ダイラと失くした思い出10
城内に緊迫した空気を感じる。ようやく夏の長い太陽が地平線の彼方へ消えようかといった時間のことだ。夏の間はろうそくの減りが少なくて助かるのだ。
アウグストは長年の経験で悟った。もとよりリューベルン連邦は常に緊張感の連続だ。昔から権謀には事欠かなかった。
それはアウグストの身の回りの人間も同じことだった。
「アウグスト様。どうやらザイエン王家のヴァレリア殿下がアルンレイヒ側に入り込んでいるようです」
アウグストに耳打ちをしてきたのはアウグストの従者の中でも最古参の人間、リカロだ。
彼とはかれこれ二十年以上の付き合いだ。要するにアウグストのルーヴェでのあれやこれも見てきたということだ。
「ヴァレリアが? それは確かなのかい?」
ザイエン王家のヴァレリアといえばリューベルン連邦の問題児。やんちゃが過ぎるお荷物である。皇帝もその扱いには手を焼いている。
「ええ。城の外で
アウグストの従者も彼の動向には注視している。
ゲルニー公国の公位継承権にもっともやきもきしているのはヴァレリアだからだ。ヴァレリアもゲルニー公国の継承権を有している。順位こそ高くはないけれど、彼はアウグストが公国の継承権を放棄しようと画策していることに気付いて以来、なにかと自分に譲れとゆさぶりをかけてくる。これ以上アウスバーグ
「けど、それとこれとは別問題だろう?」
これとは、現在城内に流れる空気だ。
「現在確認中です」
問題児一人アルンレイヒに入り込んだとしても、今すぐ何かをしでかすということはない……はずだ。
「いや、彼ならいきなりアルンレイヒの軍隊施設に爆弾を仕掛けるくらいのことならやってのけそうだけど」
自分で言いつつ、ほんとに彼ならやりそうで恐ろしいな、と思った。
何しろ彼はリューベルン連邦の問題児だ。ザイエン王家の跡継ぎで、がちがちの民族主義者で好戦的で野心家だ。自分で考えてげんなりした。
「殿下、どうやら……」
と、もう一人の従者が部屋に帰ってきた。
報告を受けてアウグストは顔色を無くした。
ダイラが行方不明。
レカルディーナの食事の時間になっても戻らなかったらしい。
「ああそうか。なるほどね」
アウグストは上着を手に取った。
どうやらヴァレリアが新手の嫌がらせを思いついたようだ。愉快に他人を巻き込むのが彼の悪い癖なのだ。
「アウグスト様」
リカロが口を荒げた。
非難の色が混ざっている。もちろんそんなことはわかっている。彼は反対をしている。
アウグストがこれから何をするのかわかっているからだ。
「彼女は、あなたにはなんの関係もない人間です」
「そうだね」
「でしたらあなたがここで出ていく必要もありません」
「関係ない人間だけど、昔愛した女性の娘だよ。それだけで私には十分すぎる理由だ」
ヴァレリアの読みは正しい。
アウグストはどうにも非情になりきれない。
許婚として嫁いできた妻にだってアウグストは彼なりの愛情を示した。
カテリーナへ向けたのとは違う種類の愛情だけれど、彼女との間に授かった息子にもアウグストは愛情を注いだ。
妻が何を感じていたのかは、今となってはわからない。
一国を担う人間にしては甘いと笑われるだろうが、それでもアウグストにはダイラを切り捨てることができない。もしかしたら……、と。一縷の望みを捨てたわけでなない。
彼女がもしも本当に自分の娘だったら。
最後に確かめたいことがあった。
「わかりました。私もお供します」
折れたのは長年連れ添った従者のほうだった。短く嘆息をしたあとすぐに頭を切り替えて必要な情報をアウグストに提供する。
「ありがとう。リカロ」
「アウグスト様の突拍子もない行動には慣れています」
アウグストは数人いる従者にいくばかの指示を与えて足早に城を後にした。
「おい、起きろ。女」
もちろんこのような状況下で眠れるわけもなく、ダイラは不承不承瞳を開けた。
ランプの光で顔が照らされる。ダイラはまぶしくて目をすがめた。
日は完全に落ちている。この時期の日入りの時間と照らし合わせて、大体夜の十時すぎといったところか。
あくまでもダイラの感覚のためわからない。もっと遅い時間の可能性だってある。
「ふうん。起きたら美しさ三割増しだな」
男は感動もなしにつぶやいた。
猿ぐつわをかまされた身でダイラは何も言うことはできない。
ダイラは別の男に抱えられた。
小麦粉袋でも抱えるように肩の上に担がれてダイラはむっとする。
ダイラは担がれたまま小屋から出された。
もちろんモンタニェスカ領地の狩り小屋なのだから、現在彼らは無断使用、いや占拠をしていたのだ。
「呪うならアウグストに目を付けられたことにするんだな」
偉そうな男の声に、ダイラは小さく身じろぎをした。
ランプの光だけでは彼の髪や瞳の色まではわからない。年のころはアウグストよりもいくつか年下だろう。
ダイラは男の騎乗する馬に一緒に積まれた。ヴァレリアではない方の男と同乗する。手綱を握るその顔を見上げたが、彼はダイラに無関心を貫いている。
二頭の馬が走りだす。
森の中の細い道を角灯の灯りを頼りにかなりの速度を出している。こういうことに慣れているだ。
初めての乗馬がこんな五体不満足な状態というダイラはたまったものではなかった。
揺れるしバランスを取るのは大変だし。
いっそのこと気絶したままのほうがよかった。
さすがに身体の位置がずれそうになると同乗した男が手で支えてくれるけれどそれで快適さが増すわけでもない。
しばらく馬の上に乗っていると、ダイラは森の奥でちらちらと灯りが灯るのを確認した。
それはほかの男二人も同じだったようで、馬上にいながら会話を始めた。
「ちっ。もう気づきやがったか」
ヴァレリアのほうが舌打ちをした。
彼は忌々しそうに後ろを振り返る。
「お気に入りの女官というのは本当だったようですね」
ダイラはすぐ上から視線を落とされるのを感じる。その瞳にはとくになんの感情もない事実確認のような物言いだった。ダイラが王太子妃のお気に入りということを鑑みて解放してくれる、なんて気はないようだ。
二人はそのまま会話を続ける。
「応援は?」
「足止めされているのでしょう」
「いざって時役に立たない連中だ」
「なにぶん殿下が急にこの余興を思いつかれましたので」
「ふんっ。うるさい」
けれど彼らは馬の速度を落とすことはない。
そのまま走り続けていると、突然大きな音が闇夜を切り裂いた。
おそらくは発砲音であろう。ダイラは自分の鼓動が大きく跳ね上がるのを感じた。悲鳴を上げなかったのは口元の自由が効かないからだ。
そのすぐ直後馬がいなないた。
急に馬が走るのをやめたのだ。馬は大きく前足を立てて急停止した。大きな音に驚いたのを男がなだめる。
「早いな」
ヴァレリアはくっくと喉を鳴らした。
「夜のお散歩にしてはすいぶんと急いでいるんだね」
「アウグストか。そっちの彼は相変わらず銃の腕前は一流だな」
姿を現したのはアウグストだった。
地面に降り立ったアウグストの姿をダイラは認めた。
アウグストの傍らにはいつも彼につき従う従者リカロの姿もあった。リカロは銃を構えている。彼が馬の進路を遮るように撃ったのだ。
「彼女をどうするつもりだ? ヴァレリア」
ヴァレリアは一笑した。
「どうにも。おまえがご執心だったようだから何に使えるかと思ってね。凌辱してもよかったし、首を送るのも楽しそうだな。どちらがいい? 特別に選ばせてやろう」
ヴァレリアの言葉にアウグストの表情が険しくなる。
ダイラにもヴァレリアの声が聞こえて、届いた瞬間ぞわりとした。
ヴァレリアは愉快そうに嗤って自身の懐からも銃を取りだす。
銃を構えた者同士が対峙する。
「そんな顔をされると。……どうやら本当にお気に入りのようだな。お前の子か?」
「さあね。違うと否定されたよ。ということは私の娘ではないのだろう」
アウグストはひょいと肩をすくめてみせた。
「ふうん。そのわりにはご執心じゃないか」
「そりゃあ、お城でお世話になった女官が私への嫌がらせのためだけに殺されたっていうのはね」
アウグストは務めて平静な声を出す。
「でも昔好きだった女の娘んだろう? そいつは。フラデニア女なんかのどこがいいのやら」
ヴァレリアは気のない風に話題を変えた。
アウグストは眉をぴくりとわずかに揺らした。そんなところまで筒抜けだったのか、と目の前のヴァレリアの情報網に感服する。しかしせまい城の中、噂などあっという間に広がるのだ。
「いいところじゃないかフラデニアは。文化も商業も盛んで。見習いたいものがたくさんあるし、住む人たちもいい人たちばかりだよ」
「そういうところがリューベニア民族の名折れだというんだよ。リューベニア民族という意識を持っていたら異民族に骨抜きになんてされない」
ヴァレリアは吐き捨てた。声には侮蔑が混じっている。
「今きみと民族意識について語り合うつもりはないよ」
「俺もだ」
「それよりきみ、無断でアルンレイヒに入ったんだろう。こんなところで女性を誘拐していていいのかい?」
「無断ではないさ。今モンタニェスカ領内にはうちからの使者が滞在してる。その使者の中に王家の人間が紛れ込んでいただけだ」
ヴァレリアが愉快な声を出す。
反対にアウグストは大きくため息をついた。
「きみは昔からそういうへ理屈が好きだよね。まあいいや。とにかく、彼女を返してもらう」
「嫌だね。お互いに戦力は五分と五分だ。銃を持っているのは私だって同じだ」
ヴァレリアは引き金に手をかける。
「何が目的だ?」
アウグストが慎重に質問をした。
「そうだなあ。ゲルニー公国の継承権を渡してもらうか。アウスバーグの野郎に渡すんだったら私にだって権利がある」
ヴァレリアは高い位置からアウグストを見下ろしてせせら笑った。
「きみより彼のほうが継承順位は上だよ」
対するアウグストの声はいくぶん固い。
「おまえが一言譲るっていえば済む話だろう。やつが納得しなかったから武力に出るまでだ。一発大砲玉を放り込んでやる」
「さすがに公国とダイラ嬢の命とを秤にかけることはできないよ」
少し間をおいてアウグストが一呼吸息を吸った。
その後アウグストが毅然とした声を出す。
馬上で話の行方を聞いていたダイラも、そりゃそうだろうと思った。
こんな方法で継承権が手に入っていいわけがない。
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