靴を脱がせた。ダイラが自分で脱いでもいいのだが、全身が痛くて手を前に出すのもつらいのだ。しかも引きずられたし。
ゆっくり丁寧に両足を脱がされた。
痛みがあるのは左足だけなのだが、といぶかしげな視線をアウグストにやれば彼はあわてた様子で「いや、ほら。右も実は捻挫しているかもしれないし。一応大事を取ってね」と言い訳された。
「……それにしても、どうしてわたしがさらわれたってわかったんです?」
沈黙のままなのも気まずくて、ダイラは珍しく自分から会話を振った。
それに不思議だった。
ヴァレリアの行く手を遮るように待ち伏せをしていたアウグストらの行動が。
「リューベルン連邦で暮らしているとね。警戒心を常に持たなければならない。暗殺だって日常さは……んじではないけれど、起こらないことではないから。だから、周辺国の王族の動向にはみんな目を光らせててくれているんだ」
アウグストは説明をしながら水を含ませた布をダイラの左足首に押し当てた。冷たい感触に一瞬だけびくりとする。アウグストがあわてたように「ご、ごめんね。急に」と言ったのでダイラは「いえ」と簡素に答えた。
「それでリカロ達が、ヴァレリアがお忍びでアルンレイヒ入りしていることを掴んできてくれてね。私の寝首をかくならアルンレイヒのほうがいいだろう?」
と同意を促されてもダイラに難しいことはわからない。ダイラは小さく首をかしげた。
それを見たアウグストは自嘲の笑みを浮かべる。
「私のことをアルンレイヒで始末すればザイエン王国にしてみればこの国に攻め込む大義名分を得ることになるし、ゲルニー公国を手に入れることもできるかもしれない」
「でも、あなたと彼は仲良しというわけでは」
「うん。全然仲良しではないねえ。でも、同じリューベニア民族の同胞がアルンレイヒ人に殺されたっていちゃもんをつけることはできる。戦なんて最初に難癖を付けたもの勝ちだ。それに彼民族主義に傾倒しているし」
それについてはダイラも同意を示した。
何か言われた、と聞かれたので「眠っていると思ったわたしの頭上で話しているのを聞きました」と返したら複雑そうな顔をされた。
「ゲルニー公国もね、彼にも継承権があるから」
「はあ……」
系譜などまるで頭に入っていないダイラは生返事をする。
「難しい話だったね。本当にごめんね。きみを巻きこんでしまって。自覚不足だったのは認めるよ。この情勢で自分の娘かも、なんて匂わせたらどうなるかってことくらいちょっと考えればわかることなのに。そんなことが吹き飛ぶくらい、私には衝撃的な出会いだったんだ」
穏やかな声にダイラはどうしていいのかわからなくなる。
「ほんとう……いい迷惑です」
どうにか声を絞り出す。
森の彼方に見えた灯りはずいぶんとこちらに近づいてきている。
「ときに、ダイラの足の指って面白いふうに曲がっているね」
アウグストがまったくどうでもいいことを聞いてきた。
ダイラは自分の足の先を見た。
ダイラの右足の小指は生まれつき曲がっているのだ。
「これですか。生まれつきです」
「怪我をしたとかじゃなくて?」
「はい」
「そうなんだ」
ダイラがきっぱり肯定するとアウグストはほほ笑んだ。
なんだというのだ、気色悪い。
「それがなにか?」
「い、いや。なんでも。ああそうだ。最後にやっぱり気になるんだよ。きみのお父さんについて聞かせてほしいんだ」
「まだあきらめていなかったんですか」
ダイラは呆れ交じりにため息をついた。アウグストはこれまでになく真剣なまなざしをダイラに向けている。まるでこれから世界の終焉の、最後の審判を下されるといっても大げさではないような張りつめた顔だった。
「母から昔一度だけ聞いたことがあります。わたしの父はリューベルン系フラデニア人で名前はジョルシュなんとか、というらしいです。リンゴをあつかっていたとかなんとか。あなたとは何の関係もない商人です」
ダイラは仕方なしにとっておきの秘密の話を披露した。レカルディーナにだって話したことのない、小さなころカテリーナから聞いた父の物語。
これで気が済みましたか? という意味も込めてダイラはアウグストを睨みつけた。
するとアウグストは一瞬だけぽかんとした顔をして、そのあと声を立てて笑いだした。
ダイラはびっくりした。
気でもおかしくなったのか。あんまりにも愉快そうに笑うからダイラはなんて声をかけようかと逡巡する。
「そうか。きみのお父さんの名前はジョルシュって言うんだ……」
「そうだと言っているじゃないですか」
「姓は?」
「それは……。なにぶん小さなころ一度しか聞かなかったので……覚えていません」
ダイラはバツが悪くて小さく言い訳をした。
「……ホッフマン。ジョルシュ・ホッフマンだよ」
唐突にアウグストが口を開いた。
ダイラは目を見開いた。
いたずらっ子のような目をしたアウグストは楽しそうに口を弧の形にしている。
「ホッフマン……」
ダイラは繰り返した。
耳になじむ音だった。小さなころ、ダイラは一度聞いただけじゃ父親の姓までは覚えられなかった。けれど、独特の音の響きだけは耳に残っていた。
「ひとつ、昔話をしようか。昔、一人の公子が街娘に恋をした。彼女はとあるお屋敷の侍女に恋をして、彼女も愛情を返してくれた」
「いまさら何を……」
それは先日聞かされた話ではないか。ダイラの声などお構いなしにアウグストは昔語りを続ける。
「公子も街娘も本当はわかっていた。お互いの身分差が大きく立ちふさがっていることを。だから、公子は夢物語を彼女にした。もしも、自分が公子ではなかったら。たとえばリューベルンからフラデニアに移住をした商人で、故郷からりんごを仕入れて売り歩く。名前はジョルシュ・ホッフマン。そしてきみと出会って恋に落ちた、と。街娘も楽しそうに彼の夢物語を聞いてくれた。そうしたらわたしは彼の扱うりんごをつかってパイを焼こうかしら、なんて冗談めかしてね。彼の好物がりんごのパイだったんだ」
アウグストの話を聞き終わったダイラは茫然とつぶやいた。
「父はりんごのパイが好きだったって……」
りんごのパイ。そう、確かに聞いたことがある。
それはいつかの拍子にカテリーナが漏らした言葉だ。あれはいつの頃のことだろう。気まぐれにカテリーナが料理番の許可をもらって侯爵家でりんごのパイを焼いてくれたことがあった。
レカルディーナとダイラが夢中になって食べていると、カテリーナはうれしそうに漏らした。あなたのお父さんも好物だったのよ、と。
「それとね。私の家系には代々足の小指が曲がった子が多く生まれるんだ。私の足の小指も曲がっているんだ。ごめんね。両足脱がせたのは、それを確認したかったからなんだ」
ダイラはやさしくて申し訳なさそうなアウグストの視線とかち合った。
思考が付いていかない。
母はダイラに真実の一部を話していたのか。昔恋人と話した夢物語の一部をダイラに聞かせたのか。
カテリーナに商人の恋人なんていなかった。最初からずっと一人の男性について話していたのだ。
アウグストはおもむろに自身の靴を脱いで、ダイラは息をのんだ。
現れた足の小指はダイラのそれと同じ形に曲がっていた。
「お……おとうさん、なの?」
決して口にしないと、するものかと思っていたのに。
ダイラは気が付いたらそう呟いていた。
お父さん。これまでダイラの人生の中で登場しなかったもの。
その言葉にアウグストが感極まったようにがばりとダイラのことを抱きしめてきた。
「やっと……、やっと会えたね。私のかわいい娘」
まわされた腕が温かい。
涙声を聞いてダイラは自分の頬に一筋の涙がつたったのを感じた。
この人が、わたしのお父さん。
母は、ずっと一人の人を愛していた。
「ごめんね。やっと再会できたのに、これから私ときみは赤の他人同士だ。娘と認めると大変な目に遭わせてしまうから。……きみはりんご商人の娘で、ゲルニー公国とはなんの関係もない。でも、いまだけ。父親でいさせてほしい」
温かかった。
初めて感じる父親のぬくもりだった。
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