一章 男装始めます2
アルンレイヒの王都ミュシャレンから馬車で北に小一時間ほどの距離に建てられた離宮、アルセンサス宮殿。大宮殿リエンアール宮は三階建ての長方形をした優雅な作りの建物で約二百年ほど前の王によって建てられた。主に王族らが避暑に使う宮殿である。
アルセンサス宮殿とは大宮殿リエンアール宮と小宮殿リポト館、そして大小いくつもの趣向を凝らした庭園や牧場を総称した名称である。また、敷地すぐ隣には小さいながらも湖があり、代々の王族らはこの湖で涼むことにより夏の暑さを忘れることもあったという。
歴史あるアルセンサス宮殿内に佇む小宮殿、リポト館のとある居室。
外は初夏の日差しでまぶしいはずなのだが部屋の中は薄暗かった。カーテンがほぼ閉め切られた部屋の中にその男は佇んでいた。
「殿下。もうまもなく新しい侍従が来るとのことです」
近衛騎士隊長アドルフィートの報告を受けてベルナルドは書き物机の上に無造作に置かれた書類に目をやった。エリセオ・メデス・パニアグアの紹介だという新しい侍従の身上書である。最近まで隣国フラデニアに住んでいたというパニアグア家の親戚筋の少年とのことで、名はルディオ・メディスーニ。
ベルナルドは不機嫌を隠そうともしなかった。
あの曲者エリセオがわざわざ連れてくるのだ。どうせなにか裏があるに違いない。幼いころから付き合いのある彼のことをベルナルドは食えない男だと認識していた。
「いやぁ、これで俺もやっと激務から解放されますね」
「おまえ、そんなに忙しい身分でもないだろう」
ベルナルドの侍従をこなしているシーロがあっけらかんと言い放ったことに即座に切り返した。軽口が過ぎる侍従だが、あけっぴろげで裏表がないところが彼の美点であるし、腹の底で何を考えているかも分からないような男が側につくよりかははるかにましなのでベルナルドはシーロの不敬ともとれる言動を放置している。
「でもやっぱり休みが取りやすいほうが女の子誘いやすいですし。ちなみに今の俺の一押しはダイラちゃんです」
口を開けば年中桃色めいたことしか吐かない侍従である。
そういえば彼女もまた、あのエリセオが連れて来た女だった。ここのところ急に身辺にちょろちょろしだした侯爵家次男はいまさらながらベルナルドに取り入ろうと画策でもしているのか。
「シーロ。今はそういうことを言っている時ではない」
主が注意しない分アドルフィートが少し険しい口調でシーロを窘めた。
口を閉ざした侍従から興味を失ったようにベルナルドは部屋の床に無造作に置かれた桶の方に歩み寄った。なかには水が張ってあり、水棲の生き物が飼われている。何も考えてなさそうに好き勝手に泳ぐこいつらを見ているほうが落ち着く。
「そろそろ餌の時間だろう」
そう言うとシーロが踵を返して部屋の外へ出ていった。
どんな侍従が来ようともベルナルドは普段通りに過ごすだけだ。
ベルナルド自身この先どうしたいのか、どうするのがいいのかなんて関係なかった。ただ自分がここにいれば人々はベルナルドに何も期待をすることはないだろう。
アルンレイヒ王国第一王子ベルナルド・レムス・ローダ・アルンレイヒ。四年間フラデニアで過ごしたレカルディーナにとってその名は他の貴族令嬢らのように親しみを持った名で無く、どちらかというと新聞などでたまに名前を見かけるくらいの遠い存在だった。年齢は二十二歳で第一王子という身分だけあって次期国王となる尊いお方だ。
そんな尊い身分の人間の元に性別を偽って仕えろ、とかエリセオもまた突拍子もないことを持ちかけてきたものだ。
現在、宮殿へと向かう馬車の中。もう後には引けないレカルディーナである。寄宿舎の劇以外で初めて男ものの服に袖を通し、持たされた荷物の中身は当然男ものばかり。鏡の中の自分を覗きこめば、線の細い少年姿があって照れくさかった。自分でいうのもなんだが、けっこうさまになっているかもしれない、なんてにやけていたら兄に見られてしまい意地の悪いにやけた視線を投げられた。
そうして現在、なぜだか馬車はミュシャレンの王宮ではなくどちからというと王都から遠ざかった場所を目指して走っていた。家々が点在し、牧場や農場、森といった田舎の風景が車窓に広がっている。
ようやく馬車から下ろされたころには小一時間ほど経っていた。
「さて、ここが今日から君の職場になるアルセンサス宮殿だよ」
馬車から下りたレカルディーナは立派な宮殿を物珍しそうに見上げた。美しい三階建ての宮殿である。広大な庭園はいくつも区画が分かれており、今時分は薔薇の盛りである。妖精や聖獣をあしらった噴水はあいにくと水は流れてはいないけれど、催し物が開かれる際には惜しげもなく水が溢れるのだろう。天気も良かったので建物も輝いてみえる。
周りをきょろきょろとする妹をさっさと置いてエリセオは宮殿へと向かい、レカルディーナは慌ててそのあとを追った。
いくつかの手続きを踏んだ後、再び兄とともに馬車に乗り数分。
今度はさきほどよりもいくらかこじんまりとした館の前で馬車は停まった。小さいとはいえそれでも王都ミュシャレンの貴族の館ほどの規模はある。
兄は荷物をすべて降ろすよう御者に命じてレカルディーナを連れ立って館の中に入って行った。ベルナルド王子に仕えるのに何故こんなひっそりとした建物に案内されるのだろうか。
館の扉付近にも人はだれもおらず、呑気に鳴く牛の声が遠くから聞こえる。近くに牧場でもあるのかもしれない。
薄暗い回廊を歩くと宮殿勤めの女官とすれ違いレカルディーナは慌てて眼を伏せた。格好は男だけれど、女だとばれていないだろうか内心心臓がばくばくしていた。いまさらながらに慄いてしまう。これから一年本当に女だとばれずに過ごせるのだろうか。バレたら強制送還その後直ちに結婚である。心臓が口から飛び出しそうなくらい緊張している。
エリセオはそんな妹の心中などまるで気にしないような軽快な足取りで前を歩き、ある扉の前で立ち止まった。扉を叩くと、少しの間の後に中から扉が開かれた。明るいニンジン色の髪の毛をした青年が姿を見せた。人好きのする人相で、レカルディーナは内心少し安心した。
「待ってましたよ、パニアグア卿。こちらが例の新しく仕える侍従ですか」
青年はそう言ってレカルディーナのことを物珍しげに上から下まで見つめてきた。視線を受けたレカルディーナの顔は青くなる。
(もしかしてばれてる? 女だってばれてる? 今すぐ逃げ出したい)
「ああ、僕の遠縁でね。ちょっと社会勉強がてら王子のもとに置かせてもらおうと連れてきたんだよ。で、彼は奥かな?」
レカルディーナの緊張などおかまいなしにエリセオは青年の言葉に返事をした。
「ええ。ご案内します」
そろりと踏み出した室内はカーテンが閉め切られているせいもあって薄暗かった。書架のこの時期にカーテンを引きっぱなしなんて何を考えているのだろう。
続き間の手前の扉で立ち止まり再び青年が扉を叩いた。
「ベルナルド殿下。パニアグア卿がお見えです」
青年の問いかけに返事はなかったが、それも承知の上なのか青年は扉を開いた。とくに気にした様子も無くそのまま前二人が前進するのでレカルディーナも後に続いた。
室内は異様な有様だった。
まず床の上に本がたくさん積みあがっていた。
桶もいくつもあった。水が張ってあり、桶の上には網が張ってあった。
壁際の棚にはガラスでできた大きなケースがいくつも置かれている。もちろんこちらのカーテンもほぼ閉め切られており、申し訳程度の明かりとりのためにほんの少しだけ開いている程度である。
室内の光景にさきほどとは違う意味でどくどくと鼓動が激しくなってきた。
「殿下。新しい侍従を連れてきましたよ。僕の親せきで、名前はルディオ。この間学校を卒業したばかりでして、世間勉強の為に預けます。どうぞ使ってやってください」
エリセオがにこやかな態度で声をかけると、どこからか布ずれの音がした。
え、この部屋に殿下がいらっしゃる? レカルディーナは辺りをきょろりと見渡したが見つけ出せない。殿下、もしかして隠れてらっしゃる? 部屋が薄暗くてよくわからなかった。
「……何を考えている? エリセオ」
どこからか不機嫌そうな抑揚のない声が返ってきた。
やっぱりどこかにいるらしい。
「何も。殿下、この間も侍従に逃げられて不便そうだったので連れてあげたんですよ」
「逃げられたんじゃない。追い出したんだ」
「あはは。そういうことにしておきましょう。ま、こいつ元気だけはいいですからどうぞこき使ってやってください。では、僕はこれで。一応引きこもりの殿下とは違って僕は軍での仕事もありますしね」
王子相手になんて口のきき方だ、とレカルディーナは内心突っ込むが、もっと聞き捨てならない言葉が聞こえたような気がして今はそれどころではなかった。間違いでは無ければいま、引きこもり、と聞こえた気がする。
兄はすたすたと部屋を後にしようとしている。レカルディーナは咄嗟にエリセオを追いかけようとしたが腕をがしっとニンジン色の頭をした青年に掴まれて笑顔で凄まれた。
「殿下に御挨拶」
「あ、えっと。はじめまして、ルディオ・メディスーニと申します。本日からお仕えしますのでよろしくお願いします」
どこに向かった挨拶をしたらいいのかもわからず、とりあえず真正面に向かってお辞儀をした。一拍のち、もぞりと黒いものが起き上がった。
レカルディーナがお辞儀をした正面でなく、右方向の本棚にもたれかかり床に座り込んでいた青年が立ち上がったのだ。
黒い髪に黒い上着に黒い下衣。中途半端に伸びた黒髪からは不機嫌そうな薄茶の瞳がレカルディーナを捕らえていた。王子とまとめに目を合わせてしまいレカルディーナは慌てた。まっすぐ射抜くような視線を受け、体の芯まで見抜かれたような錯覚に陥った。後ろめたいことがあるせいか、呼吸がうまくできているのかもわからない。
ベルナルドは感情のこもっていない目でレカルディーナを睨みつけ、無言のままふいに視線を逸らせた。興味を失ったように奥の扉から出ていってしまった。
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